岡田麿里 『学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで』読了
家のテレビにハードディスクをつないだらいままでよりも簡単に大量の番組を録画できるようになった。ハードディスクではもっぱら映画を撮っている。
そんな中、一連のアニメで、「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」「心が叫びたがってるんだ。」「空の青さを知る人よ」という映画を録画して観ていた。
それぞれけっこう有名らしく、原作者が同じ人で、舞台となった秩父地方はファンの中では聖地となっているそうだ。
ストーリーは、それぞれ、「あの日・・・」は、子供のころの同級生の死を心の底にわだかまりとしてもっていた子供たちがそれを乗り越えて成長してゆく物語。
「心が・・」は子供のころに発した小さな言葉が両親の離婚の原因となり、それ以来言葉を発せなくなった少女が友達の力を借りながら克服してゆく物語。
「空の・・」は故郷である秩父から抜け出したい少女が、先輩たちの言動から新たな地元の魅力に気づくという物語だ。
オタクなアニメといってしまえばそれまでだが、取り上げているテーマは複雑で深刻だ。自意識過剰で自己肯定感に欠ける僕にとってはそれそれの物語の登場人物たちの気持ちはかなり理解できる。
そのような物語を書いた原作者が自分の生い立ちを綴ったのがこの本だ。
著者は小学生のころから不登校が始まり高校生になるころにはほとんど学校へは行かなくなった。
最初の原因はいじめだった。それからクラスメイトとのコミュニケーションの不調によりますます登校ができなくなる。中学時代、自分で仮のキャラクターを作りそうふるまうことでなんとかクラスメイトとのコミュニケーショを復活させることができたが、それも、これは本当の自分ではないと思い始めると偽の自分を続けることができずにふたたび不登校に戻る。
高校に入ると半年後にはまた不登校になりそれから約2年半、学校の大きな行事以外は登校しない生活を続けた。
高校時代の恩師の奥さんとの会話の中、勢いで「私、やりたいことがあるんです。ゲーム学校に入りたいんです。」ととっさに口に出たとおりに東京の専門学校に通うことになる。『服を選ぶようになんとなく「ここかな」と思っただけの学校』であった。
秩父の町を出たいという願望がかなったことと、ゲームの専門学校という一風変わった環境が合ったのか、ここでは不登校にならずに無事卒業。
その後はシナリオライターを目指してフリーで仕事を獲得してきた。エロのVシネマの脚本からキーボードを使えない脚本家の代理でストーリーをタイピングしたりとなんでもこなした。そして本格的にアニメのシナリオの仕事獲得してゆく。
先に揚げた作品は著者の原体験をもとにしてオリジナルの脚本として書かれているとのことだ。
普通、不登校とか登校拒否とかいうと、永遠に世間から身を隠して生きていく運命にあるのではないかと思うけれども、著者は違った。アニメの主人公たちもそうであったが、 “今”からなんとか抜け出したい、そういう心のなかでもがき続けている。それがある人の出会いや小さなきっかけで厚い殻を破ることができる。それを本人も実践してきたということだろう。
著者は時おり、布団を頭からかぶって大声で叫んでいたそうだ。そう、このひとは叫ぶだけのエネルギーを内に秘めていたのだ。
『自分が納得して好きだと思わないと本気になれない。それでもいつもどこかは冷めている』といいながらも、『自分でも気付かなかった熱血因子を持っていた。仕事に関しては「逆行とか、努力友情勝利とかに盛り上がってしまう。』
そして、人との距離感に迷いながらも、『監督の指揮のもと、それぞれが自分の場所でベストを尽くす。そして最終的に、皆の本気を集めて一つの作品を作り上げる。他社との関わりにずっと苦手意識を持ちながら、他者との繋がりに飢えていた私にとって、アニメという仕事はその舞台裏までも強烈に魅力的だった。』というほど仕事にのめりこむ。
「天職」というものがそれそれの人にあるのかどうかはしらないけれども、著者ならきっと、それがシナリオライターという仕事でなくてもどんな仕事でもどこかにやりがいを見出していたのに違いない。
そこがふつうの引きこもりとは違うところだろう。そして僕とも・・。
そんな話を読んでいると、人間には自己を肯定できる人間と肯定できない人間の2種類に分けることができると思い至る。
そして、自己肯定感の強い人間というのは、たとえ自分がどんな人間であっても必ず幸せに生きてゆけるのに違いないと思うのだ。
たとえば、僕の斜め前に座っている同僚だ。体重が自称98キロの同僚なのだが、いつも異様な体臭を発している。例えていうなら、最近は天王寺界隈でも見ることがなくなったレゲエのおじさん(いわゆる浮浪者という人たちだ)のような臭いだ。もっと単純に例えるなら、10日間くらいお風呂に入らないとおそらく僕の体からも発してくるような臭いだ。
南海電鉄で通勤しているらしいが、周りの人に何か言われたことはないのだろうかと疑問に思う。
先日は超強力な臭いだったので目まで染みてきてチカチカしてきた。多分アンモニア成分も混ざっているのだろう。彼の席の後ろには窓があり、風が入るとこっちにもっと漂ってくるので思わず窓を閉めさせてもらったくらいだ。
接客業とはいえ、ほとんどお客の前に出ることはないけれどもそれでもたまには相手をすることがある。そんなとき、お客は臭いを感じないのだろうか・・。幸いにして苦情にまで発展したことはないようだが。
悪臭の度合いは日ごとに違うような気がするが、彼は風呂に入らない日があったりするのだろうか。僕は体重が90キロ近くあった頃があるけれども、その頃の自分の体格と比べてみると、どう見ても110キロ以上はありそうな感じなので毎日お風呂に入ったとしても脂肪のヒダヒダの間にある悪臭の元は取り切れないのかもしれない。
「あなた、ものすごく臭ってますよ。」と指摘をしてやりたいのだが、それって何かのハラスメントになってしまうのではないかと思うとそうもできない。
また、彼はこんなクズの集まりの中の一員でありながら、自分は優れた能力を持っていて間違いを犯さないと思っているふしがあるのでまさか自分が一般的にはありえないほどの悪臭を放っているということなどを認めるわけにはいかないのだろう。しかし、こういう生き方ができる人というのはきっと何の悩みもないというか、自己肯定感がすごいというのか、ものすごくうらやましいと思うのだ。だから彼は絶対に自分のことをくだらない人間だと思うことは死ぬまでないのだろう。そうでなければあんなに太れることもない。アラビア風の衣装を着せればそのままハクション大魔王になれそうだもの。
臭いというのは目に見えない。そうなると、この人が近くに座っているだけで何か臭ってくるような錯覚に陥る。そして、その臭いを自分も発しているのではないかとか思うほど僕には自己肯定感がない。
そんなことを思っていると、僕は逆に一生何かに満ち足りているというような感覚を覚えないまま死んでいくしかないのではないかと思うのだ。
僕もそれほどというか、かなり世間になじめずに生きてきたように思うので、著者の言葉に共感するところがいくつもあった。
『わたし、自信がある人って苦手でなんです。』
会社でも、家族でも、そんなに自信を持って人にものが言えるということがうらやましくて仕方がない。いつも何かをミスしているんじゃないかとおびえている自分からは想像ができない。これはひとつには僕の記憶力があまりにも悪すぎるから何かのミスを指摘されても、それがどんなプロセスでミスをしてしまったかということがわからない。これこれこういう理由でこうしたのでミスしたことは仕方がありませんが、意図的ではなかったです。くらい理路整然と言い訳ができればいいのだが、僕みたいな人間は、『いじめられる側にどうしても回ってしまう自分には、抗いようのない欠点があるのだろうと自覚していた。』となってしまう。
だから、こっちが逆に指摘しようにも自信がないのでそれができないので舐められる。
著者のように、大声で叫ぶだけのエネルギーと気力があれば乗り越えられるのだろうけれども、そんな力はどこにも残っていない。
あと4年、なんとかエンストしないで動けるように回転数は控えめでいかねばと思うのだ。
家のテレビにハードディスクをつないだらいままでよりも簡単に大量の番組を録画できるようになった。ハードディスクではもっぱら映画を撮っている。
そんな中、一連のアニメで、「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」「心が叫びたがってるんだ。」「空の青さを知る人よ」という映画を録画して観ていた。
それぞれけっこう有名らしく、原作者が同じ人で、舞台となった秩父地方はファンの中では聖地となっているそうだ。
ストーリーは、それぞれ、「あの日・・・」は、子供のころの同級生の死を心の底にわだかまりとしてもっていた子供たちがそれを乗り越えて成長してゆく物語。
「心が・・」は子供のころに発した小さな言葉が両親の離婚の原因となり、それ以来言葉を発せなくなった少女が友達の力を借りながら克服してゆく物語。
「空の・・」は故郷である秩父から抜け出したい少女が、先輩たちの言動から新たな地元の魅力に気づくという物語だ。
オタクなアニメといってしまえばそれまでだが、取り上げているテーマは複雑で深刻だ。自意識過剰で自己肯定感に欠ける僕にとってはそれそれの物語の登場人物たちの気持ちはかなり理解できる。
そのような物語を書いた原作者が自分の生い立ちを綴ったのがこの本だ。
著者は小学生のころから不登校が始まり高校生になるころにはほとんど学校へは行かなくなった。
最初の原因はいじめだった。それからクラスメイトとのコミュニケーションの不調によりますます登校ができなくなる。中学時代、自分で仮のキャラクターを作りそうふるまうことでなんとかクラスメイトとのコミュニケーショを復活させることができたが、それも、これは本当の自分ではないと思い始めると偽の自分を続けることができずにふたたび不登校に戻る。
高校に入ると半年後にはまた不登校になりそれから約2年半、学校の大きな行事以外は登校しない生活を続けた。
高校時代の恩師の奥さんとの会話の中、勢いで「私、やりたいことがあるんです。ゲーム学校に入りたいんです。」ととっさに口に出たとおりに東京の専門学校に通うことになる。『服を選ぶようになんとなく「ここかな」と思っただけの学校』であった。
秩父の町を出たいという願望がかなったことと、ゲームの専門学校という一風変わった環境が合ったのか、ここでは不登校にならずに無事卒業。
その後はシナリオライターを目指してフリーで仕事を獲得してきた。エロのVシネマの脚本からキーボードを使えない脚本家の代理でストーリーをタイピングしたりとなんでもこなした。そして本格的にアニメのシナリオの仕事獲得してゆく。
先に揚げた作品は著者の原体験をもとにしてオリジナルの脚本として書かれているとのことだ。
普通、不登校とか登校拒否とかいうと、永遠に世間から身を隠して生きていく運命にあるのではないかと思うけれども、著者は違った。アニメの主人公たちもそうであったが、 “今”からなんとか抜け出したい、そういう心のなかでもがき続けている。それがある人の出会いや小さなきっかけで厚い殻を破ることができる。それを本人も実践してきたということだろう。
著者は時おり、布団を頭からかぶって大声で叫んでいたそうだ。そう、このひとは叫ぶだけのエネルギーを内に秘めていたのだ。
『自分が納得して好きだと思わないと本気になれない。それでもいつもどこかは冷めている』といいながらも、『自分でも気付かなかった熱血因子を持っていた。仕事に関しては「逆行とか、努力友情勝利とかに盛り上がってしまう。』
そして、人との距離感に迷いながらも、『監督の指揮のもと、それぞれが自分の場所でベストを尽くす。そして最終的に、皆の本気を集めて一つの作品を作り上げる。他社との関わりにずっと苦手意識を持ちながら、他者との繋がりに飢えていた私にとって、アニメという仕事はその舞台裏までも強烈に魅力的だった。』というほど仕事にのめりこむ。
「天職」というものがそれそれの人にあるのかどうかはしらないけれども、著者ならきっと、それがシナリオライターという仕事でなくてもどんな仕事でもどこかにやりがいを見出していたのに違いない。
そこがふつうの引きこもりとは違うところだろう。そして僕とも・・。
そんな話を読んでいると、人間には自己を肯定できる人間と肯定できない人間の2種類に分けることができると思い至る。
そして、自己肯定感の強い人間というのは、たとえ自分がどんな人間であっても必ず幸せに生きてゆけるのに違いないと思うのだ。
たとえば、僕の斜め前に座っている同僚だ。体重が自称98キロの同僚なのだが、いつも異様な体臭を発している。例えていうなら、最近は天王寺界隈でも見ることがなくなったレゲエのおじさん(いわゆる浮浪者という人たちだ)のような臭いだ。もっと単純に例えるなら、10日間くらいお風呂に入らないとおそらく僕の体からも発してくるような臭いだ。
南海電鉄で通勤しているらしいが、周りの人に何か言われたことはないのだろうかと疑問に思う。
先日は超強力な臭いだったので目まで染みてきてチカチカしてきた。多分アンモニア成分も混ざっているのだろう。彼の席の後ろには窓があり、風が入るとこっちにもっと漂ってくるので思わず窓を閉めさせてもらったくらいだ。
接客業とはいえ、ほとんどお客の前に出ることはないけれどもそれでもたまには相手をすることがある。そんなとき、お客は臭いを感じないのだろうか・・。幸いにして苦情にまで発展したことはないようだが。
悪臭の度合いは日ごとに違うような気がするが、彼は風呂に入らない日があったりするのだろうか。僕は体重が90キロ近くあった頃があるけれども、その頃の自分の体格と比べてみると、どう見ても110キロ以上はありそうな感じなので毎日お風呂に入ったとしても脂肪のヒダヒダの間にある悪臭の元は取り切れないのかもしれない。
「あなた、ものすごく臭ってますよ。」と指摘をしてやりたいのだが、それって何かのハラスメントになってしまうのではないかと思うとそうもできない。
また、彼はこんなクズの集まりの中の一員でありながら、自分は優れた能力を持っていて間違いを犯さないと思っているふしがあるのでまさか自分が一般的にはありえないほどの悪臭を放っているということなどを認めるわけにはいかないのだろう。しかし、こういう生き方ができる人というのはきっと何の悩みもないというか、自己肯定感がすごいというのか、ものすごくうらやましいと思うのだ。だから彼は絶対に自分のことをくだらない人間だと思うことは死ぬまでないのだろう。そうでなければあんなに太れることもない。アラビア風の衣装を着せればそのままハクション大魔王になれそうだもの。
臭いというのは目に見えない。そうなると、この人が近くに座っているだけで何か臭ってくるような錯覚に陥る。そして、その臭いを自分も発しているのではないかとか思うほど僕には自己肯定感がない。
そんなことを思っていると、僕は逆に一生何かに満ち足りているというような感覚を覚えないまま死んでいくしかないのではないかと思うのだ。
僕もそれほどというか、かなり世間になじめずに生きてきたように思うので、著者の言葉に共感するところがいくつもあった。
『わたし、自信がある人って苦手でなんです。』
会社でも、家族でも、そんなに自信を持って人にものが言えるということがうらやましくて仕方がない。いつも何かをミスしているんじゃないかとおびえている自分からは想像ができない。これはひとつには僕の記憶力があまりにも悪すぎるから何かのミスを指摘されても、それがどんなプロセスでミスをしてしまったかということがわからない。これこれこういう理由でこうしたのでミスしたことは仕方がありませんが、意図的ではなかったです。くらい理路整然と言い訳ができればいいのだが、僕みたいな人間は、『いじめられる側にどうしても回ってしまう自分には、抗いようのない欠点があるのだろうと自覚していた。』となってしまう。
だから、こっちが逆に指摘しようにも自信がないのでそれができないので舐められる。
著者のように、大声で叫ぶだけのエネルギーと気力があれば乗り越えられるのだろうけれども、そんな力はどこにも残っていない。
あと4年、なんとかエンストしないで動けるように回転数は控えめでいかねばと思うのだ。
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