イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

中言神社を訪ねる。

2015年11月06日 | Weblog
今日は連休の4日目、気温も高く釣りにも行きたいところだが、かねてから訪ねてみたいと思っていた中言神社を自転車で訪ねてみた。
“なかごとじんじゃ”と読む。調べてみると、“中言”とは神と人との中を言葉でつなぐという意味があるそうだ。
祭神は名草彦命、名草姫命の2柱。二人の関係はあまりよく分かっていないらしい。夫婦だったのか、兄妹だったのか・・・。どちらにしても名草山を中心とした地域を治めていた一族だったらしい。去年訪ねた名草戸畔との関係もよくわからないが、名草戸畔=名草姫命という説もあるらしい。
どちらにしても、神武天皇に敵対して敗れた一族だ。
かつては名草山を囲んで10を超える中言神社があったらしい。それほどこの地域では篤く信仰されていたということだ。


まずは神前の東にある中言神社へ。

 

小さい神社ながらもきれいに整備されている。

続いて竈山神社へ。ここは神武天皇の兄である彦五瀬命を祀った神社。言うならば勝者側の神社だ。



造りをみてもさすがに勝者側という立派な造りだと改めて感じる。

そのまま海南市にあるもう一つの中言神社へ。

こちらは漆の街、黒江の真っただ中にある。神前に比べると大きく立派な神社だ。近くには清酒「黒牛」の造り酒屋があるが、ここから出る水を使って醸し出されているそうだ。

 

ついでに黒江の街中を散策。



小さい頃、正月になるとこの辺りにやってきた。父と母の仲人さんがここに住んでいたのだ。見合いで結婚した両親であるが、母親を紹介されたとき、この仲人さんの言った、「ソ連のブルドーザーみたいに丈夫な人だ。」という一言で結婚を決めたそうだ。どうしてアメリカ製ではなくてソ連製だったのか、本当にソ連のブルドーザーは丈夫なのかという謎はいまだに解明されていない。ただ、母親は確かに丈夫だ。
ここのお母さんは料理が上手だったようで、毎年立派なおせち料理をごちそうになっていた。当時の街並みの面影はどんどん消えてゆき、通りを挟んで2階同士を桟橋のようなものでつなげた風景は1か所しかみつけることができなかった。



これは漆器を分業で作っていたなごりで、次の工程のところへ運ぶのに1階へ降りるのが面倒くさいので2階同士をつなげたものだということだ。


そこからついでに吉原神社へ。ここも名前は違えど名草彦命、名草姫命を祀っているらしい。

相当荒れ果ててしまっている感じだが、舞の舞台まであるような立派な神社であったようだ。



まあ、漆喰が落ちてしまって土と補強の瓦がむき出しになっている風景もこれはこれで風情があるというものだ。

そこから一気に港へ、途中の和歌川の干潟はひねもすのたりという風景だ。



船の点検を終えていつものスーパーへ。驚き価格のパスタを買って帰宅した。





追記:
ブログを書くために色々調べていたら、もうひとつ同じ名前の神社を見つけた。それほど遠くないので翌日早速訪ねてみた。
吉原というところにあるこの神社が元祖でみんなここから分祀されたものらしい。

 

ここも神主はいないようだがすごくきれいに手入れされていた。
南紀の方では氏子が少なくなって維持できない神社が多数あるとニュースで紹介されていた。
地域の共同体としての要の部分がこういった宗教施設であるというのは日本も世界も変わらない。別の意味では共同体の範囲の中で生きるということが一番幸せなのかもしれない。プライバシーがないとかどうとか言われるが、人間とネズミではそれほど遺伝子の配列が違うわけではないはずで、なにかにくっ付いていないと不安になるものだ。知性が少ないネズミではそれが壁だったりするが、知性が発達した人間では精神の寄り添いだろう。
それを無くした輩たちがおかしな行動をするようになる。SNSでつながりを求めようとするのはそういう本能的なものなのかもしれない。

僕自身も新興住宅地の住人で、土地に根差した生き方をしていない。守るべき場所をもうひとつもっている人たちはきっと幸せなんだろうなと思うポタリングだった。




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