望月 信成 , 佐和 隆研 , 梅原 猛 「仏像―心とかたち 」読了
多分、梅原日本学というのはこの本から始まったのかもしれない。梅原猛が仏教に造詣を深めるきっかけになったのが50年ほど前にNHK教育テレビで「仏像-心とかたち」という番組の進行役を務めたことだという。その内容を書籍化したものがこの本だ。
日本に仏教が伝わり、そこでどのように変化し、どの部分が特化されていったかという検証をさまざまな仏像を通しておこなっている。
如来、菩薩を取り上げているのが上巻だ。
如来編では、釈迦像のうち苦行時代の像が少ないこと、これは自分が苦行するより人々を助けようという気持ちが強く表れた名残りであり、薬師如来という現世利益を求めた信仰の流行もこの人々を助けなければという気持ちのあらわれで、その後の阿弥陀信仰の高まりはそれでも助からない人々の支えとして来世を夢見させなければならなかった。
そんな生きづらい世界を生きた人々の願いの変遷が見られると説明している。
それと平安以降あまり省みられなくなった大日如来。
大日如来は梅原猛にとって非常にこころ引かれる仏像らしい。それは日本のアニミズムと強く結びつき、仏教が移入される前の日本人の一番最初の心がそこに残っているからという理由だ。
貴族の仏教であり、また、呪術をつかうという胡散臭さが民衆へは受け入れられてこなかったが、現代、再び高野山が脚光を浴び、密教の神秘さ、思想が見直されてきたというのは日本人が日本人らしさを忘れてしまったことの反作用なのではないのだろうか。
梅原猛は、真言密教は鎌倉仏教とは異なり、「来世に期待をするのではなく、今を力強く生きよ。」と教えているという。
どちらの生き方がよいのか・・・。
菩薩編では聖観音が十一面、千手観音へ変化しながら大衆へ浸透しなければならなかった理由を、時代背景を追いながら解説されている。
もっと助けてほしい、しっかり受け止めてほしい、そんな願いがさまざまな利益を授けてくれる菩薩を作り出し、観音様は顔を増やし、目を増やし、手を増やして衆上を見守り受け止める。異形に変化していったことこそが、広く民衆に浸透していた証だということだ。
そこには大胆ではないものの、やはり梅原猛独特の検証が見られるように思うのだ。下巻を読むのが楽しみだ。
しかし、しんどいのはいや、すぐにご利益がないとこれもまたいや・・・。なんだかわがままばっかりの感じだが、逆にいうと、このサービス精神の旺盛さが日本のテクノロジーやおもてなしの精神を生んだ要因になっているようにも思う。
別の面で考えると、日本の文化や習慣というのは往々にして仏教の教えがベースになっているのは間違いのないことで、その文化を生み出した根源は生きてゆくことの苦痛や悩みなどネガティブなことばかりであったように見える。
いくつかの本を読んで、人が生きてゆくことは困難と苦痛ばかりで、それがなければただの平べったい無味乾燥した世界が広がっているだけになってしまうのだということを知ったが、それはそれでなんだか辛いような気がする。
そうなると、世界平和や社会に渦巻くいろいろな問題、小さくは僕の会社の無理、難題なども何をどうしてもどうなるものではなくて、それでは放っておいてもいいのではないだろうかということになる。でもそこに少しでもかかわるのが生きることを実感することになるのなら、いやだな~と思う気持ちをどこか別のところに置いておいてそんなことにも手を付けるというのが正しい生き方であったりするのだろうか。
そういえば、会社の中で飄々と仕事をこなしている人たちを見ると、嫌なことや、叱られるようなこともあまり意に介していないように見える。
こんな人たちはきっと何度かの輪廻の末に悟りを持った人だと思って僕はあきらめるとしよう。
多分、梅原日本学というのはこの本から始まったのかもしれない。梅原猛が仏教に造詣を深めるきっかけになったのが50年ほど前にNHK教育テレビで「仏像-心とかたち」という番組の進行役を務めたことだという。その内容を書籍化したものがこの本だ。
日本に仏教が伝わり、そこでどのように変化し、どの部分が特化されていったかという検証をさまざまな仏像を通しておこなっている。
如来、菩薩を取り上げているのが上巻だ。
如来編では、釈迦像のうち苦行時代の像が少ないこと、これは自分が苦行するより人々を助けようという気持ちが強く表れた名残りであり、薬師如来という現世利益を求めた信仰の流行もこの人々を助けなければという気持ちのあらわれで、その後の阿弥陀信仰の高まりはそれでも助からない人々の支えとして来世を夢見させなければならなかった。
そんな生きづらい世界を生きた人々の願いの変遷が見られると説明している。
それと平安以降あまり省みられなくなった大日如来。
大日如来は梅原猛にとって非常にこころ引かれる仏像らしい。それは日本のアニミズムと強く結びつき、仏教が移入される前の日本人の一番最初の心がそこに残っているからという理由だ。
貴族の仏教であり、また、呪術をつかうという胡散臭さが民衆へは受け入れられてこなかったが、現代、再び高野山が脚光を浴び、密教の神秘さ、思想が見直されてきたというのは日本人が日本人らしさを忘れてしまったことの反作用なのではないのだろうか。
梅原猛は、真言密教は鎌倉仏教とは異なり、「来世に期待をするのではなく、今を力強く生きよ。」と教えているという。
どちらの生き方がよいのか・・・。
菩薩編では聖観音が十一面、千手観音へ変化しながら大衆へ浸透しなければならなかった理由を、時代背景を追いながら解説されている。
もっと助けてほしい、しっかり受け止めてほしい、そんな願いがさまざまな利益を授けてくれる菩薩を作り出し、観音様は顔を増やし、目を増やし、手を増やして衆上を見守り受け止める。異形に変化していったことこそが、広く民衆に浸透していた証だということだ。
そこには大胆ではないものの、やはり梅原猛独特の検証が見られるように思うのだ。下巻を読むのが楽しみだ。
しかし、しんどいのはいや、すぐにご利益がないとこれもまたいや・・・。なんだかわがままばっかりの感じだが、逆にいうと、このサービス精神の旺盛さが日本のテクノロジーやおもてなしの精神を生んだ要因になっているようにも思う。
別の面で考えると、日本の文化や習慣というのは往々にして仏教の教えがベースになっているのは間違いのないことで、その文化を生み出した根源は生きてゆくことの苦痛や悩みなどネガティブなことばかりであったように見える。
いくつかの本を読んで、人が生きてゆくことは困難と苦痛ばかりで、それがなければただの平べったい無味乾燥した世界が広がっているだけになってしまうのだということを知ったが、それはそれでなんだか辛いような気がする。
そうなると、世界平和や社会に渦巻くいろいろな問題、小さくは僕の会社の無理、難題なども何をどうしてもどうなるものではなくて、それでは放っておいてもいいのではないだろうかということになる。でもそこに少しでもかかわるのが生きることを実感することになるのなら、いやだな~と思う気持ちをどこか別のところに置いておいてそんなことにも手を付けるというのが正しい生き方であったりするのだろうか。
そういえば、会社の中で飄々と仕事をこなしている人たちを見ると、嫌なことや、叱られるようなこともあまり意に介していないように見える。
こんな人たちはきっと何度かの輪廻の末に悟りを持った人だと思って僕はあきらめるとしよう。