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イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「図説 あらすじでわかる!日本の仏」読了

2016年07月25日 | 2016読書
速水 侑 「図説 あらすじでわかる!日本の仏」読了

虚空蔵菩薩は一度見たこと、聞いたことは絶対に忘れないそうだ。
仏像を鑑賞する機会があるとき、少しでも知識があればもっとその意味を深くかみしめながら観ることができるのではないかといくつかの本を読んできたが、これがまったく記憶の中に落ち着かない。
情けないことだが、これは学生時代から今までずっとそうだった。英単語から歴史上の人物、数学の問題パターンまで、まったく覚えられない。なんとか大学には入れたが、僕は人の3倍くらいはこれらのことを覚えようと努力したのではないだろうか。人並みの記憶力があればもっと偏差値の高い大学も夢ではなかったかもしれないと今でも悔やまれる。今でも人の名前がなかなか覚えられない。これは仕事の上ではまったく不利に働く。

「念ずると助けてくれる。」これが日本の仏様の基本だ。とにかくたくさんの仏様がそれぞれのご利益を持っていろいろなお寺に鎮座されている。釈迦が説く人生とは、苦しいことそのものだということだ。実際そのとおりでだからなんとか救ってほしいという願いが偶像になって現れたのがこれらの仏様なのだが、読み進めるうちに、こんなに助けてもらうだけでいいのだろうか?なんていう思いが沸いてくる。念ずるだけで助けてくれるというのはあまりにも安直で、それ以上何の努力もしなくなってしまうのではないだろうか?
キリスト教にせよ、イスラム教にせよ、偶像崇拝を禁じている。目の前に助けくれる対象があればそれに頼り切ってなにもしなくなる。だからそれを禁じているという面もあるだろう。
両方とも一神教だから仏教みたいにいろいろなキャラクターが出てこないので、偶像があってもあまり面白くないといえば面白くないので、じゃあ、最初からやめておこうなんていう考えもあったりもするのだろうが・・。

仏教が東の端までたどり着いて花が咲きいろいろな仏像が生まれ、その延長上にアニメやキャラクターの文化があるのではないかといつも思っている。四天王なんてそのまんまガンダムみたいだし、ウルトラ兄弟はどことなく如来様みたいに見える。今は二次元というらしいが、そういうものに耽溺しすぎるということは人間として生きてゆく気力のようなものをどんどんそぎ落としてしまうようなどこか危険なところをはらんでいるような気がする。
まさに玩物喪志だ。
いまや外国人からもクールジャパンといってもてはやされ、それらがスマホと癒合して人の心を侵しつつある。もうすぐ現実の世界と空想の世界の重要性が逆転する。
ちょっと前からポケットに入る怪獣を捕獲するゲームが社会問題になりつつあるが、現実の世界を空想の世界とすり替える大きなたくらみのひとつのような気がする。これも人間という有機物で構成された炭素体ユニットを必要としなくなった遺伝子のなせる業だったりしないのだろうかと杞憂な思いを抱くのはぼくだけだろうか。

今の勤務先の近くには有名な虚空蔵菩薩を祀っているお寺があるそうだ。
もう少し涼しくなったら、とりあえずご利益をもらいに行ってみようと思っている。



「生物の意味論」読了

2016年07月09日 | 2016読書
多田富雄 「生物の意味論」読了

この本は以前に読んだ、「免疫の意味論」の続編として書かれたものだ。
相変わらず専門用語はまったくわからない。主題は “自己”とは何かということを遺伝子、免疫系を中心に語られている。

人間を含めて多細胞生物は受精卵の細胞分裂が始まった胞胚という状態になったときにたったひとつの遺伝子が発現する。それが引き金になって連鎖的に次々と遺伝子が発現し生物の形が出来上がってゆく。設計図はDNAの上に書かれているが遺伝子の発動は曖昧であるである。だから一卵生の双生児でもまったく同じ外見にはならない。受精したときにすべてが決まっているというわけではないらしい。同じプラモデルを作っても作る人が違うと出来上がりも違うというのと同じことだ。

次に免疫系。免疫というのはひとつひとつの異物にひとつずつの受容体をもって対応することになっている。そうなると免疫細胞をつくる遺伝子がいくらあっても足りない。DNAは30億の塩基でできているそうだがそれでも足りない。そこでどんなことをやっているかというと、まず、抗体というたんぱく質を作るための遺伝子はDNAのなかでは不思議なことに飛び飛びで存在していてそれを拾いながら組み合わせて抗体を作ってゆくのだが、そこで隣の塩基を拾ったり組み合わせを変えたりして無限に近い抗体たんぱく質を作り出すのだそうだ。
これも曖昧な形で製造されてゆき、同じものを取り揃えている人はいないそうだ。だから臓器移植をするとほぼ拒絶反応が起こる。

こうやって“自己”というものが出来上がってゆくわけだがそこには指揮官はいない。まったく自発的に発動され、進化してゆく。これを著者は“スーパーシステム”という言葉で表現している。
なぜ、スーパーシステムというものが地球上で生まれたのか、そして何を目的に生まれたのか。もちろん、なぜ生まれたのかという理由がないので多分目的もない。目的はないけれどもそこで自律的、自発的、合目的に自己が成立している。
そこにはただ“自己”があるだけだ。

著者はさらにこのスーパーシステムを都市形成や企業、大学まで当てはめて考えようとする。
都市はかつて自然発生的に生まれスクラップアンドビルドを繰り返しながら進化、拡大を続けた。そしてそれぞれの都市独特の自己ともいえる特色を作り出してきた。都市にも企業にも確かに当面の目標はあっても最後の目的というものはないような気がする。企業にあるのは三か年計画だけだ。その先の目的は多分誰も知らないはずだ。以前にユ○○ロの辣腕会長のコメントを聞いてあの会社は一体どこまで行こうとしているのか?拡大し続けることに意味があるならそれは癌細胞と同じではないのかと恐ろしくなったことがある。それも人間に似ているといえば似ている。
バルセロナ、ニューヨーク、フランクフルト、すべてまるで自己を持つかのように特色を持っているという。
かたや、シンガポール、ブラジリア、東京、“都市”を作る目的で作られた都市、官僚機構を支える目的で作られた大学などは少なからず問題を抱え、自然の力に任せては永続できないように思える。
何が違うのか、曖昧さや無駄を持つかどうかの差だ。DNAの配列はその95パーセントは意味のない配列だそうだ。その配列はたんぱく質を製造できない。しかし、免疫系に代表されるように多様な自己を生み出すチャンスを持っている。それは危機に際してもなんとか生きようとするリスクヘッジである。
効率的に作られたものにはそれがない。
現代はまさに効率の時代。多様性や余裕というものがない。そこには危うさしかないように見える。多様な自己を持つはずの人間でさえ生きづらい世界になってしまった。
アリの巣のアリの四割は働かないアリだそうだ。その四割を除去するとまた残りの中の四割は働かなくなるそうだ。
しかし、この四割は巣の危機(外敵がやってきたり巣が壊れたりしたとき。)には突然働き始める。そして何億年もの間生き続けてきた。
そういうことがないと都市も企業も永続することができないということを暗示しているかのようだ。

生物学の一般向けの解説書のつもりで読み始めたが、これは哲学を語っているのではないかと思える一冊であった。


そして僕は“目的”とは何であろうかと考えを巡らせてみた。
たったひとつの細胞が知性をもって星の表面を眺めることができるようにまでなったことを考えると、きっとこれは宇宙のすべてを知るということがこの自己の目的ではないのだろうかと考えた。宇宙のすべてを記録する。それが最終の目的だったりするのではないだろうか。もし、神がこの宇宙を作ったのならこの素晴らしいシステムの存在を神様も誰かに知ってもらいたいたいのは必定だ。
しかし、自己の根元は人間ではなくて遺伝子だ。宇宙のすべてを知るのはべつに人間でなければならないことはない。いまの世界でその最適者は人間ではなく人工知能ではなかろうかと背筋を寒くした。
リチャード・ドーキンスという学者は遺伝子は利己的であり、自分だけが増殖、永続すればいいと考えている。人間でさえもただの遺伝子の乗り物にすぎない。もっといいものがあれば簡単に乗り換える。と語っている。
そうだとすればコンピューターほど最適なものはないのではないか。多様性はなくても確実に効率的にコピーを残し続けることができる。有機化合物でできた炭素体ユニットはややこしい免疫やややこしい人間関係を克服する心の強さがないと遺伝子を未来に残すことができないが、ケイ素が主体の半導体ユニットにはそんなものは必要ないような気がする。
宇宙に出ても酸素はいらないし高温でも低温でも稼働できる。宇宙を知るにも最適だ。
この本は20年近く前に書かれているから著者も人工知能、コンピューターがこれほどまでに発達するとは思ってもいなかっただろう。もし、それが予測できたのなら著者も同じことを思ったのではないだろうか。それとも生命の意味を信じる著者はやはり生命の可能性を信じるのだろうか。

僕の考えていることがいくらか正しいのだとしたら、高齢化社会、テロ、宗教の敵対、国家間の軋轢、すべては人間が邪魔になった遺伝子のたくらみではないのだろうか。スティーブン・ホーキンスもこう言っている。「自ら発展し、加速度的に自身を再設計する完璧なAI開発は人類の終焉をもたらす。」と。もう人間に抗う術はないのではないだろうか。あと20年もすると人工知能は間違いなく感情まで持つようになるそうだ。もしそうなら、自己は自己らしく、自分らしく今を生きるだけで十分なのではないだろうか。

最後にまったく関係がないことだが、化粧品の話。
似ても似つかわしくないのだが、僕は化粧品なんかも扱う仕事をしている。よく広告のコピーに、「ナノレベルでの皮膚細胞への浸透力・・・」とか、「お肌に栄養を・・・」とか書かれていることがあるが、免疫という観点から、もしナノレベルで化粧品が皮膚に入っていったり直接皮膚に栄養を与えたりしようものなら、抗体反応が働いてお肌が真っ赤に炎症を起こしてえらいことになってしまうに違いないのだ。
何年か前にカネ○ウという会社が本当に皮膚に浸透させちゃったものだから大問題になったのがその事実を物語っている。
化粧品とはお肌になんの役にも立たないからお肌にいいのであるのだが、それがどうしてあんなに高価なのだろうか。僕の職場にも12万円というのがある。
こんな高価な化粧品を見ながらいつもこんなことを思っている。

このブログを読んでいただいている女性の方というのはごくわずかだと思うが、薬局で売っているワセリンで十分なのじゃないだろうかと言ってしまうとやっぱり、叱られるんだろうな~。


「クレーマー・シンドローム―「いちゃもん化社会」を生き抜く交渉術 」読了

2016年07月03日 | 2016読書
吉野 秀 「クレーマー・シンドローム―「いちゃもん化社会」を生き抜く交渉術 」読了

たまたま立ち読みしたとき、お客様を怒らせるフレーズとして、「今後、このようなことがないよう・・・。」という言葉が挙げれられていた。これを聞いた相手は、「今後はどうでもいい、今どうするんだ!」と怒り出すというのだ。
実は、このフレーズ、僕もよく使う。とくに電話での対応の締めとしてはほぼ必ずといっていいほど使っていたので、この本を読むとなにかいい別の対応策が見つかるのかもしれないと思ったので買ってみたが、今までのクレーム本と一緒でそんなマジックワードは掲載されていなかった。

著者がどういう人かというのを調べてみると、以前に読んだ本の著者でもあった。この本も中身は大したことがなく、おまけに今回の本の中でなんとなく感じたことだが、どうもカタギのひとではないようだ。
こんな人の書いた内容を鵜呑みにして対応なんかしたらえらい目に遭うのは目に見えている。

ただ、ここ連続して読んだ2冊からわかることは、ひとつとしてクレームには同じパターンはないということだ。だから、一発で解決できる黄門様の印籠のような言葉はない。
ひょとしていくつかの的確な対応策というのがあるのかもしれないが、そんなものを掲載してそれを使った読者が対応に失敗したではないかとクレームを言ってこられては困るという理由でわざとそこは書かないでいるという穿った見方もあるのだろうが、やっぱり人が相手のことではそんなことでもないだろう。

これからも色んなクレーマーに対峙しなければならいのだろうが、そのたびに頭と心を悩ましてしまう。唯一の解決法はここから逃げ出すことだけだとはわかっているが、それもできるはずはなく、ずっと耐える日々は相変わらずだ。

「社長をだせ!」読了

2016年07月01日 | 2016読書
川田茂雄 「社長をだせ!」読了

某カメラメーカーでクレーム処理の窓口を担当していた著者のクレーム体験記と、クレーマーの分類、現代のクレーマー事情という校正になっている。

過去に読んだ3冊のクレーマー本と大きく異なるところは、クレーマーを“悪いやつ”と決め付けてそれを面白おかしく料理しているところだ。
某メーカーということだが、元ニコンの社員だということは周知の事実だそうで、これを読んだ当人たちは俺のことじゃないか?ってわかってしまうのではないかと心配になるほど克明でかつ相手をバカにしきって書いている。
これはこれで溜飲が下がる思いだが、ここでしか溜飲を下げられないのが悲しい。

著者が最前線でクレーマーと対峙していたのはかなり昔(フィルムカメラの時代)だが、クレーマーの行動パターンと心理のようなものはそれほど変わっていないらしくこんな行動パターンの人は今でもいる。
新聞広告を求めるヤ○ザ。お役所勤めの、「お前では話にならない。」。教育ボランティアは、以前にも書いたことがある、「私はあなたの会社を立派にしたくて一生懸命なの。」というひっくり返るしかない発言。子供を甘やかして育てたのでこの子の言う通りしてあげてというバカな母親。
すべて僕も体験した事実ばかりだ。
このヤ○ザなんて、黒滝村というあの自然豊かな場所でどうしてこんな輩が育つのかというのが、今思えば理解できない。

そんな分類に対する対処法については目からウロコみたいな手法は書かれていないのは、きっとこんなコンサルはそれを別な形で教えることでお金を稼いでいるわけで簡単には教えられないというこだろうから仕方がない。
少しのヒントとして、一番大切なことは、組織としてどう対応してゆくのかを企業として決めなければならないと書かれているが、これがわが社ではまったくだ。

著者はそれ専門の部署で活躍したした人だから自分が中心になって組織、情報網作りができるのだろうか、僕はそれが専門ではない。仕事のなかでは最大級の脅威だということには間違いはないのだが、何もなすすべがない。
それでもやらなけらばならないことは何がなんでもやらなければならないのではないかと言われれば言い返す言葉がない。それは庶務なり総務がするべきではないのかと思う僕は甘いのだろうか。
他人に責任を押し付けているつもりはないが、お前らもやってくれよと思いながら、クレーマーと刺し違える覚悟で部署を守る僕より、知らんぷりをしている人たちの方が順調に昇格してゆく姿を見ているとなんだかむなしくなる。
僕もそんな不合理?を晴らすべく、クレーマーと化してストレスを発散することもできずに今日も悶々としている。

どんどん生きづらくこのご時世、みんなしんどいのはわかるが、僕たちを不満のはけ口の対象にはしていただきたくないものだ。





「花伝書(風姿花伝)」読了

2016年06月29日 | 2016読書
世阿弥 (編さん)/川瀬 一馬 (翻訳)  「花伝書(風姿花伝)」読了

本書は能を極めるためにはどのようにすればよいかということを一子相伝するために世阿弥によって書かれたという、あまりにも有名な書物だ。

人の生き方にも通じるということで事業家や宗教家などによく取り上げられているので一度読んでみたいと思っていた。

たしかに、申楽(能の前身)という言葉を仕事や趣味、芸術、人生その他何にでも置き換えると、ああ、そうなんだと思えてくる。しかし、“花”というものをどう捉えるかということは難しいような気がする。単に成果なのか、それとも満足ということなのか・・・。
自分の仕事柄、相手を満足させられた結果が“花”と表現されていると考えてしまうが、どうだろう。これはきっと人それぞれで思いが違ってくるのだろうと思う。自分の仕事からくる連想を外してしまうと、きっと“イケてる”というのが“花”ということなのではないかと思ったりする。

その極め方というのは至極当たり前で、当たり前のことを当たり前のように続けなさいというのがその本質のようで、そうやって身に着けた技なりを“花”を見せたい相手に常に新鮮さをもって届けること。常に新鮮さを披露するためにはたくさんの引き出しを持っていなくてはいけない。そのたくさんの引き出しを持つために一所懸命努力するのだ。
それだけだ。
しかし、それができれば苦労はない。それができないからみんな悩むのだ。それをやり遂げたひとが成功者と呼ばれる。


そして、「秘すれば花」。この言葉はあまりにも有名な言葉だ。たくさんの引き出しを見せびらかしてはいけない。持ち駒をすべて見せてしまうと相手に飽きられる。どれだけ持っているのかわからないように振舞うのが神秘さというか人としての奥行きを感じさせる。う~ん、この辺はよくわかる。たまにそんな人と出くわすことがある。どれだけのことを知っているのだ。と興味の尽きない人が。かと言って、よくしゃべる人でも、こいつ、本当は何にも知らないのではないかとわかってしまうひともいる。これが、「秘すれば花」だと思うのだ。きっと。
ぼくも薄っぺらい人間だから、あまりしゃべってはすぐにボロがでてしまうと用心しなければと反省しきりである。

最初の章、年来稽古の章では年齢に応じた芸のやり方、磨き方ということが書かれている。ここだけは僕も実践できているのではないかと思える。40歳を過ぎると体力もなくなり難しい芸はできなくなるので、難しいことは弟子たちにやらせて自分は簡単な脇役みたいなのをしていればいいのだと。
こんなところだけは実践をしてしまっている。仕事は部下たちにみんなやってもらって、最近テレビCMで流れている、「~仕事に来てんだか、メシ食いに来てんだか、とりあえずグラぶる。」みたいな感じだ。
しかし世間ではこれを怠け者という。これからは僕は花伝書のとおり生きているのだと堂々と言っていいのだろうか・・・。
しかし、酷なことも書かれている。この、“花”を得るには若いころの鍛錬(稽古)が何より大切でそれができなかったものには“花”はない。才能も必要だ。たとえ“花”に見えたとしてもそれは一時のものであり、生涯にわたって咲きつづけるものではないと・・・。



読み進むうち、世阿弥の教え(父親の観阿弥の教え)はドラッカーの主張にも通じるところがあると思えてきた。
マネジメントは真摯さを要求し、イノベーションを起こし続けて社会貢献をするというのがその目的であると説かれているが、それに照らし合わせるとそっくりである。

若いころの一所懸命の稽古というのは真摯さに通じるだろう。そして、幽玄の位というものはもって生まれたものであって、どんなに努力をしても得られるものではないという論は、ドラッカーのいう真摯さもまたもって生まれたものであり訓練をして身につけられるものではないと同じことを言っているのではないか。
“花”を持続させるための珍しさというのはイノベーションそのものだ。
もうひとつ、申楽というものは万民の寿福増長のためにあるといっているが、これもマネジメントの真の目的が社会貢献であるということに通じる。
これが600年前に書かれたとは・・・。

世のため、人のために、自分にできる当たり前のことを当たり前に続けることが人の幸せであるというのが風姿花伝の大元のように思えてきたが、そうだとしたら、それこそが最も難しい人の生き方ではないのかと、そして今さらそんなに言われてもあとの祭りなんじゃないかと今回もまたたじたじとなってしまうのだ。


「スタア・バーへ、ようこそ 」読了

2016年06月18日 | 2016読書
岸 久 「スタア・バーへ、ようこそ 」読了

お酒は好きだが外で飲むことはまずない。
今では退社時刻も遅いし通勤時間も長くてよけいにそんな機会がなくなった。

それに宴会というのもあまり好きではない。バカ騒ぎしながらドクドクと注がれたビールをおいしいと思ったことがない。また、そこで交わされる噂と悪口ではおいしいお酒が飲めるわけがない。今まで、この人と飲むお酒はおいしいと思ったことのある人は数えるほどしかなく、また逆もしかりで、こんなに思っている気難しい人間と飲む相手も同じように思っていることだろう。

そして、お酒というのはもっと神聖であるべきだと思うのだ。もともと、お酒というのは貴重な穀物を大量に使い醸し出す。わざわざそんな効率の悪いことをしてまで醸す目的というのは、神と出会うため、奇跡を見るためだと言われている。宗教は多かれ少なかれ、奇跡を見せて信者を増やそうとする。つらい修行を積んだ人はその過程で瞑想の最中、奇跡を目にすることができるが一般人はそうはいかない。手っ取り早く奇跡を見るためにお酒が利用された。だから西洋では修道院でワインやビールが造られ、日本では神にささげる飲み物とされているのだ。バカ騒ぎしながら飲むものではないはずのものなのだ。
だから、少なくとも、今飲んでいるお酒はどこでどのように醸され、どんな由来があるのか、どんな歴史をたどってきたのか。そんなものをかみ締めながら飲まなければならないと思うのだ。

そんなことを丁寧に教えてくれそうなのがバーというところなのだろうが、貧乏人でかつ作法の知らない人間には敷居が高すぎる。家でカクテルもどきを作って楽しむのが関の山で、外での唯一の楽しみは帰りの電車の中でのむチュウハイくらいだ。




著者は銀座1丁目で「スタア・バー」というバーを経営する一流のバーテンダーだそうだ。31歳の若さでカクテルコンクールの世界一に輝き、今年の2月にはNHKの「仕事の流儀」にも出演していたらしい。多分、この業界でもかなりの有名なひとなのだろう。
年齢は僕よりひとつ下というのを知ってたじたじとなってしまう。

あたりまえのことだが、お酒に対するこだわりもものすごく、氷のカットの仕方、大きさ、コースター、おしぼり、お酒の温度(度数の強いお酒は冷凍して使ったりするそうだ。)など細かなところまでのこだわりはものすごい。
僕も一応、庭の片隅でミントを育てたり、マドラーはクロモジの木を使ったお手製だが、そこまでだ。一流と最下流の違いは銀河系の端から端までよりもはるかな隔たりがある。

僕も一度でいいから、こんなところでお酒の薀蓄をとことん教えてもらいたいものだ。


「アメーバ経営」読了

2016年06月13日 | 2016読書
京セラのアメーバ経営というと、トヨタのカンバン方式と並んで効率的ですばらしい経営手法としてよく知られている。
まあ、僕がこんな経営方法を読んだからと言ってどうということはないのだが、ずっと興味があって読みたいと思っていた。

方式は単純なもので、経営単位を細かく分け、単位ごとに収支をはじき出して効率化を求めてゆくというものだ。実はわが社でも同じようなことをやっていて、単位をアメーバと呼ぶかユニットと呼ぶかしか違いがない。
でも、どうして片や世界に冠たる企業となり片や業界でも下位のほうに燻っているのだろう。
もちろん、精度の違いは否めないところとしてあるが、実はこの本の中に頻繁に出てくる心情的な部分、そこがまったく違う気がする。システムが立派でもそれを運用する人間の心次第で業績は跳ね上がるし、どん底にもなったりする。当たり前といえば当たり前で、社員を信じきる経営者と経営者を信奉する社員の心の絆がないと何もかもうまくいかないということだ。

稲盛氏の訴えたいことは、ドラッカーの言う、「真摯さ」ということと同じだと理解した。この人は日本航空の再建にも手腕を振るったが、どうしてぜんぜん違う業界でこれだけのことができるのだろうと不思議に思ったものだが、この、「真摯さ」をどれだけ社内に浸透させるか、またその情熱とエネルギーを持っているかということなのだろう。
「信頼できる仲間同士という心の絆」
「人間として何が正しいか」
「会社が、ひとつの大家族であるかのような運命共同体となり・・」
「リーダーとは、全き人格者でなければならない。」
「予定完遂の強い意志を持って実行する。」
「筋の通らない要求に対しては、喧嘩をするくらいの激しい気迫がなくては・・・」
こんな言葉が随所に出てくる。
こんな言葉を真剣に言える人というのが本当に素晴らしい経営者ということに尽きるということだ。


ウチの会社では、僕を含めてどれだけの人が役員の方々を尊敬してついて行っているのだろう。僕は役員さんの直属ではなくもっと下のほうだからどうでもいいのだが、もっと上の人たちなんか、愚痴ではないが、ホトホト言いながら命令をこなしている。そこには信奉も尊敬もないような気がして僕には到底できそうにない。諦めに似たようなものしか感じない。どうしたら滅私奉公できるのだろうか?それが大人ということだろうか?

つい最近、自動車の燃費偽装で対照的なメーカーの記者会見があったが、一方は社員のためを思った会見でもう一方は逆の印象を持った。ウチはどっちに近いかなどと考えたくはないが、僕自身はどうもこの会社のために心血を注いで命を預けてがんばろうという気にはなれない。


“環世界”という言葉を最近知った。もともとは生物学で使われる言葉で、「普遍的な時間や空間も、動物主体にとってはそれぞれ独自の時間・空間として知覚されている。動物の行動というものは各動物で異なる知覚と作用の結果であり、そこからその動物独特の行動が生まれてくる。」という考えである。
そういう意味では僕の“環世界”には残念ながら、真摯さ、野心、競争意識、協調性、そういったものがものすごく希薄だ。子供の頃から学校の先生に、「欲がない。」そう言われ続けていた。
だから僕の環世界の中には、アメーバ経営もユニット経営も存在しないということだ。

「サバがマグロを産む日」読了

2016年06月11日 | 2016読書
この本は魚を通して社会貢献をしようという熱い心を持った人たちの物語だ。

魚の人工的な生産、有用物質の抽出、自然環境の改善などなど多岐にわたりイノベーションを起こそうとしている人々が熱く語っている。
どうしたらそこまで熱くなれるのか、やはり好きなことを突き詰めて生きるべきなのか・・・。ぼくの父親は「自分の好きなことを職業にするとしんどい。」といっていたが本当にそうだったのだろうか。
もちろん、僕は魚が好きだからと言ってこんな水産の勉強ができる大学に入れたかというとそれはまったく無理な話だったので今のような仕事が精いっぱいだったのは間違いがない。
でも、もしそんな野心があったなら僕ももっと生きがいのあるような生活を送れたのだろうか。でも父親の言うとおり、自分の好きなことを仕事にして魚釣りができなくなるほど忙しくなってしまっては本末転倒ではないかとも思ってしまうのだ。


「星を継ぐもの」読了

2016年06月05日 | 2016読書
ジェイムズ・P・ホーガン /池 央耿 (翻訳)  「星を継ぐもの」読了

たまたまネットで見つけた解説に興味をそそられた。
月の裏側で発見された真っ赤な宇宙服を纏った死体は5万年前のもので、遺伝子的にはまったくの現代人と同じあった。その後しばらくして木星の衛星ガニメデで2500万年前に遭難したと思われる巨大宇宙船が発見された。
というものであった。

ストーリーはこのふたつの事件と現代人のつながりを科学的な事実をもとに推理するというものだ。

これからこの本を読んでみたいと思うひともいるかもしれないのであらすじは書かないでおきたいが、
この物語の時代、人類は人種や宗教、イデオロギーの壁を乗り越え地球規模の統合国家を作り上げたことにより軍事予算は限りなく削減されその財源を宇宙開発に振り向け、惑星間の移動、開発が可能になったという前提でストーリーは進められている。
はたして本当の世界で、これほどの宇宙開発をすることができるのだろうか。30億年後、末期の太陽は膨張をはじめ赤色巨星となり地球の軌道を飲み込んでしまうというのは確実だそうだ。そのときには当然、人間は地球を飛び出して宇宙に進出してゆかないと生き残ることはできない。そこまで未来ではなくても気候の変動や伝染病などで人類が地球に住んでいられない状況を迎えるかもしれない。そのとき、今まで持ち続けた様々な軋轢を乗り越えることができるのだろうか。
今の僕が知る限りのことではそれはまず無理だろうと考える。残念ながら・・・。この日本の国一国の中でさえ政治の世界も経済の世界も、“共同して”という言葉にはほど遠い。
それとも、もっと前向きな人ならそんなこととは別の考え方を持つことができるのだろうか。

少しだけストーリーの中身を語ると、5万年前の人類は自滅したと断定され、現代人は様々な障害を乗り越え統一国家を作り上げ平和の中で宇宙進出を着実に進めている。自分たちは5万年前の人類の過ちは犯さないのだと結ばれている。
しかし、著者は現代人類をそんなことができる人々であるとみていたのだろうか?実は5万年前の人類こそがお前たちなのだという皮肉を込めてこの物語を締めくくったのではないのだろうか。
それとも、この本は1977年に書かれたものだそうだが1977年といえばベトナム戦争が終わり冷戦下といえども平和と高度成長を迎えた当時の情勢だからこそ書けた物語だったのだろうか。

この本にはあと2冊、続編があるらしい。今のところ読んでみようという気にはなっていないが、それらを読むと本当の著者の思いがわかるのだろうか。


現在の惑星科学からするとどう読んでもおかしいというところがないではないが、そこはSF、これはこれとして読んでおけばよいことだろうが、SFより、現代の科学が解明した惑星科学を含めた宇宙の話を聞いているほうがよほどSF的で驚かされる。

「ぼくが最後のクレーマー~クレーム攻防の方法~」読了

2016年05月26日 | 2016読書
関根眞一 「ぼくが最後のクレーマー~クレーム攻防の方法~」読了

この本を読んでいると、僕も本が1冊かけてしまうのではないかと思ってしまう。
自分でもタイプ別にクレーマーを分類したりしているがそれもこの本と同じだ。クレーマーというのは全国どこでも同じ行動パターンらしいというのも驚きだが、同じ行動パターンといっても一筋縄ではいかない。
ほとんどのクレームは部下が解決してくれるだけに、そこを突破してくるクレーマーは強烈だ。
しゃべり方も巧妙だし、なかなかボロを出さない。もう、素人では対応できないのではないかと思うのだが、わが社はいつも、「現場でやっといてね。」というスタンスだ。自分たちが攻撃されているわけではないので知らないよ~。というのがいつも露骨に出ている。まあ、僕も立場が変わればそうなるのだと思うから仕方がないとはおもうのだが、やりきれない思いだ。

この本にも組織として対応することが重要だと書かれているが、それがまったくない。僕は悪質なクレーマーというのはテロリストだと思っている。最近流行りの言葉を使っているわけではないが、突然やってきて、相手も何か利益になるのかどうかもわからない(利益にしようとしている輩もいるのは確かだが。)状況で混乱を招いて楽しんでいる。そう、大半のクレーマーは楽しんでいるのだ。それでなければ暇つぶしをしているのだ。まったくのテロリストだ。そんなテロリストになんの装備も後方支援も与えられずに戦いを挑めというのだから恐ろしい会社なのだ。
唯一違うことは命までは懸けなくていいということだが、精神的なプレッシャーは並大抵ではない。自分ひとりだけなら喧嘩でもなんでもやってやるが、相手はそれができない立場にいるのを分かっていて戦いを挑んでくるのだ。そこをうまく潜り抜けなければならない。そこが大変だ。
それに加え、最近は変質者ではないのだろうが、アイドルを追いかける乗りなのか、職場の若い女性にやたらと声をかけて長い長い時間居座る若い男もやってくる。そんなときは悲しいかな、ずっと後をつけまわさなければならない。声をかけると今度はこちらは何の手出しもできなと分かっているから言いたい放題だ。こっちはアイドルが刺されたというニュースを見ていると人ごとではないと思うので守ってやらなければならいと思うから自分の仕事も後回しになってしまう。
それだけではない。これは害でもなんでもないのだが、人気のないエレベーターホールに毎日やってくる団塊の世代と思しき人々。何もやることがないのかいつも同じ人が同じ場所で朝から夕方まで何をするでもなくスポーツ新聞なんかを眺めながら朝から夕方近くまで据え付けられたソファーに座っている。テトラの間の居心地のいい場所にいつも潜んでいるカサゴのごとく、フロアごとにいつも同じ人が同じ場所に座っている。何気ない光景なのかも知れないが悲しい光景でもある。一言聞いてみたい。「幸せなのですか・・・?」高度経済成長の時代を支えた日本の社会に貢献し続けた人の末路がこれとは・・・。悲しいとしか言いようがない。

思えば、ある意味、ここは人間の屑たちが最後にたどり着くところではないのだろうかと思うこともある。そして、こんな人たちというのはみんな世の中になじめない寂しい人たちなのだと確信をしてしまう。悲しいとしか言いようがない。
こっちまで滅入ってしまう。だからこんな人を相手にするときの僕の目はきっと哀れな人間を見るような目つきになっているのだと思う。

たまにはこんな本を読んでなにか新しい対処法がないか調べてはみるが、ぼくもこんなことならいつもやってるようなことばかりだ。できれば早くこんな輩と対峙しなくてもいいような部署に異動させてくれないものかと願うばかりだ。