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イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「仏像―心とかたち 」読了

2016年10月14日 | 2016読書
望月 信成 , 佐和 隆研 , 梅原 猛 「仏像―心とかたち 」読了

多分、梅原日本学というのはこの本から始まったのかもしれない。梅原猛が仏教に造詣を深めるきっかけになったのが50年ほど前にNHK教育テレビで「仏像-心とかたち」という番組の進行役を務めたことだという。その内容を書籍化したものがこの本だ。

日本に仏教が伝わり、そこでどのように変化し、どの部分が特化されていったかという検証をさまざまな仏像を通しておこなっている。
如来、菩薩を取り上げているのが上巻だ。

如来編では、釈迦像のうち苦行時代の像が少ないこと、これは自分が苦行するより人々を助けようという気持ちが強く表れた名残りであり、薬師如来という現世利益を求めた信仰の流行もこの人々を助けなければという気持ちのあらわれで、その後の阿弥陀信仰の高まりはそれでも助からない人々の支えとして来世を夢見させなければならなかった。
そんな生きづらい世界を生きた人々の願いの変遷が見られると説明している。

それと平安以降あまり省みられなくなった大日如来。
大日如来は梅原猛にとって非常にこころ引かれる仏像らしい。それは日本のアニミズムと強く結びつき、仏教が移入される前の日本人の一番最初の心がそこに残っているからという理由だ。
貴族の仏教であり、また、呪術をつかうという胡散臭さが民衆へは受け入れられてこなかったが、現代、再び高野山が脚光を浴び、密教の神秘さ、思想が見直されてきたというのは日本人が日本人らしさを忘れてしまったことの反作用なのではないのだろうか。
梅原猛は、真言密教は鎌倉仏教とは異なり、「来世に期待をするのではなく、今を力強く生きよ。」と教えているという。
どちらの生き方がよいのか・・・。

菩薩編では聖観音が十一面、千手観音へ変化しながら大衆へ浸透しなければならなかった理由を、時代背景を追いながら解説されている。
もっと助けてほしい、しっかり受け止めてほしい、そんな願いがさまざまな利益を授けてくれる菩薩を作り出し、観音様は顔を増やし、目を増やし、手を増やして衆上を見守り受け止める。異形に変化していったことこそが、広く民衆に浸透していた証だということだ。
そこには大胆ではないものの、やはり梅原猛独特の検証が見られるように思うのだ。下巻を読むのが楽しみだ。

しかし、しんどいのはいや、すぐにご利益がないとこれもまたいや・・・。なんだかわがままばっかりの感じだが、逆にいうと、このサービス精神の旺盛さが日本のテクノロジーやおもてなしの精神を生んだ要因になっているようにも思う。

別の面で考えると、日本の文化や習慣というのは往々にして仏教の教えがベースになっているのは間違いのないことで、その文化を生み出した根源は生きてゆくことの苦痛や悩みなどネガティブなことばかりであったように見える。
いくつかの本を読んで、人が生きてゆくことは困難と苦痛ばかりで、それがなければただの平べったい無味乾燥した世界が広がっているだけになってしまうのだということを知ったが、それはそれでなんだか辛いような気がする。
そうなると、世界平和や社会に渦巻くいろいろな問題、小さくは僕の会社の無理、難題なども何をどうしてもどうなるものではなくて、それでは放っておいてもいいのではないだろうかということになる。でもそこに少しでもかかわるのが生きることを実感することになるのなら、いやだな~と思う気持ちをどこか別のところに置いておいてそんなことにも手を付けるというのが正しい生き方であったりするのだろうか。
そういえば、会社の中で飄々と仕事をこなしている人たちを見ると、嫌なことや、叱られるようなこともあまり意に介していないように見える。
こんな人たちはきっと何度かの輪廻の末に悟りを持った人だと思って僕はあきらめるとしよう。


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「ラジオ空想科学研究所〈第2夜〉」読了

2016年09月29日 | 2016読書
武井 咲、柳田 理科雄 「ラジオ空想科学研究所〈第2夜〉」読了

ニッポン放送で2014年まで放送されていたラジオ番組を書籍化したものだ。
この本はその2冊目だ。

けっこう忙しそうな女優さんをアシスタントにしたがえてこんなラジオ番組まであったとは驚きだ。
相変わらず同じような内容だが、やはり面白い。
いったい何冊くらい出版されているのだろう。ありきたりの感想だが、中学生くらいの頃にこんな先生に出会えれば僕の人生はもっと変わっていたのかもしれないと思うのだ。
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「人間通」読了

2016年09月29日 | 2016読書
谷沢永一 「人間通」読了

この本は大分昔にけっこう話題になった本だ。ベストセラーになったが、この本で名指しされた人からはいろいろあったようだ。


人間の器量というのは世に尽くす誠意と熱情があればそれで十分であり、組織の要となり世の礎となりうる条件は人の心がわかることただそれだけである。それを人間通と呼ぶ。前半にはそう書かれている。
後半は日本の官僚機構の批判にかなりの部分を割いていて、どうも偏りすぎているのではないかと思ったが、「人と人」という章に書かれている様々な言葉を読むとどうして官僚機構、ひいてはこの国の仕組みに対してこれほど怒りを向けるのかがわかってくる。
試験にだけ合格し、政治家と違い誰かの審判を受けない官僚という人たちは国民を見下し、人を人と思わなくなる。それは“人間通”とは真逆の生き方であり、著者にとっては我慢ならないことであったようだ。
しかし、それに対してどう行動するべきかこの本には書かれていない。また、対抗を呼びかけるようなこともしていない。
悪くいうと、アジっておいてそれっきりかと思えるが、そこはやはり自分で考えてくれということなのだと思う。

人の心がわかること。それはものすごく難しい。人の心がわかるためには人に興味を持たなければならない。師は「森羅万象に多情多恨たれ。」と言っていたが、そういうことを言っていたのだろうか。
組織は塊ではない、ひとりひとりがひとりひとりの考えを持っている。あまりにも興味が偏りすぎている僕には至難の業だ。至難のわざというより不可能だ。だから組織にはなじめない。

この席に座っている人たちは人間通なのだろうか?自分の武勇伝しか話さない人というのは自分にしか興味がなかったりしないのではないだろうか。



そんなことを思っているとますますこの椅子の座り心地が悪くなる。
師の著作に度々出てくる、ベトコンに包囲されて九死に一生を得たエピソードに出てくる南ベトナムの兵士は、弾丸が飛び交う中、洗面器に入れた食事を黙々と食べたり弾丸に撃たれうめき声もあげずに倒れてゆく。
彼らもきっと僕みたいに人間通にはなりきれなかった人々であったのだろう。戦争という極限状態がそうさせてしまったに違いないが、僕も同じようなものでこの会議室がそんな極限状態にさせてしまう。
会社という組織もよくよくみれば官僚機構によく似ている。特に硬直しきってしまったようなワガ社はそのものに見えてしまうのだ。
椅子の主もそんな組織に風穴を開けようと頑張っているのだろうが、そしてそれが正しい道なのかもしれないが、やはりその心がわからない。
僕は飛び交う弾丸の下を這いまわることしかできない。

だから、こんな人間は人間通になれないと決めつけられても言い返す言葉がないのである・・・。







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「徒然草―付現代語訳」読了

2016年09月15日 | 2016読書
吉田兼好 今泉忠義訳注 「徒然草―付現代語訳」読了

徒然草なんて、高校の授業以来だが、この歳になって読んでみるとなかなか趣きがある。なんでこんなことを書いているの?と思うような段もあるが、人の生き方、それも人生の第3コーナーを回ってあとはどんなゴールでもそこに向かうしかないという状況になってしまった僕のような人間にはひとつの指針を示してくれるようだ。

偉そうにするな。知ったかぶりをするな。物に執着するな。要するに韜晦して生きよという意味なのだろうがそれがそううまくはいかない。
吉田兼好という人はかなり身分が高く幅広い知識を身につけていたようだ。そういう意味では本当にこの本を読むには古文はもとより和歌の知識、当時の文化も知っておかなければならないようだ。原文を飛ばして現代語訳だけを読んでいるようでは・・・。
そして韜晦するためには兼好のように知識はもちろん、財産もなければならない。要は向後の憂いがないことだ。衣食足りて礼節を知る・・・。

知識も財産もない僕みたいな人間にはそんな生き方はやっぱり無理なのだ。

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「魚味礼讃 」読了

2016年09月05日 | 2016読書
関谷文吉 「魚味礼讃 」読了

著者は浅草の老舗の鮨屋の4代目ということで、魚の味には並々ならぬ持論を持っている。
寿司は講釈たれながら食べるより自分の食べたいように食べればよいとは言いながら、旬じゃない、名産地じゃない魚を食べるのは邪道で外国産なんかもってのほかとのたまうのはいかがなものか?
これなら僕たちが食べている魚はみんな魚じゃないと言っているようなものだ。 
こう言う講釈は高級な鮨店の中だけにしてもらいたい。

僕たちは自分の手の届く範囲で食べられるものを食べるのだ。
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「うまいもの事典―これが世界最高の味だ 」読了

2016年08月29日 | 2016読書
辻静雄 「うまいもの事典―これが世界最高の味だ 」読了

フランス料理中心だが、世界最高の味を高級レストランの料理を介して食材ごとに事典形式で紹介しているものだ。
こんな食材、料理にはまったく縁がないので読んでいても現実感がない。そして、フランス料理が中心なので凝ったソース、それも生クリーム、バターをいっぱい使っていて、なにやら素材の味はどこかへ行ってしまっているのではないかと思うのは貧乏人のひがみだろうか。

30年前の本とは言え、紹介されているワインも1940年代~1950年代のヴィンテージのような多分目が飛び出るほど値段の高いと思えるものばかりだ。
貧乏人には1000円のワインも100万円のワインも見分けがつかないだろうからやはり現実感がない。

僕には奥さんの作ってくれた料理と500円のワインで十分だ。
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「旅をする木」読了

2016年08月25日 | 2016読書
星野道夫 「旅をする木」読了

この本を読むのは3度目くらいだろうか。
そして、はじめてこの人の文章に惹かれる理由がわかった気がする。
「孤独」と「死」、そこからにじみ出てくる真反対の言葉「人とのつながり」、「生きる事の喜びと尊さ」そのヒリヒリとした現実感が迫ってくるのだ。

アラスカというところでは過酷な自然環境の中で生きてゆかなければならない。しかし、誰かに頼れるほどみんな余裕がない。かといってひとりでは生きてゆけない。ここでいうひとりでは・・というのはもたれ合うという意味ではなく、それぞれが別々に同じ困難に立ち向かっているという、同士のような共感のようなものだ。
彼らがいるから自分もがんばれる。そんなところであろうか。

そして、「死」についてはふたつの意味があるように思う。ひとつは過酷な環境で生きてゆかなければならないという死と隣り合わせの世界。もうひとつは生きてゆくためには何かを殺して食料にしなければならない。それは残酷ではあるだろうけれどもそうしなければならない。だからよけいに生きているということを実感せざるをえない。
そういったものを現地の人々との交流やアラスカの大自然の描写を交えて綴られてゆくのがこの本だ。

そんなヒリヒリとした現実感と引き換えに現代社会の人々は安全と安心を得たように思える。しかしそれもつかの間の安心で終わってしまったかのようだ。安心はどこかへ行ってしまい、ヒリヒリとした現実感の代りに真綿で首を絞められるような、水に濡れた絹の布を口に押し当てられているようなそんな息苦しさを感じているのは僕だけだろうか。

僕たちの世代は、「ゆでガエル世代」と最近では言われているそうだ。
社会人になってまもなくバブルが崩壊してその後もITバブルの崩壊、リーマンショックなど不況の波がやってきた。
しかし、好景気の時期を知っているがため、また、その上の世代の人たちは無難に定年まで勤め上げた姿をみていたことで、それでもなんとかなるのではないだろうかと思いながら50代を迎えてしまった。楽観的な幻想を抱いてきたのだ。
その間にも景況は悪化し企業もみんな厳しくなった。人事制度も変わり、年功序列が崩れ成果主義、そしてもっと厳しくなり、ウチの会社も採用を始めたが職務等級制度などというものまで現れ、気づかない間にものすごく厳しい時代になってしまった。
ぬるま湯の時代を長くすごしていて、いつの間にか熱湯のような時代に気づくことができないでいたのでゆでガエルなんだそうだ。
すべての同世代がゆでガエルだとは思わない。自己顕示欲が強くて上昇志向も強い同世代もたくさんいるのでそれは個人の問題かもしれないが、「これって僕?」と思えてくる。

50歳も過ぎると大体先が見えてくるし、この業界も厳しくてそれでもなんとか逃げ切れるのだろうとたかをくくっていたが、それもどこまで維持できることやら・・・。
職務等級制度というのは仕事のできる人にはそれなりのポストと収入を約束してやるが、それ以外の人間はそれなりの仕事とそれにみあう収入しか与えないというものだ。それなりの仕事はいいのだが、収入となると・・。
自分がどんな評価を受けているのか本当のところがわからない。血のにじむような努力をしていないのは確かなことなのでいつかどこかで逃げ切れなくなるのではないかという不安はつきまとう。
残業が多いほど評価が上がるのなら僕は失格だ。やることはやって(やってなくても)一時でも早く退散したいのが昔からで、入社当時、新人類といわれた世代の典型的な形でもあったのだ。休みは休むのが当然と思っていて、それがダメなんだと言われてしまうともうダメだ。小さいころから養われている価値観を今さら変えることはできないし、今さら変えたとしてももう遅い。


著者は26歳から18年間アラスカで暮らし、1996年8月8日にヒグマに襲われて亡くなった。奇しくも著者が無くなってちょうど20年目の同じ月にこの本を読み返しているのも何かの導きだったのだろうか。
この本を読み返してみようと思ったのは、今年の春ころ、「旅をする本」というBSのドキュメンタリーを見たからだ。著者の「旅をする木」の表紙の「木」の中棒に横線を1本引いた誰かが、「この本に旅をさせてあげてください」というメッセージを添えたことからたくさんの人々の手を渡ってこの本が世界を旅することになる。その旅を追った番組だった。
そこにもそれぞれの人々のヒリヒリとした人生があった。すべての人が過酷な自然と人生の運命に対峙したドキュメンタリーだった。
そして僕が読んだこの本、古本で買ったのか新刊で買ったのかは定かでないが、ところどころに青いインクで印が付けられている箇所があった。例えばこんな文章。
友人の死、「それがつかめないと前へ進めなかった。一年がたち、あるときふっとその答えが見つかった。何でもないことだった。それは「好きなことをやっていこう」という強い思いだった。」
「バスを一台乗り遅れることで、全く違う体験が待っているということ。人生とは、人の出会いとはつきつめればそういうことだろうが・・・」

一体誰が付けたのか。この本は僕の息子も読んでいるのは間違いがない。彼が付けたのか、それとも古本屋に売り飛ばした前の持ち主が付けたものなのか。息子に「君が印を付けたの?」なんて野暮なことは聞くことはないが、この本も間違いなく小さいながら旅を続けているようだ。
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「新版 禅とは何か」読了

2016年08月18日 | 2016読書
鈴木大拙 「新版 禅とは何か」読了

著者は海外に禅を紹介し、広めた人として有名だ。
ルーカスもジョブズもきっとこの人の著作を通して禅を学んだのではなかったのだろうか。

僕も一度は読んでみたいと思っていたのだが、やっとチャンスが巡ってきた。

大半は禅よりも宗教とは何か、そしてその存在意義について書かれてる。
禅というとひたすら座禅を組み自分自身を鍛えるのだというイメージがあるが、ここにも社会に貢献をしなければならないのだということが語られている。
人が人として生きてゆくためにはやはり人のために何かをしなければならいということか・・・。
そういう著述を読むたびにほんとうに自分の生き方が申し訳けなくなる。
いまさらどうだろう。社会のため、人のために生きることなどできないのではないか・・・。
新聞のコラムで、「人は生きているだけでも世間の何かの役にたっている。」という文章を読んだが、それは本当なのだろうか。

この本は一般向けに鈴木大拙が講演をした内容を文章におこしたものだそうだが、正直、ほとんど理解ができていない。一般向けと言いながら、多分信者さんたちへの講演のようなので、ある程度、宗教、禅宗に造詣のあるひとたちには理解できるというものだろう。僕にとっては何べんも読まなければとうてい理解できるものではないということだ。


そして、その講演がおこなわれた場所というのが、大阪の妙中寺と書かれていたので、調べてみると職場から歩いて5分とかからないところにあるとわかった。
訪ねてみるとこんなお寺だった。

 

ビルになっていた。
この本にも、宗教は少なからず神秘性がなけらばならないと書かれていたが、ここまで近代化しているとどうも神秘性というものが感じられない。
やはり禅宗というのは自分がどのように禅を感じ取り組むかということが重大で、修行をする場合なんてどこでもよいということなのではないだろうかと現実を見て感じてしまった。
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「イギリスの豚はおいしいか?―失われたハムエッグを求めて 」読了

2016年08月07日 | 2016読書
ポール ハイニー/ 鶴田 庸子 訳  「イギリスの豚はおいしいか?―失われたハムエッグを求めて 」読了 

英国の料理というとフィッシュ&チップス、コテージパイくらいしか思い出さず、それも大概はおいしい料理がない国と思われている。
この本はそんなことに関係なく、著者が子供のころに食べたおいしい豚肉の加工品を求めて各地を訪ね、その究極として自分で豚を飼いそれをして肉を得ようとしたことが綴られている。

ヨーロッパはどこの国でもかつては一家に1匹は豚を飼っていて、1年間の食料としてしハムやベーコンに加工して保存していた。生き物を殺さないことには食物にありつけない。情が移ろうがどうしようが自分が生きるためにはそうしなければならないのだ。

そういうことがベースになっているのでただのグルメ本ではない。昔の人々はどれだけ豚(豚肉)に敬意をはらって加工をしてきたかを現代と比較しながら論じている文化論である。

僕も豚肉は大好きだが、いったいどうやって食卓までやってくるかなどまったく知る由もない。考えたこともない。たとえ動物であろうとそこに「死」というものがあるということにはまったく気付いていない。
多分、著者の言いたいことはそこではないのか。そう思う。
“メメント・モリ”という言葉があるが、「死」を意識することでしかひとは人として生きることができない。なぜなら死を意識できるのは人間だけだからだ。そこから道徳というものが生まれ宗教が生まれた。

多分、コンビニというものが日本の道徳を堕落させた要因の大きなひとつではないのかとずっと思っている。
コンビニ、最近は中食といって普通の食品スーパーでもいっぱい売っている出来合いの料理は、食材の由来どころか、その料理の調理法さえもわからなくしてしまっている。そこには命をいただくとか人の手を介してその料理は作られているとか、そういうことを覆い隠してしまっている。
病院で死ぬことが当たり前になり、実生活と「死」の間に相当な距離が開いてしまったのはとうの昔にそう言われている。
どんどん「死」というものが遠ざかり人は人としての根の部分を失ってゆく。
それが流れなら仕方がないが、自分自身はそんなことを意識して生きたいものだ。


師が使った言葉に、有名な、「・・・八日間幸せになりたかったら、豚を殺して食べなさい。・・・」というものがあるが、この本を読むと中国の古いことわざではなく、きっとヨーロッパのことわざではなかったのかと思う。
僕ももう少し涼しくなったらベーコン作りに挑戦したいと思った一冊である。


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「ワインは死の香り」読了

2016年08月01日 | 2016読書
リチャード・コンドン/後藤 安彦 訳 「ワインは死の香り」読了

ギャンブル好きの元英国海軍大佐がギャンブルの負けを返すため起死回生の策として1万8千ケースの高級ワインを盗み出すというのが大まかすぎるがこの物語のあらすじだ。


登場人物は実業家、軍人、犯罪者、みんなスーパーマンよろしくミスをしない。華麗にミッションをこなしてゆく。それがうまくかみ合って物語を盛り上げてゆくのだが、外国の作家というのはこんなストーリーにグルメというスパイスをうまく効かせて面白くまとめることが本当にうまいと思う。
「男が熱中できるのは危険と遊びだけだ。」という言葉をそのまま体現させたような仕上がりになっている。

これを日本人が書くとここまでうまくまとめることができるのだろうか?これはやっぱりワインとフランス料理のなせる業なのか?どうも日本の料理は正座をして食べるイメージが強いから敵と戦っている最中に食べるイメージがわかないし、日本酒と会席料理ではあまりにも躍動感がないのかもしれない。


007しかり、以前に読んだ、「白い国籍のスパイ」しかりハードボイルドでもなく、かといってコメディタッチでもなくてしっかり読み応えのある日本のこんな味のある小説というのがあれば読んでみたいものだ。



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