鈍想愚感

何にでも興味を持つ一介の市井人。40年間をサラリーマンとして過ごしてきた経験を元に身の回りの出来事を勝手気ままに切る

携帯電話を失くして散々な目に遭った一日であった

2009-11-30 | Weblog
 29日は小中学校時代以来の親友であるT君が大腸を摘出する手術をしてめでたく退院したお祝いを兼ねて、T君のお宅を訪問した。JR金山駅を乗ったところで、携帯電話で連絡して、大府駅に迎えに来てもらい、車でお宅に向かった。若干声が枯れているのを除けば予想外に元気なT君の姿を見て安心し、その後のレストランでの食事で手術の状況や現在の心境を伺い、病気何するものぞとの意気を感じた。で、落ち着いたところで、手提げカバンを見たところ、携帯電話がないことに気付き、あたりを探してもない。
 どこへいったのか、と考えているうちに行きのJRの電車内でカバンに入れた積もりが摺り落ちたに違いない、と思い至った。2日前にテレビで見た刑事コロンボの「自縛の紐」で犯人が被害者の靴の紐を逆に蝶々結びをしたことが露見して逮捕となったのを思い出して、かみさんと靴の紐の結び方を実習していて、かがんだところ、携帯電話が座席の上に転がってしまい、それに気がつかず降りてしまったようだった。後で考えて、その前に携帯のメールが送信できなくて、街のどこかにauショップでもあれば相談してみようかな、と携帯が気になって、ついつい手に持ったままでいたこともあって、いつものケースに入れておかなかったのも失敗だった。
 で、JRの大府駅に電話しようと電話帳で電話番号を探したところ、掲載されてない。かろうじて見つかった電話番号は土日は通じない番号であった。仕方なく、104電話番号案内に掛けて聞いても同じ番号しか教えてくれない。インターネットで豊橋駅を探しても同じことで、どうやら外部には駅の電話番号を教えないようなことになっているようだった。
 仕方なく、帰りがけに大府駅で駅員さんに携帯電話の遺失物を行きの電車が豊橋行きだったことを付け加えて聞いてみると、果たしてそれらしき携帯電話が豊橋駅に届いている、という。携帯電話の番号を言うと、間違いないということになり、来れば引き渡しをする、という。ただ、その後高校時代に友人数人と名古屋で待ち合わせがあるので、受取人払いで送ってもらうことにした。
 一件落着と安心して、18時から名古屋の栄のとあるレストランでの会食に向かった。約束の時間の10分前にレストランに着いて、その前で待ったが、時間を過ぎてもそれらしき人は現れない。携帯電話の番号は教えてあったが、肝心の携帯電話は豊橋駅の遺失物センターにあり、鳴っても取れない。しかも相手らの電話番号は一切携帯電話にメモリーしてある。ひょっとして待ち合わせ場所が変更になったのかしら、と思っても手の打ちようがなかった。
 30分くらい待ったが、現れないので、諦めて帰ることにした。1時間ばかり前に先に実家に帰ったかみさんに連絡しようか、とも思ったが、大丈夫だろう、と思って雨の中、帰ったら、かみさんに実家のみんなは食事に出かけてだれもいない。真っ暗な軒先で待つのも寒いので、近くの喫茶店で軽食を摂りながら、待つことにした。1時間半くらい時間をつぶして、連絡しよう、としたら、その喫茶店には公衆電話がない。
 やむなく、もう少し時間をつぶして帰ると、かみさんの家族はご馳走を食べて満足そうな顔をしてくつろいでいた。疲れた表情をしていたのか、事情を聞かれて話したら、大笑いして半ば呆れ、半ば同情された。日ごろ、かみさんには「専業主婦には携帯電話は要らない」と広言していたので、かみさんからは「携帯電話がないと不便でしょう」とか、「なに、公衆電話がなかったって」とかさんざ言われた。
携帯電話は文明の利器であり、現代人にとっていかに必需品であるか、身をもって証明した一日であった。

追記1 高校時代の友人とはついぞ連絡をとれず、翌30日に川崎へ帰ってから、メールを開いたところ、「なにかあったのか」と心配しての問い合わせの連絡が入っていた。よく改めてチェックしたところ、待ち合わせ時間は18時だったが、名古屋地下街の日産ギャラリーと書いてあった。その前のお見舞いのスケジュールが確定していなかったので、時間に間に合うかどうか自信がなかったので、つい落ち合ってから行くレストランの名前と時間だけを手帳に書いてしまい、てっきり18時にそのレストラン集合と思い込んでしまった。すべては携帯電話を失くしたことに端を発する当方のミスであるが、改めて携帯電話の重要性を意識させられることと相成った。

追記2 1日昼になって、待望の携帯電話がJR東海豊橋駅から届いた。当然のことに受取人払いで金740円也を払って受け取り、点検すると、丸2日間、無人の携帯電話に計14本の電話着信の記録が残っていた。このなかには自分でT君の携帯から携帯を拾った人へ連絡してくれるよう頼んだメッセージも含まれていたが、知人のTさんからの留守電もあった。丸1日何の応答もなく不審に思われたことだろう、と早速お詫びの電話を入れて事情を釈明し、事なきを得た。後で判明したのだが高校時代の同窓生との集まりでは4人集まったうち、携帯電話を持っていない奴が3人もいたのは驚きだった。ともあれ、携帯電話に泣かされた2日間だった。
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51年ぶりのセンチメンタル・ジャーニー

2009-11-30 | Weblog
 28日は51年前に卒業した名古屋市熱田区の旗屋小学校が創立百周年を迎えたのを機に開催された創立百周年記念式典なるものに参加した。東京では創立百周年を迎える小学校はざらにあるといわれているが、名古屋では珍しいだろうと思ったのと、正直わが母校が百周年とはめでたいことだ喜んだからに他ならない。卒業してからまともに小学校を訪れたことがないことも預かって記念式典の参加するのを機会に周辺を散策してみるのもいいかな、とも思った。
 午後2時からの記念式典に行くと講堂はほぼいっぱいで、壇上ではピアノ、チェロ、ヴァイオリンによる室内楽の演奏が行われていた。定刻と同時に始まった記念式典では同窓会会長の挨拶に続き、現役の旗屋小学校校長の挨拶があった。それによると旗屋小学校は明治42年に創立されて以来、この春まで1万2503人の卒業生を送り出している、という。現在は342人が在籍しているが、大正11年には1500人もの生徒がいたこともある、というから昔は栄えていた地域だったようだ。今回の記念式典には昭和61年までに卒業した約1万人を対象に参加をよびかけ、そのうち約300人の参加をみた。
 記念講演は南山大学教授による「夜寒を中心とした歴史と文化」と題する学区内の地域の由緒まつわる話があったほか、地元の音楽家による室内楽演奏や、コーラスグループによる合唱が披露された。最後に全員で旗屋小学校の校歌を斉唱したが、譜面はもちろん歌詞を見ても思い出せなかったのにメロディが流れてきて聞いているうちになんとか思い出してきたのには驚いた。記憶の底に眠っていたのが呼びさまされたのだろう。
 記念式典が終わって、白鳥国際会議場での懇親会まで時間があったので、小学校周辺の虫封じの高座神社や通学路だった坂道をぶらりと散策した。小さい時にお祭りの時によく遊んだ高座神社を正面からお参りしたことなどなかったことを思い出したり、雪が降った時にスキーなどして遊んだ坂道がなだらかなアスファルトの坂になっているのを見て、すっかり変わってしまったことに驚いた。それでも50年前の面影がわずかに残っていることがうかがえた。
 旗屋小学校には百年の歴史を感じさせる「武家屋敷門」とヤマハ第1号ピアノがあり、「武家屋敷門」はいまでも学校の正門として使われており、目にすることができたが、ヤマハ第1号ピアノは倉庫に保管されているとかで、公開されていなかったのが残念なことだった。
 懇親会は全員を収容できるだけの部屋がなくて、二手に分かれての懇親会となり、ややさびしいものとなったが、同期生17人のなかには卒業して以来初めて会う人もいて、懐かしい思い出話にふけり、51年ぶりのセンチメンタル・ジャーニーに色を添えてくれた。
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円高相場を演出したのは総額6000兆円を超える国際投資ファンド

2009-11-28 | Weblog
 円相場が27日午前、1ドル84円82銭と14年4カ月ぶりの高値をつける水準まで上昇した。その後、藤井裕久財務大臣の「一時的に偏った動きである」として財政出動に出ることもありうる、との含み発言があって、持ち直しているが、円高懸念は去ったわけではない。今回の為替変動は米国経済に対する立ち直り不安に加えて中東ドバイの債務返済懸念が起きて、通貨不安が国際的に広がったためとみられるが、各国通貨がじり安となっているなかで、日本の円だけが独歩高となっている。外から見た日本経済は内から見たものより違って見える、ということなのだろうか。
 今回の円高をもたらした最大の要因は国際間を流動する投機マネーにある、と考えられる。昨年9月にリーマン・ショックが起きるまでは米国内の投資ファンドが競って仕組んだサブプライムローンがらみのCDS(クレジット・デフォールト・スワップ)なるものが世界に6000兆円を超える規模であることが判明し、これらがいずれも焦げ付いていて、そのツケをどこかに回そうと必死のなって投資先を求めている事実が明らかとなった。CDSの規模は実態経済の2~4倍の規模にのぼるとされており、これがどこへ向かうかで、金利をはじめ為替など国際金融情勢が大きく左右されることになる。
 従来はこうした国際投資ファンドの拠り所は米ドルで、米国の発行する国債に帰着していたが、米国経済が世界経済の牽引車としての役割りを降りたことから、米ドルに対する信頼が揺らぎだした。
 そこで、一斉に向かったのがまず金だった。長らく金相場は安定していたが、この9月に史上初めて1トロイオンス(31グラム)1000ドルを突破して以来、この25日には1187ドルをつけ、さらに上昇気配にある。つい、数年前には原油をはじめとする貴金属、大豆など各種商品相場に金が殺到し、軒並みに国際商品相場が上昇したことがあったが、いまのところ金相場だけに向かっている。
 その国際ファンドが着目したのがどうやら日本の円相場のようだ。90年代のバブル崩壊以来ずっと低金利できているうえ、先ごろデフレ宣言も出て、消費者物価も落ち着いているようだ。この先も着実な経済運営が期待できそう、と見ての決定だろう。
 もとより、円に対する信任というより、米ドルへの信頼が崩壊しているし、欧州ユーロもいまひとつ安定に欠ける、ここは円が比較的安定しているように見える、という相対的なものなのだろう。
 鳩山民主党政権は発足して2カ月余り、いまは「事業仕分け」で22年度予算の編成作業に必死に取り組んでいる最中で、とても日本経済立て直しの経済施策の立案にまで手が回っていないが、その先には国際投資ファンドというわけのわからない、実態の掴みにくいモンスターのようなものが控えていることを念頭に置く必要がありそうだ。
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同好の士とともに縄文式土器づくりに挑戦したーー平和な一コマ

2009-11-27 | Weblog
 26日は川崎・等々力にある市民ミュージアムでの縄文式土器の作品展に行った。川崎市内の有志でつくる「多摩川野焼き土器づくり」なる組織が市民を対象に縄文式土器を作って楽しもう、という企画を実施しており、この秋のイベントに参加して、見よう見まねでそれらしきものを作ったところ、作品展をして一般に公開しよう、ということになり、その当番でもあった。川崎市民ミュージアムには数回来ているが、3階にミニギャラリーなるスペースがあるとはついぞ知らなかった。
 今回の「縄文式土器づくり」企画が始まったのは9月初旬の土日で、まずたまたま市民ミュージアムで開かれていた「川崎・縄文一万年展」で川崎市内で発掘された縄文式土器を観て、何を作るかの構想を抱き、粘土こねをしながら作成に入った。当初、特に作りたいものがあったわけではないが、展示会で「台付き浅鉢」なる土器に目が行き、挑戦することにした。ランプのような台の上にお皿が載っているような土器で、台の中を空洞にするのと皿をどう作るのか、の興味もあった。
 手回しのろくろをあてがわれてはいるが、なかなか思うようには使いこなせない。台の真ん中で膨らむような形状を出すのも難しい。作っている途中で、再度、ミュージアムの展示会場へ行き、作ると決めた作品をじっくりと見ても同じように作るのは至難の技だ。上に載せる皿もカーブの部分がうまく均等に仕上がらない。ごつごつしたいかにも素人が作った浅鉢が仕上がったところで、模様付けとなったが、ヘラで適当に線を入れるくらいで、もう根気が湧いてこなかった。代わりにお猪口と「愛」や「仁」など文字1字を書いたコースターを5つばかり作って遊んだ。
 それで3日目に各自が作成した作品を川崎テクノで焼き、さらに多摩川べりで野焼きした。そうして出来上がった作品を川崎ミュージアムで一般に公開したもので、展示台の上に名前の書いたプレートを前に自分の作品が置かれているのを見ると面映ゆい気がする。野焼きには参加できなかったので、煤で黒くなった作品に対面するのは初めてのこととなる。こうした土器を作る才能がるとはとても思えないが、指導していただいた先生はじめボランティアのみなさんのおかげで作品が出来上がった、と思うと感謝の気持ちでいっぱい、となる。
 おそらく観覧していただいた来場者のみなさんに評価してもらえるような作品ではない、ちょっと見て「ふーん」と頷いてもらうくらいが精一杯だろう。
 26日は平日とあって、観賞に訪れる人はほとんどいない。市民ミュージアムは通りすがりに寄れるような場所もないので、いわゆる冷やかしのお客もいない。午後1時から4時半までわずかに8人の来場者しかいなかった。それでも自慢の作品を観ていただいた、という自己満足的な充実感だけは残った。
 自らの嗜好に任せて勝手に作った作品を見てもらい、楽しむことができるのは平和な時代といえるのかもしれない。
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障害者雇用率の適用を一企業でなくグループでの適用がなぜできない

2009-11-26 | Weblog
 東京都心の企業に勤める知人のYさんは人事部に所属している。先日話していて、障害者雇用のこととなり、Yさんの会社が法定の障害者雇用率を下回っているため、同じビル内にあるグループ会社の障害者を移籍させて、なんとかクリアーさせる計画だ、という。障害者どころか、健常者の就職すら怪しくなっているのに法定の障害者の雇用率を守るのも厳しいと思わないわけでもないが、グループで法定の障害者雇用率を達成する、という考え方がなぜできないのか、と思った。
 Yさんの会社は常用雇用者は6600人おり、雇用障害者は105人いる。障害者雇用率は1.6%弱で法定の1.8%に達していない。不足数は9人で、このままいくと雇用納付金(1人当たり年5万円)を納めないといけないだけでなく、違反企業として社名を公表されることになる。違反企業として公表されると、反社会的企業の烙印を押されることとなり、なにかとまずいこととなりかねない。そこで、Yさんらは同じビル内に本拠を構えるグループ企業が法定雇用障害者率を守っているのに目をつけ、障害者の本社への移籍を行うことで、両社とも法定障害者雇用率を達成したことにしよう、と考えた。
 で、Yさんに障害者雇用率は一企業単位だけでなく、企業グループでとらえる考え方はないのか、と聞いてみた。ところが、厚生労働省当局の担当者には通じない、と即座に否定された。
 かつて、鈍想愚感子が社長を務めていた時にグループの子会社が千代田区のあるビルに固まっていたところ、全部あわせると使用面積が1000平方メートル以上、従業員100人以上となり、東京都の事業所税なるものの適用基準を満たしていることに着目され、「みなし事業所税」として過去3年にさかのぼって徴収されたことがあった。
 担当税務署の60歳がらみの署員が説明にやってきて、こちらが「どう考えても得心がいかない」とねじ込んだところ、その署員はポツリと「私たちもそう思わないこともないんですが、仕事なんおで……」とつぶやいた。税務署としては取れるところから取る、というスタンスだったのだろう。結局はその時に過去3年分ということで500万円弱の税金を持っていかれた。その後は毎年、事業所税なるものを徴収されたのはいうまでもない。
 当時の相手は東京都だったが、障害者雇用の担当は厚生労働省である。今回も同じように「みなし障害者雇用」ということでグループ単位の雇用率という尺度があってもいいように思われる。役所が違うとものの考え方が違う、もしくは担当者のよって考え方が違うということなのだろうか。
 別に悪意を持って違反しているわけではなく、法律の趣旨に沿って努力してはいるが、諸般の情勢でやむを得ずそうなっているのだから、努力のほどを認めてくれてもいいのではなかろうか。景気の先行きが思わしくなく、健常者の雇用を守るだけでも精一杯なのに、障害者の雇用を守っていくのは並み大抵のことではない。統計によると、全国の雇用者数は5700万人おり、これに対し在宅の障害者は350万人(2006年)と約6%くらいいる。社会全体で1、8%の雇用率を守るということはそれなりに施策であると思われるが、実施にあたっては当面する情勢に応じてもう少し柔軟に構えてもいいのでなかろうか。 
 
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意外なところで”女”を下げた緒方貞子JICA理事長

2009-11-25 | Weblog
 24日は東京・市ヶ谷の国立印刷局センターで開かれている政府の行政刷新会議の「事業仕分け」を覗いた。先々週から先週にかけて5日間の前半に続いて、後半4日間の幕開けで、前半で培ったノウハウをもとに各事業にどう取り組むか、との興味もあった。午前9時半開始にやや遅れて駈け付けると、会場は超満員で、立ち見の人がぎっしり、といった感じだった。午前中は防衛庁の広報事業と国際平和協力センターについて聞いたところ、東京・目黒にPKO(国連平和維持活動)のための教育センターを新設するという事業はあっさりと「廃止」と決まった。
 午後は22年度要求予算1508億900万円と巨額な金額の外務省所管のJICA(国際協力機構)への運営費交付金を聞いた。世界150カ国へのODA(政府開発援助)を行っている実態が明らかにされたが、冒頭JICAから理事長は緒方貞子氏が務めているとの説明があった。技術協力や開発援助、青年海外協力隊の派遣などを幅広く行っているが、青年海外協力隊の応募状況、選別法、職種など仕分け人からの質問に的確に答えられないどころか、杜撰な選別法や管理状況が明らかんとなってくるにつれ、会場からは失笑が起きていた。
 あまつさえ、活動実態がよくわからにJICA研究所や年間500億円にものぼる委託研究が日本工営など一部の企業に随意契約で発注されている親方日の丸ぶりが明らかとなるに及んで、仕分け人から厳しい叱正の声が飛んだ。基本的な数字さえ掴んでいない職員の仕事ぶりに呆れる声すら出るに及んで、JICAの事業を抜本的に見直さないといけないっとの結論となった。仕分け人の最終評価では研究・研修費は30%削減、技術協力は見直しとなった。
 続いて行われたJICA1664人の人件費など業務経費についてはJICAの給与水準が国家公務員の最高ランクにあることとが明らかとなり、海外出張費、滞在費が外交官に準じて決められている実態も明らかとされ、再び会場のどよめきを誘った。評価では給与水準をラスパイレス指数100(20年度実績で133)にまで下げることを含め「見直し」との結論となった。
 途中の仕分け人の質問で緒方JICA理事長の年棒が2216万円もあることが明らかとされ、杜撰な業務運営を行っているJICAの理事長の緒方貞子なる人物の人となりが暴露された。緒方貞子さんはかつて東京都知事選の候補者にされるほどできる人との評判が高い人であったが、その実態は意外と知られていない。JICAそのものは事業仕分けの行われている国立印刷局センターのすぐ隣にあるビルに本拠を構えている。そのお膝元で、JICAのいい加減さが暴かれ、理事長の緒方貞子さんが実は名前だけのお飾りでしかないことが白日のもとになった。緒方さん自身はそんなことになっているとは露感じてはいないことだろう。
 冒頭、JICAの職員が「当独立法人の理事長は緒方貞子である」とまるで免罪符のように述べたことが却って仇となった。JICAの職員はこれまで国会議員らに対して自らの事業内容を説明することなどついぞなかっただろうから、慣れていなかったかもしれないが、だれに対しても自らの行っていることをきちんと説明するのは人としての基本である。その基本ができていないことが、緒方さん本人も知らない意外なところで、”女”を下げたことにつながった。これも緒方さん自身の身から出た錆といえなくもない。
 家に帰ってNHKテレビのニュースのトップで事業仕分けを報じていたが、緒方さんへの配慮がったのか、JICAは国の直接の機関でもないからか、ほとんど触れられていなかった。ニュースでは鳩山首相が仕分け会場を訪れたことを報じていたが、中に入り込んでいて、少しも気付かなかった。それだけ集中していたのだろう。
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どこが20世紀オペラの金字塔なのか、難解で暗いオペラ「ヴォツェック」

2009-11-24 | Weblog
 23日は東京・初台の新国立劇場へオペラ「ヴォツェック」を観に行った。オーストリアの作曲家、アルバン・ベルクの作った20世紀オペラで、ドイツ人兵士、ヴォツェックの貧しい人生を描いたもので、全体に暗い印象は否めなかった。舞台全面に張った水の上での演技が繰り広げられ、霊界を思わせる白塗りの化粧を施した群衆が登場するなど凝った舞台装置が異彩を放っていた。
 ドイツ人兵士、ヴォツェックは大尉の髭を剃ったり、医者のモルモットをしながら妻と男の子を養って、貧しい生活をなんとか維持している。子どもにも妻にも愛情をもてなくてイライラし、夢の中で沼地を彷徨う。そんな夢とも現実ともつかないなかで、酒場で働く妻が鼓手長の誘惑に負けて、関係を持つに至ってしまう。その場面を目撃したヴォツェックは鼓手長に詰め寄ろうとするが、逆に殴られてしまう。思い余って、ヴォツェックは妻を沼地に連れ出し、話しているうちに錯乱し、妻を刺し殺してしまう。それを群衆にみとめがれて、自らも溺死してしまう、という世にも憐れな物語である。
 3幕にわたって演じられたが、舞台に水が張ってあるせいか、2時間弱、1回も休憩もなく演じられた。大尉も医者も真っ白な顔に幽霊を思わせるような出で立ちで、医者に至っては傘をさし、骸骨を思わせるような紛争で不気味さを漂わせる。出てくる群衆も無表情で、時代の暗さを象徴するかのように求職中の「アルバイト」と書いた看板を首から下げて、沼地を転げまわる。
 その群衆に担がれて、オーケストラの一員数人が板の上に演奏しながら登場するシーンもあれば、板の上で踊る男を担いだ一団が登場するシーンもある。また、顔を白塗りした群衆が踊り狂うシーンもある。それらがいずれも水の上で繰り広げられるから、水がピチャピチャはねる。
 そしてヴォツェック一家3人が出てくるシーンだけが前後に動く箱家の中で演じられる。箱家のなかで演じられるのは現実で、水の上で演じられるのは幻想である、と暗示しているのであろうか。
 それと、常に男の子どもが小道具のようにヴォツェックと妻の周りで動き回り、貴重な舞台回しを務める。ヴォツェックが死んだ後もヴォツェックの死体の上に座ったり、最後はヴォツエックが横たわるの眺める位置で立ちすくむ姿を映し出して幕となる。夫妻が死んでも、子どもが生き残ることは希望は残るとでも言いたかったのだろうか。
 パンフレットには20世紀オペラの金字塔と刷りこんであったが、少なくとも楽しいとか、希望の持てるようなものではなかった。金字塔とでも触れ込まないと興業に差し支える、とでも思っての宣伝なのだろう。バラ色ばかりではない人生、とでも言いたかったのだろうか、難解なオペラであったのは確かである。
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竜頭蛇尾に終わったNHK大河ドラマ「天地人」、本当の主役は別ということ

2009-11-23 | Weblog
 22日はNHKテレビの大河ドラマ「天地人」の最終回を見た。数週間前から前触れで宣伝していてなずこんなに早いのかと不審に思ったのと、約1年間のドラマの最後がどうなるのか、との興味もあった。火坂雅志の原作は読んでないが、ほとんど見てきて、米沢上杉藩の基礎を築いた直江兼続がいかなる最後を遂げるか、との人間的興味もあったのが見事裏切られた。あっけない最終回で、折角の盛り上げが台無しのいなったような感じを受けた。
 最終回は通常の45分より30分長い75分で、大阪冬の陣を終えて、いよいよ戦争の世も終わり、治世の段階を迎える米沢藩で、直江兼続は後継ぎの景明を病気で亡くしてしまう。これで、3人いたわが子のいずれをも亡くしてしまう不幸に見舞われる。傷心の妻、お船はお家のためにといい、江戸にいる藩主の息子の養育をすることを申し出る。
 一方、徳川幕府の体制も整って、大御所の徳川家康は直江兼続と伊達正宗を呼んで、2代秀忠の指南役となるよう要請する。伊達正宗はともかく、兼続には「愛」と「義」についてその本質を伝えてほしい、という。史実に基づいたものか、作者の創作かわからないが、常識的には一外様藩の家老に将軍の指南役を申しつけることはあり得ない。ドラマは徳川の家臣一同の願いで兼続が織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と続く戦国武将の武勇談を話すシーンがあり、兼続が戦国一の武将として石田三成を挙げ、家臣の反発を招くが、内容もさることながら、話すこと自体これもありえない話である。
 あとは徳川家康が75歳の生涯を終えた後の、火の消えたような直江兼続夫妻のノスタルジックな新潟・春日山紀行の旅や、兼続の米沢に禅林学院の新設と隠居の話が続き、紅葉したもみじの樹の下で60歳にして往生したところで、完となった。
 最終回にしては盛り上がりに欠けた終わり方で、こんなことなら大阪冬の陣の前回で終わったほうが良かった感じがした。1月はじめから面白く展開してきていただけに、竜頭蛇尾で終わったような気がしないでもない。NHK大河ドラマが今回、1カ月余も残して最終回を迎えてしまうとはいままでにないことである。来週から司馬遼太郎の「坂の上の雲」が始まるので、終了するようだが、それにしても最後をはしょったような感じである。
 この「天地人」を見ていてずっと思っていたことはこうした戦国ものは織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3代の英雄といかに関わり合ってきたか、がドラマの焦点で、織田信長らにいかに認められ、評価されてきたかが、主人公の価値を量る尺度となっている・天地人の最終回も徳川家康が亡くなって、兼続は急速に光を失った感じであった。
 作者の火坂雅志も当然そうしたことを意識して執筆していたことだろうし、この手法を使えば、加藤清正なり、福島正則なり、真田幸村なり、戦国武将を主人公にした小説が成り立つことになる。してみれば、「天地人」は形を変えた織田信長、豊臣秀吉、徳川家康伝でもある。たまたま、主人公は直江兼続ということになっていて、実は織田信長以下3代の英雄を綴ったものであり、舞台を春日山なり、米沢にとった、ということなのだろう。特に映像であるテレビドラマはその傾向が強いだろう。さ来年のNHK大河ドラマは「お江与」で織田信長の姪であり、2代将軍家忠の妻であり、よく知られている織田信長以下3代の英雄のエピソードが展開されることになる。日本人にとって織田信長以下の3代英傑はシンボルみたいなもので、テレビドラマにとって定番ということなのだろう。
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サンドウイッチを食べていたら、目の前の会場で公演が始まってしまっていた

2009-11-22 | Weblog
 21日はギックリ腰をかかえたままおっかなびっくりで、東京・赤坂のサントリーホールでの読響名曲シリーズ演奏会に出かけた。開演前に夕食を摂ろうとサントリーホール前のそば屋、水内庵へ行くとシャッターが閉まっている、そこで隣のアンデルセンへ入り、サンドウィッチを頼んでコーヒーを受け取り、席に座って、サントリーホールをみると、もう開場して、人が入っている。通常、開演の30分前に開場するのでそんなことはないはずだ、と思って、チケットを改めて見ると、開演6時となっている。いつもは7時なので、その積もりでいたら、なんと1時間早くなっていた。道理でお客が少ない理由がわかった。注文を取り消して駈け付ければ開演に間に合うが、頼んだ手前、そうもいかない。しばらくして出来上がったサンドウィッチを早々に食べて、会場へ入ったところ、係員に「あと5分くらいで終わりますから」と言われてドアの前で待った。同じように時間を間違えたらしいお客が結構、ドアの前で待っていた。
 この日はチャイコフスキーデーで、前半の小曲「交響曲バラード〈地方長官〉作品78」が終わったところで、次の「幻想曲〈テンペスト〉作品18」が始まった。指揮者のゲンナジー・ロジェストヴェンスキーは長身で指揮台の上に立たずに平場で指揮棒を振るというスタイルで、両手を使っての絶妙な指揮ぶりだった。セイクスピアのテンペストにつけた曲で勇壮な調べの曲だったが、最後が一変して穏やかな静かな終わり方だったのが印象に残った。
 後半は同じチィコフスキーの「組曲第1番作品43」で始まった。第1曲が「序奏とフーガ」、以下「ディヴェルティメント」、「間奏曲」、「小行進曲」、「スケルツォ」、「ガヴォット」と異なった曲の組み合わせで、こうしたものを組曲というのか、と思った。最後に「戴冠式祝典行進曲」と派手で勇猛な曲が演奏され、チャイコフスキーの多才な局面が偲ばれた。
 ロジェストヴェンスキーは1931年生まれの78歳の高齢とは思えない精力的な指揮ぶりで、演奏が終わってカーテンコールに応えて指揮台のところへ来て、両手を広げて「もう限界です」といった表情をして、茶目っけたっぷりに楽屋へ戻る仕草は愛敬いっぱいだった。ゆうくりと足を運んで歩む後ろ姿を見て、ひょっとしてロジェストヴェンスキーもギックリ腰になっているのではないか、と思わせた。
 家に帰って、改めて読響のパンフレットを見てみたら、「土、日、祝日の開演時間は午後6時です」と書いたお知らせふがあるのを発見した。読響の年間会員となったのは2回目だが、以前は昼時間のマチナーだったので、ついぞこうした事態には陥らなかった。コンサート慣れしていない証拠といえば、そうだが、こうした催しものの開演時間を間違えたのは初めてのことで、いかにギックリ腰で注意が散漫になっていたとはいえ、二度とあってはならないことだ。今後はこうしたことのないように、開演時間には十分気をつけるようにしたいものだ。
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異例の寒波襲来で、ギックリ腰となり、人の痛みの理解深まる

2009-11-21 | Weblog
 20日、いつものようにフィットネスクラブへ行き、水泳をした後にジャグジー風呂に入り、ロッカールームでトレーニング用ウエアに着替えようとして、立ち上がった拍子に突然、腰にギクッとした痛みが走り、スムーズに身体が動かせなくなってしまった。いわゆるギックリ腰症状となったようだった。通常、重いものを持ち上げようとして、突然動けなくなる、と聞いていたが、単に腰を上げようとしただけで、ギックリ腰となってしまったようだ。ギックリ腰は疲労と運動不足から来ると思っていたので、日ごろ運動を心掛けている鈍想愚感子としては関係ないと思っていた。それもよりもよって運動しているフィットネスクラブで発症するとはなんたる皮肉か、とも思った。
 そういえば今週は11月にしては異例の寒波襲来で、17日に雨のなか鶴見總持寺へ行き、広い本堂で寒さのなか、法戦式に参加したことがあった。午後になって、かみさんが右の白目から出血しているのを発見した。昔から冬に緊張したりすると目から出血することがあったが、いつも数日で何事もなく治っていた。今月になって、お世話になっている会社の3日間の集中討議があって、多少緊張していたことも響いているのかな、と思った。
 その2日後、寒さが足にきたのか、右足がひきつるような感じがして、これも寒さのせいかな、と思っていた。それも底の薄い靴を履いたせいか、と思ってウオーキングシューズを履いて外出したら、多少痛みも和らいできた。右目の出血も2,3日で収まってホッとした矢先に起きたのがギックリ腰だった。右目の出血、右足のひきつり、そしてギックリ腰が関係あるのかどうかわからないが、異例の寒波襲来によるものだけは確かである。
 とりあえず、トレーニングもそこそこに家に帰ってきて、医学事典で調べたら、当面安静にしていることと書いてあったので、横になったが、何をするにも動作がゆっくりになってもどかしいことこの上ない。まるで、ロボットになったようで、とにかく腰がかがめないので、靴下ひとつ脱いだり、履いたりするのがしんどい。
 ギックリ腰なるものになったのは初めてのことで、毎朝起きては腹筋2運動を20回くらいしていたのが嘘みたいな状態となってしまった。日ごろ、何不自由なく身体を動かしていたのがいかに幸せなことであるか、を思い知らされた。腰ひとつ不自由になったくらいで、生活が一変するのだから、目が見えないとか、身体障害者の生活がいかに大変なものか、がよくわかった。
 自分では憶えていないが、かみさんがよく足を痛めたり、手を痛めて接骨医に罹ったりしていると、「自分で治せ」と叱ったりした、という。で、不自由に身体を動かしている姿をかみさん見て、「人に言うと跳ね返ってくるのね」と嬉しそうに笑う。
 笑われても動かないものは仕方がない。寝違いでも治るのに2、3日はかかる、増してギックリ腰は元に戻るのに2週間くらいかかる、という。ここは日ごろ、お世話になっている人に感謝して養生に心懸けるしかないようだ。
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