鈍想愚感

何にでも興味を持つ一介の市井人。40年間をサラリーマンとして過ごしてきた経験を元に身の回りの出来事を勝手気ままに切る

1940年代の米国の酒場に出入りするお客の様々な人生模様を描いた演劇「君が人生の時」

2017-06-17 | Weblog
 17日は東京・初台の新国立劇場中劇場で、ウイリアム・サローヤン原作の演劇「君が人生の時」を観賞した。Ⅴ6の坂本昌行が主演しているせいか、若い女性が大勢つめかけていてほぼ満席だった。1929年の大恐慌から1941年の第二次世界大戦にかけてての米国が舞台となっているとの触れ込みだったので、戦争を描いた理屈っぽいのを想像していたが、なかなかどうして米国サンフランシスコの下町で明るく逞しく生きる人々の生活を描いて、最後には思わぬどんでん返しがあって、楽しめる演劇となっていて思わず惹き付けられた。

 「君が人生の時」は米国サンフランシスコの波止場の外れにある安っぽいショーを見せるニックの経営する酒場が舞台となっている。そこには正体のつかめぬジョーと名乗る男が一角に陣取って、朝から晩までシャンペンを飲みまくっている。そこへいつものように新聞を売りに来る少年がやってきて、お客に新聞を売ろうとするがだれも買ってくれず、最後にはジョーが残った新聞をまとめて買い取ってくれる。また、浮浪者が入り込もうとするが、ニックに断られてスゴスゴと出ていったり、お腹を空かしたピアノ弾きがやってきたり、ダンスを踊る自称芸人が舞い込んできたりする。さらには娼婦が来たり、それを取り締まる刑事がやってきたりして、人生模様を様々に彩ってくれる。そんななか女優という女、キティがやってきてなぜかジョーと仲良くなり、ジョーの子分のトムと親しい仲となる。それを知ったジョーはトムと一緒にキティが住んでいるアパートに押しかけ、2人を盛り立てようとして、一緒に海に出かけたりする。

 酒場には相変わらずいろいろな人々が出入りし、ショーに彩りを添えたりして、人生模様を描いてくれる。常連のなかには飲んだくれて、時々議論しているお客に割り込んで「根拠なーい」と哲学めいた感想を述べて場を和ませてくれる哲学者のような男がいたり、ゲーム機にのめり込んでいる男がいたり、西部の荒くれ男のキット・カーソンが現れたりして、場を盛り上げてくれる。今日もそうした一員として、一見貴族と思える中年の夫婦がやってくる。そしてジョーとキティとともにシャンペンを飲んだり、葉巻を吸って興じている。

 そこへやってきたのが嫌われ者の刑事、ブリックで、ジョーが席を外した隙にキティの素性を暴きたて、遂にはキティにダンスをさせて、ストリップまがいの行為をさせようとしだした。それを止めに入った店員をブリック刑事は殴りかかって、殺す寸前ににまでいく。それを見ていたジョーはトムに買わせて手元にあったピストルを取り出し、刑事めがけて打つがどういうわけか玉が出てこない。

 そのまま出て行った刑事がどういうわけか道路に出たところで何者かに討たれて死んでしまう。その後に酒場に入ってきたカーソンが刑事に殴られて、その腹いせに部屋に戻って拳銃を持って返り、出くわせた刑事を撃って、拳銃は海に捨てた、と打ち明けた。それを聞いたジョーは持っていたピストルをカーソンに手渡したところで、幕となった。

 見ていて、最後にはジョーがだれかを打ち殺したところで幕となるのかな、と思っていたが、頼みのピストルの玉が出ない、というハプニングがあり、荒くれ男がその代わりを果たす、という思いもしない結末で、なるほど最後の落としどころはこういうものか、と思わせた。酒場に出入りするお客の様々な人生模様を描き切った見ていて面白い、と思わせるもので、存分に楽しめた演劇であった。

 
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確定申告で取り戻した所得税がそのまま住民税の増税で持っていかれてしまった、というお話

2017-06-14 | Weblog
 先日、川崎市から今年の市民・県民税の税額決定の通知が来た。驚いたことにことしは前年より12万円近くも増えているではないか。詳しく点検してみると、市民税で7万円弱、県民税で5万円狭増えている。そういえば、ことし2月の所得税の確定申告の時に米国の優先株なるものを所有していて、年間金利の10%を米国に納付していて、残りの90%に日本の所得税、住民税などが課税されており、証券会社の担当者に聞いたら二重課税なので申告すれば戻ってくる、と説明されたので、所定の手続きを経てその分の10万円余を取り戻していた。それが今度は住民税の増加となってはね返ってきた、というわけだ。

 確定申告の際に保有していた優先株による米国への税額を申請するのに株式なり、債券の保有状況を合わせて申告することになっており、証券会社からの配当金・利金の支払い状況を一覧表にまとめて書き出して提出した。その時に合計の所得税、住民税も書き出すようにして、所得税は34万円余、住民税も11万円余納税したことを書き、「住民税に関する事項」欄にその旨を書き記しておいた。詳しく計算したわけではなく、住民税もしかるべく払っているのだからいいだろう、との感触であった。

 それが届いた住民税の通知によると、前年を12万円も上回る住民税を納めよ、との内容で、しかもこちらが申告した配当金の合計額より3万円余も多いし、そのなかですでに納めている11万円余の住民税はどう扱われているのかとの疑問が生じてきた。それで、溝の口にある市民税事務所へ出向き、係員に問いただしたところ、奥へ引っ込んで2月に税務署へ提出した当方の確定申告書のコピーを持ってきて、改めて検算してくれて、当方の計算間違いであることを指摘してくれた。納付済みの住民税についても一部計上の仕方が誤っていたことが判明した。つまり、規定に沿って正しく計上されたうえでのものであることがはっきりしたわけだ。

 それでわかったのは配当金や利金の支払いで住民税として差し引かれているのは5%であるのに対し、市民税・県民税の合わせてのの課税は総所得の10.025%であることである。今回、たまたま米国への納税額があったので配当金、利金を合計して申告したのだが、そうすると住民税については税率が5%から10%強に跳ね上がり、住民税については増税となってしまう、ということである。なぜそんな仕組みとなっているのかわからないが、鈍想愚感子のように海外への税金納付を取り戻そうとする輩に対して、そんなことをしても住民税が加算されてしまう、という仕掛けになっているのだ、ということを思い知らされた。

 証券会社の担当者は健康保険や介護保険への跳ね返りがあるようなことは言っていたが、まるまる住民税で持っていかれるようなことは教えてくれなかった。今回はまるまる所得税を減らした分をほぼそのまま住民税の増税で持っていかれてしまった。このうえ、健康・介護保険の保険料が増えることになればトータルはマイナスということになってしまいかねない。今後は慎重にことを進めなくてはならない、ということだが、こんなことでもないと住民税の仕組みについて学ばない、ということでいい勉強になった、ともいえよう。
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”安倍なにがしも米国のトランプもだれかの足先で踊っているコマのひとつに過ぎない”

2017-06-10 | Weblog
 9日は川崎・武蔵小杉の川崎市民アカデミーでの経済講座「1917年と2017年ーーアメリカ発ふたつの大転換点の世界経済を読み解く」の第6回目の授業「資本の集積と集中」を聴講に行った。駒沢大の瀬戸岡紘名誉教授によるもので、1917年にイギリスの客船ルシタニア号がドイツ軍の潜水艦に撃沈され、米国人128人が死亡したことから米国は第一次世界大戦に参戦し、世界の経済と政治の覇権を握ることになったが、それから100年経ってトランプ政権の登場により米国はその座を降りることとなった、それで世界の政治経済はどうなるかを読み解こう、というのがこの講座のテーマで、農業から始まって産業ごとに点検してきた。

 この日は金融がテーマで、米国は1944年のブルトンウッズ体制に入るとともに米国が世界の金融を圧倒的に支配し始めたところから始まり、ケインズ主義、独占企業、金融資本と進み、第二次世界大戦以降70年間で世界の人口が3倍になったのに比べGDPは9倍になっていることを指摘するとともに、資本は巨大化していく魔力を持っているとも指摘した。新自由主義のもとでは政府主導でなく、金融資本が経済を主導するようになり、かつては「農業」があるから「工業」が起こり、「商業」、「金融」が発展していく構造となっていたのがいまや「金融」が「商業」をリードし、あわせて「工業」も「農業」も動かしていくような時代になった、という。

 そして以前は「他人の財産を泥棒しない」ことを前提に自由な資本蓄積活動をしてきたアダム・スミス以来の理想の経済が「他人の財産を泥棒してまでも資本の蓄積を強行する」に置き換わってしまった、という。もちろん、公然と言われているわけではないが、いまの金融資本の行動パターンはこうでも考えなければ理解できないものとなっている。もちろん、正面切ってそう言っているわけではない。表面的には金融工学なる言葉でオブラートに包んだものの言い方で庶民をうまく乗せて、投資の世界に誘い込んで、最終的にはお金を巻き上げてしまう。

 なるほどいまの経済を牛耳っているのは金融資本で、世界の富のほとんどを握っているのは米国でいえばロックフェラー、モルガンといった財閥であり、アングロサクソンのユダヤ商人である。ごく表面的にはトランプという名前の政治家が保護主義への回帰なるお題目を唱えて大改革らしきことをやろう、としており、世界がその一挙手一投足に一喜一憂しているが、その後ろで糸を引っ張っているのはロックフェラーであり、モルガンということなのだろう。

 瀬戸岡教授は安倍なにがしなる人物もトランプ同様、世界の金融資本の足先で踊る一ダンサーに過ぎない、と喝破した(そういえばその安倍は昨年末にトランプと意気投合した、と帰国早々に欣喜雀躍していたことがあったことを思い出すと可笑しい)。その舌鋒で、問題の金正恩も単なる看板役を務めているだけで、後ろで糸を引いているのは軍で、彼らは決して表には出てこない、とも語った。その北朝鮮の軍がいかなるルートで金融資本とつながっているかは明らかではないが、どこかでだれにも知られない形で結びついていることは容易に想像できる。北朝鮮の核実験やサイバー攻撃などの話を聞くにつけ、北朝鮮の国力を超えたパーフォーマンスが出ていることを考えれば、そう思わざるを得ない側面もある。

 瀬戸岡教授は以前に川崎市民アカデミーはもともと市民大学を目指して設置されたもので、単なる文化センターではない、と発言したことがあり、そうした思いで講座で講演している、とも語ったことがある。だからか、時々、眠って聞いていると目を覚まされられるような言辞が飛び出し、目を瞠らせられるようなことがある。この日の講座がまさにそうであった。こうしたことがあるからせっせと川崎市民アカデミーに足を運ぶのである。
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あの岩波書店が「今年から図書総目録を作らなくなった」と聞いて愕然とした

2017-06-08 | Weblog
 7日に所用でお茶の水へ行った帰りに岩波書店が神保町にあるのを思い出し、かねて手元にあったらいいと思っていた岩波書店の図書総目録をもらいに行くことにした。ところが、神保町交差点近くにあり、よく利用していた岩波ブックセンターは昨年末に経営不振からか閉鎖となっていたので、向かいの岩波ホールのあるビルへ行って受付で聞いたところ、「10階の岩波ホールにある」とのことだった。上がってみると、手渡されたのは岩波書店の月刊図書で、図書総目録と言ったのが通じなかったようだった。

 そこで、このあたりに岩波書店の本社があるはずと周辺を歩いてみると、集英社の斜め向かいに岩波ビルがり、中へ入ると、地下1階、2階が岩波書店となっていたので、エレベーターで降りようとしたら、地下には行かない。仕方なくビルを出てぐるりと回ってみると、階段を下りたところにそれらしきオフィスがあった。受付で「図書総目録はありますか」と聞くと、ロビーの方を指さし、「そちらにあります」というので、探してみると、岩波文庫の図書総目録はあるが、単行本や全集も含めた全体の図書目録はなかった。

 困っていると、受付の女性がやってきて、「実は今年から図書総目録は作らなくなったのです」と申し訳なさそうに説明してくれた。で、「ネットで見られますか」と聞くと、それも「ない」という。それ以上はきくわけにはいかないので、お礼を言ってあとにしたが、あの岩波書店が図書総目録を作らないなどとはいままで考えられないことだった。

 これまでは岩波ブックセンターへ行けば岩波書店の刊行している単行本や全集、雑誌などはそろっていたので、便利だったが、それがなくなってしまったうえ、図書総目録もない、となるとこれから岩波書店の本などの発行状況を知るにはどうしたらいいのか、と途方にくれる。岩波書店はいまでもそうだと思うが、数ある出版社のなかで唯一書店に対して買い取り制で本を販売している。つまり、書店としては売れるという自信がない限り、岩波書店の本は発注しないのだ。だから街の本屋さんに岩波書店の本を置いているところは極めて少ない。岩波書店が自ら出版する本に誇りを持っているからできることで、岩波文化とも称されてきた。

 その岩波書店が図書総目録を作らないなんて、自殺行為んいも等しいことである。それだけ経営が厳しいということなのかもしれないが、出版社がそこまできた、ということを物語ってはいまいか。岩波文化が廃れるということは日本の文化の荒廃にもつながりかねない由々しきことでもある。この日訪れた岩波ビルは地上1階より上は貸しビルのようで、岩波書店の所有するビルであれば相当な家賃収入が入ってくるとも考えられ、出版以外の副業で経営はなんとか維持できるのかもしれないが、肝心の本業である出版は傾いているのかもしれない、とも思った。
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auショップ店頭では「ガラケーはもう修理しないし、交換もしない」と言われたが、同じauのお客様センターへ確認したらきちんと交換してくれた

2017-06-05 | Weblog
 一週間前に電話の故障でイッツコム社と電話でやりとりしている時に誤って携帯電話を味噌汁の中に落としてしまった。以来、携帯電話のスライド式の画面を出したり、引っ込めたりすると画面が消えてしまうようになり、溝の口のauショップに持ち込んで「どうしたものか」と相談しに行ったら、出てきた店員は携帯電話を見るなり、「この機種はもう生産していないので、修理はきかない。即座に買い替えるしかない」と言って、4GLTEのAQUOSなどの機種への買い替えを薦めてきた。いま所有している携帯電話は5年ちょっと前に購入したソニーのS006で確かにもう販売もしていないので、そうなのかな、と思いながら、「少し検討して出直す」と言って店を後にした。

 家に帰って5年前のauショップでの契約書などを取り出してみていて、そういえば毎月払っている電話電話料のなに「故障紛失サポート」料として380円ずつ支払っていることを思い出し、少なくとも修理を受け付けないのならこれをゼロにしてもらわなくては、と思って、auお客様センターへ問い合わせてみた。そしたら、驚いたことに電話に出てきた女性はこちらの訴えに対して「その機種はことし末まで交換を受け付けることになっています」と言うではないか。そして、在庫があるかどうか見てきますと言って、数分して在庫がありますから、「S006をお送りします」と言ってくれた。しかもこれまで「あたたさまは一度も交換していないから費用は3240円で、明日にも宅急便でお届けできます」とも言ってくれた。

 そんなやりとりをした翌日にauから「S006」機種が届けられた。新機種へのセットアップには多少手こずったが、溝の口にあるもうひとつのauショップの助けを得ながら、なんとか新機種への移行を完了して、無事に元のペースに戻ることができた。

 それにしても問題の溝の口のauショップの修理を受け付けてくれなかった対応はauお客様センターのそれとはえらい違いである。auショップ側とすればそんな手間のかかることは一文の得にもならないので、新しいスマートフォンへの移行を薦めた方がいい、との判断からそうした応対をしたのだろう。しかし、鈍想愚感子が使っているガラケーのユーザーは数が少ないとはいえ、一定のお客さんが存在する。そうしたユーザーに対してauお客様センターが持っている情報を提供したうえで、スマートフォンへの移行を薦めるべきではなかろうか。au溝の口ショップにはこれまで度々利用してきたが、こんな対応をするのではもう利用するのは願い下げである。

 いまやガラケーは店頭では販売されていないので消えかかっている商品ではある。だからと言ってこんなぞんざいなサービスがまかり通っていいのであろうか。いまや国民1人1台の普及となっている携帯電話は日常茶飯でこうした故障が起きていて、困っているお客さんも多いことだろう。なのに売らんかなだけの姿勢ではお客の足は遠のくばかりだろう。auとしてはお客さんへの伝える情報は本部でも店頭でも同じようにするべきだし、どこのauショップでも同じサービスが受けられるように、と徹底すべきだろう。

追記 送られてきた新機種のセットアップを完了し、あとは暗証番号だけが受け付けてくれない。旧機種の暗証番号を入力しても反応がない。何回試みてもダメなので、auお客様センターやauの故障紛失サポートセンターへ問い合わせてみたが、なかなか解決策が見当たらなかった。なかには「初期化してみたら」というとんでもない回答すらあった。昨日は時間切れとなったので、今朝になって再度故障紛失センターに問い合わせたところ、「お客様センターにかけて聞いてくれ」と言われ、かけたところ、即座に「携帯電話の使い始めは暗証番号は1234に設定されてます」とのことで、あとは好きな番号に変更すればいい、とのことで、アドバイス通りやってみたらなんなく成功した。こんな基本的なことをなぜ最初から教えてくなかったのだろう、と不思議に思った。ICカードを挿入したりしたので、データがそのまま移行している、と思い込んだこちらのミスでもあるが、評価の上がったauお客様センターでも人によってあたりハズレがある、ということなのだろう。
 
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前評判が高く、それなりに楽しめたディズニー映画「美女と野獣」

2017-06-03 | Weblog
 3日は東京・二子玉川の109シネマズでディズニー映画の「美女と野獣」を観賞した。「美女と野獣」はこれまでも何回も映画化されているが、今回のは大人も楽しめるように制作されているとの評判のようだったので、かみさんとともに出かけた。そのせいか若い女性客が多くてそれほど子供客は目立たなかった。ストーリーは魔法に欠けられた王子が捕らわれた父親を救い出すためにお城を訪れた美女の愛を得て、2人は結ばれ、王子はかつての栄光を取り戻すというもので、それなりに楽しめた。

 「美女と野獣」は欧州のとあるお城で美女ばかりを集めて日毎にダンスパーティを開いている王子を懲らしめようと魔女が現れ、王子に呪いをかけて野獣に変えてしまう。それと同時にお城は闇のなかに閉じ込められてしまい、世の中から忘れ去られてしまう。お城に近い街では街一番の美人と誉れの高いベルにガストンという若者が言い寄るが、ベルは相手しにしない。

 そんなある日、時計職人のベルの父親は出来上がった時計を納めに街を出るが、帰りに道を迷い、狼に襲われ逃げる途中に誰もいないお城に足を踏み入れてしまい、野獣に捕らわれの身となってしまう。その父親を案じて探しに出かけたベルは狼に襲われたところへ野獣が出て来て救われるが、そのまま捕らわれてお城に連れていかれる。そこで父親に会い、父親の身代わりとなって、東の塔に閉じ込められる。野獣の世話役の時計など化身からは西の塔には足を踏み入れないように言われる。その西の塔を探索するうちに野獣である王子とは打ち解けていろいろなことを話すようになり、2人は愛をはぐくみ始める。

 ところが街へ帰った父親はガストンの策略に嵌って捕らわれ、それを助け出すべく街に向かったベルも同じように捕らわれ、ガストンは人々に野獣の棲むお城を攻め落とすことを吹き込み、みんなでお城へ押しかけ、ガストンは野獣と決闘をし、野獣を倒してしまう、。が、そこでかつてお城を閉じ込めた魔女の呪いが溶けて、突如野獣は生き返って王子様となってベルの前に現れる。そして魔法は溶けて、かつてのお城は栄光を取り戻し、ベルは王子様と舞踏をする場面で幕となる。

 ベルを演じたのは「ハリー・ポッター賢者の石」で少女ハーマイオニーを演じ、7作目まで「ハリー・ポッター」の全シリーズに出演したエマ・ワトソンで、可憐で何事にも勇ましく立ち向かっていく健気な乙女を心いくまで演じていて好感が持てた。出演者のなかに父親がガストンに縛られ荒野に置き去りにされたのを救う老婆をしていた女性が呪いの溶けたシーンでお城の女官のような感じで映っていたのが違和感があったが、総じてよく作り込んでいて、大いに楽しめた。

 余談になるが、鈍想愚感子は東急ロイヤルカードを持っていて、かねて109シネマズではチケットとカードを提示するとポップコーンのサービスが受けられることを知っていたが、今日もカードを忘れてきて、そのサービスが受けられなかったのは残念なことだった。次回は忘れずに持参したいものだ、と強く思った。

 

 
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