鈍想愚感

何にでも興味を持つ一介の市井人。40年間をサラリーマンとして過ごしてきた経験を元に身の回りの出来事を勝手気ままに切る

イタリアのモンティ首相の不評で、公正で的確な第三者機関で、組閣できないものか

2012-10-31 | Weblog
 1年前に国民の大きな期待を背負って発足したイタリアのモンティ首相が頓挫しよう、としている。プロの政治家をすべて切って、学者や評論家など民間人だけで組閣し、思い切った経済改革を試みたが、その実が出なくて国民の反発を招いているようだ。イタリア各地でモンティ首相反対デモが起きるほどにまでなっている。プロ政治家には政治を任しておけないと学者のモンティ氏に国の運命を託したのだが、やはり政治はプロに任せるべきだ、ということになるのか、同じような状況に追い込まれつつある日本としても見過ごない。
 イタリアのモンティ首相は昨年11月に就任し、経済改革に着手し、当初は国債の利回りは低下し、有識者や国際機関、欧米の政治指導者から称賛を浴びた。就任早々、勤続年数に基づく早期退職制度を廃止する一方で、女性の退職年金を大幅に引き上げるなど経済改革を含む300億ユーロの緊縮政策を断行し、さらには全労働者保護の供与や、臨時雇用契約の撤廃を見送る代わりに臨時職員を採用する企業の税率を引き上げた。労働改革のねらいは制度の二重性に取り組むことにあり、高齢労働者が終身雇用で手厚く保護される一方で、権利も福利厚生もない臨時労働者の数が拡大している、という格差を縮小することが必要だ、とモンティ首相は説明している。しかし、専門家はねらいについては称賛するが、民間部門しか対象としていないため、効果は限られる、としている。
 また、首相のサービス部門の規制改革案はコスト削減と競争力引き上げをねらいとしているが、改革そのもんが小幅で公益や銀行部門に切り込んでいない、との批判が強い。
 そうこうしているうちに頼みのイタリア国債の利回りが再び上昇するに及んで、モンティ首相の経済改革は批判され、支持率も低下しだした。イタリア出身のエコノミスト、ハーバード大のアルベルト・アレシナ教授とミラノのボッコーニ大のフランチェスコ・ジャバッツイ教授は首相の打ち出したサービス部門と雇用市場の改革を効果なしと退け、経済成長を押し上げる機会を逸したと痛烈に批判した。両教授はイタリア経済の見通しを改善させるには抜本的見直しが残された唯一のカードだ、と指摘している、という。こうした批判はイタリア財界、メディアからも出ており、遂にベルルスコーニ前首相までもがつい最近「支持撤回」を言い出した。
 ただ、大きな期待を背負って船出しただけに、依然としてモンティ首相には多くの支持者がいるが、昨年11月に就任した当時ほどの熱は見られず、冷めてきている、という。
 モンティ首相は1年でイタリアを再生させる、約束のもとに発足した内閣で、まもなくその1年が経とうとしている。日本にもプロの政治家の政治はもうんざりだ、とする声が多く出ておあり、イタリアのケースは他山の石として注目されていた。それだけにやはり政治はプロが関与しないということになるのか、見逃せないところだ。
 イタリアの場合、内閣からすべての政治家を排除して発足しただけにその点が行き過ぎた、ということだろう。要は政治家の取捨選別を行ったうえで組閣すべきだったtぽいうことになる。ただ、問題はその選別をだれが行うのか、という問題は残る。学者、有識者など民間人が入った第三者機関で選別するのがいいだろうが、そのメンバーを一体だれが決めるのか、という問題がまた出てくる。選挙以外に公正で、的確な機関がなんとか生み出せないもんか、それが問題だ。
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自殺者が減少しているのは社会全体のケアが進んだから

2012-10-30 | Weblog
 先日、ある政治家が講演で、日本の自殺者が減っている、と話していた。どういう話の下りでそうした話になったのか、わからないが、どうせ自殺者が減っているのは政治がよくなったからだ、との我田引水の話なのだろう。で、少し気になったので、調べてみたら、確かにこのところの自殺者の数字は減っている。まだ、1年が終わったわけではないので、断定できないが、年間3万人を超えていた自殺者の数が3万人を切ることになりそうだ、という。
 警察庁の統計によると、ことし1-6月の自殺者は1万4154人で、前年同期比ー11.7%で、1871人も減っている。1998年以来、14年連続して年間の自殺者数は3万人を超えていたので、このペースでいくと、15年ぶりに3万人を切ることになる、という。これを男女別内訳でみると、男性が9920人、女性が4234人と圧倒的に男性が多い。生への執着が男性より女性のが強い、ということで、総じて女性の方が逞しいようだ。
 同じ警察庁の統計による23年の自殺者3万651人の自殺の理由を見てみると健康上の理由が47%、次いで経済・生活の問題20%、家庭の問題14%、勤務上の問題9%、男女問題4%、、学級問題1%などとなっており、圧倒的に健康上の理由が多くなっている。不治の病に罹り、悲観して自殺してしまうようである。もちろん、自殺に至るには様々な出来事なり、事象が重なっての上で、理由はひとつだけではないケースが多いので、一概には言えないが、警察庁が事情を聴取したうえで判断しているので、それなりの根拠がある、と見て差し支えないだろう。
 ということは自殺が減っている大きな理由として考えられるのは医学の進歩で、病気の回復が目に見えて向上しているからであろう。ひところ難病といわれた病がいまは簡単に手術できたり、以前なら1週間はかかった手術がほんお半日でできたりして、このところ高度先進医療技術の進歩は目覚ましい。それと、国なり、地方自治体、さらには各種NPO団体などで、市民に対する数々のケアが行き届くようになったことも自殺が減少することにつながっていることと思われる。政治が関与していないとはいわないが、困っている人や恵まれない人に対し、手を差し伸べることがいろいろな方法で行き届いてきたのだろう。特に昨年3月11日の東日本大震災で、社会全体にそうした機運が高まってきたことも大きな理由としてあげられよう。
 そてみると、日本はまだまだ捨てたものでもない、という気がしてくる。それでも世界水準から見ると人口10万人当たりの自殺者数は多いのかもしれない。せめて1万人を切ったら、そういうことがいえるようになるのかもしれない。
 
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早くもメッキが剥げてきた石原新党

2012-10-29 | Weblog
 石原慎太郎東京都知事が新党立ち上げを表明してから4日経ったが、どうやら当初の衝撃が段々醒めてきたようだ。当初は新聞の号外が出るなど周囲は驚き、天地を揺るがすかのような印象があったが、このところの新聞、テレビの扱いも冷ややかなものに変わってきた。芥川賞作家であり、大臣経験者、しかも東京都知事として数々の実績をあげてきただけに国政でも豪腕を発揮するだろう、との読みだったが、あにはからんや実際に手を組んでいこう、となると二の足を踏む政党が多く、どうやら打ち上げたアドバルーンもしぼみかけている。
 当初から石原都知事の任期半ばでの新党立ち上げは責任放棄とみる向きも少なからずあった。2011年4月の都知事選も当初は引退を示唆していたのに子息の石原伸晃前幹事長の説得でやむなく出馬し、どちらかといえば義理で四選を果たしたきらいがあった。当選してからも東日本大震災後に都の水道が放射能汚染されているのを自ら飲んで心配ない、とパーフォーマンスしたり、真っ先に震災のガレキ処理を受け入れたり、尖閣諸島を都が購入する、と表明したりそれなりの存在感を示してはいたが、混迷する政局のなかで常に新党立ち上げが噂されていた。ただ、ここへきて子息の石原伸晃前幹事長が自民党総裁選に出馬し、平成の明智光秀といわれ、あえなく敗戦するに及んで、時はよしと新党立ち上げを表明した。
 これに早速、たちあがれ日本党が石原都知事を代表に迎える、と応じ、橋下徹大阪市長率いる日本維新の会、みんなの党も合流して、第3局を形成するとの観測が流れたが、どうも消費税増税や原発廃止など政策面で必ずしも一致せず、どうも合流はしない方向となってきた。となると、単に石原新党といいながら、実態はたちあがれ日本の代表の座に座るだけのことで、いまの群小政党が割拠するなかの小さな風にとどまる公算が強くなってきた。たちあがれ日本には肝心の両子息の石原伸晃議員と石原宏高議員は参加しないようだし、他党からもほとんど参加する議員はなさそうである。
 こうなった原因はやはり任期半ばでの都知事辞任が責任を放棄したことが大きいのではなかろうか。新党立ち上げの最大の理由として石原氏がいげている官僚支配の打破というのも聞こえはいいが、中央官庁と地方自治体の役人とそれほど差はないのではなかろうか。特に中央官庁の役人だけを目の仇にするのも違和感がある。役人としては中央も地方も同じような人種に見える。東京都知事として都の役人の世話になっていながら、辞めて中央の役人を仇呼ばりするのも論理矛盾のような感じがしなくもない。
 それとやはり年齢の80歳というのが気になる。世界を見渡しても80歳で政治の第一線に立っている政治家は一人としていない。どうして日本だけが80歳の政治家に国の運命を委ねなくてはならないのか。世界の流れから逆行しているとしか思えない。新党立ちあげの記者会見の際、記者からの質問に答え、「どうしてこんな老人が頑張らなくていけないのか、若いきみらもっとしっかりせよ」と叫んでいる石原氏の姿が放映されていた。どういうやりとりでこうした言辞となったのか、よくわからないが年齢のハンディは本人が一番よく実感しているということがよくわかる局面だったことは間違いない。
 確かに日本の政治は混迷しているが、80歳のロートルを担ぎださなければ解決できないところまでは追い込まれていない、ということだろう。
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初秋京都の旅その4

2012-10-28 | Weblog
 27日は龍安寺へ出かけることにし、地下鉄烏丸線から東西線に乗り換え、太秦天神川から京福電鉄北野線で龍安寺駅で降り、歩いて龍安寺に行くと外国人や修学旅行生らで結構な賑わいぶりだった。午前8時から拝観受付となっており、石庭の前には相変わらず座り込んで庭を眺める人が多い。海を思わせる白砂の上に15の石が散りばめられていて、哲学的な思索にふけていると、崇高な気分になってくるが、だからといって何か悟れるわけではない。特別に仏教の経典を読んだりしたわけではないので、いくら眺めていても悟りが開けるものでもないだろう。龍安寺にはこれまで10数回来ているが、この石庭を見ないと来た感じがしないし、何か惹きつけるものがあるのだろう。
 見終わって、売店に来ると、龍の掛図を特別公開するといって、拝観者を募っている。拝観料は1人500円と高いが、折角なので、払って中へ入ると、中年の女性が「こちらです」と招じ入れたので、入ると、天井から大きな龍の絵が垂れ下がっている。高さ5メートル、幅4メートルにわたって蟠まる龍の図が描かれている。時間が来ると、招じ入れた女性が説明をし出した。龍安寺なので、まず石庭の説明をしたあとで、龍の絵の説明をし、合わせて隣の茶室、蔵六庵の説明をした。特別拝観というほどのものでもなかったが、パンフレットを見ると公益財団法人禅文化研究所なるところが企画したことになっている。その割には説明員も普通のおばさんだったし、説明も学術的な匂いもなかったので、単なるお金儲けに過ぎなかったのだろう。
 次いで、歩いて金閣寺へ行った。こちらもいつもながらの人出で、清水寺と京都観光の双璧といった面持ちで、撮影スポットでは場所を確保するのにひと苦労した。こちらも以前にやっていた方丈の特別公開をしていたが、拝観料は1000円とまさに金閣寺らしい高額で、今回はパスした。
 この後は金閣寺脇の喫茶店で簡単なランチを摂り、新幹線で帰途に着いた。
 これで京都へはこの10数年で10数回来ていることになるが、あとは10月の葵祭りを見れば、ほぼ京都観光は一巡したことになる。もちろん、今回訪れた水族館のように新しい観光施設もどんどん出来ているので、来る度に新しい京都の顔を見ることができるし、変わりゆく京都の姿を見ていくことも旅の醍醐味といえるのかも知れない。
 ただ、今回の旅では以前ほど感激しなくなったし、京都がいいな、という感もそれほどしなかった。考えてみれば、まだまだ日本国内で行ってないところも数多くあるので、しばらくはそちらに重点を置いてみようかな、とも思う。
 ひとまず来年の葵祭りを見たあとはしばらく京都ともお別れ、ということにしたい。
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初秋京都の旅その3

2012-10-27 | Weblog
 26日はまず奈良の法隆寺へ出かけた。JR奈良で乗り換え、法隆寺駅で下車し、バスで法隆寺へ赴いた。ここでも小学生の遠足とおぼしき集団が多いのに驚かされる。法隆寺には過去2、3回来ているが、いつも工事中で満足に見られたことがなかった。今回は金堂から大講堂、それに百済観音、玉虫厨子など国宝級のものがズラリと陳列してある大宝蔵院、夢殿がすべて見られ、長年の想いがかなった感じがした。歴史の教科書でしか知らなかった仏像や仏具を目の当たりにして感激至極だった。
夢殿を見終えて外へ出ると、中宮寺はこまちらとの表示が出ていて、導かれるように門を入り、半跏思惟像と対面する。ロダンの考える人の仏像版といったところで、お堂のなかにただこの像だけが置かれていて、これだけで拝観料500円とはちと高いかな、と思えるのに、居並ぶみなさんはそんなことはチラリとも気配に出さない。厳かな表情で、一心に仏像に見入っている。海外の教会はほとんど中を見るのに拝観料なをか取らない。だれが考えたのか、拝観料なんてうまく仕組んだものだ。日本人は優しいのかも知れない。
 この後は宇治の平等院に行った。駅前で湯葉丼なるランチを摂ったうえで、平等院に行くと、肝心の本堂は工事中で見られず、代わりに鳳凰堂の宝物を展示している鳳翔館で日本最古の大和絵の日想観図や雲中供養菩薩などを見た。そして、日本最古の神社、宇治上神社を拝観した。世界遺産でもあるにもかかわらず、ひっそりとした佇まいで、何よりも拝観料を一切取らないのに感激した。
帰りの参道沿いで宇治茶道場匠の舘で、玉露と抹茶の淹れ方を伝授してもらい、美味しく宇治茶を飲んだ。特に玉露を4回くらい煎じて飲んだあとに勧められるままにお茶っぱをそのまま食べたら美味しかったのに驚いた。帰ったら自宅で楽しもうと思って、早速お茶屋さんに寄り、玉露と抹茶を購入した。
 帰り、宇治駅から京都駅までのJR西日本の切符は230円で、法隆寺駅から宇治駅までの650円を足すと880円で、行きの京都駅から法隆寺駅までの950円より安い、ということがわかった。途中下車して寄り道した方が安いなんて初めてのことだ。宇治へ沢山の観光客を呼ぼうという作戦なのかわからないが、JR西日本もここまで計算していないのだろうか、不思議な体験だった。
 夜はハーベスト京都の会員の懇談会に参加し、清水寺傍の料亭、京大和で京料理と舞妓さんの踊りを満喫した。もちろん、京都のお茶屋さんで座敷に上がり、旦那気分を味わったのは初めてのことである。幕末の坂本龍馬の名前まで出た創業百年を超えるという五代目女将の話が面白かった。
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初秋京都の旅その2

2012-10-27 | Weblog
 24日はサイクリングででかけることとし、午前8時半にまず二条城に向かった。二条城まつりなるものを開催していて、朝早くから修学旅行生を中心にやたら人が多い。自転車をどこに止めようか、と駐輪場で迷っていると係り員が寄ってきて200円を徴収され、他の京都の観光地でも見せればただで駐輪できる券をくれた。金閣寺など10カ所くらい専用の駐輪場があり、サイクリングで京都観光できるようになっていることが実感できた。
二条城に続いて東本願寺、西本願寺と回り、東寺に行こうと梅小路にかかると、京都駅で大々的に宣伝していた水族館があったので、京都に水族館は似合わないとは思いながら、話の種になると思って入ることにした。入場料は二千円と高かったが、入ってすぐのところにオオサンショウウオが沢山いて、驚いた。なんでも賀茂川で捕獲されたとかで、京都に水族館の意味が理解できた。オオサンショウウオをじっくり見るのは初めてのことで、これだけでも二千円の価値がある、と思った。
そして東寺に向かった。jrの線路を越えるだけで、人出は格段に落ちるようで、所蔵2万を超える宝物館を特別公開しているのに閑散としている。木造の高さ6メートルもの千手観音立像は迫力あったし、もうひとつの特別公開の観智院の庭園もよかった。
その後はランチを摂り、しばらく前にテレビで放送していた東山区のクラフト作家が集まってあるあじき路地を探したが、いくら探してもそれらしき場所は見つからなかった。京都は電柱に番地が貼り出してなくて家を捜し難いところだと改めて思った。
そして、あとはコーヒーを飲んだり、賀茂川へりを走ったりして帰途についた。ホテルに帰ってテレビをつけ、ブロ野球ドラフトの様子を見ようとしたら、石原慎太郎東京都知事辞任のニュースを鳴り物入りでやっていた。官僚に支配され、閉塞状態のいまの日本の政治を変える、と息盛んで政局の台風の目となりそうである。政界は上へ下へと大騒ぎだが、一番驚いているのが自民党首脳であるのが面白い。自民党総裁になっただけで、天下を取ったような気になっていた安倍総裁の顔が青ざめていた。
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京都初秋の旅その1

2012-10-27 | Weblog
2年ぶりに京都へ旅行することにし、24日出発した。毎年この時期に会員であるハーベスト京都の懇親会が開かれ、いつもはスケジュールが合わなくて参加できなかったのが今年はバッチリ合わせることができ、しばらく京都にきていなかったので 3泊4日の旅をすることとした次第。
初秋の京都は爽やかである。京都駅に降り立つと幾分ひんやりとした空気が肌に感じられる。駅のコンコースに新しくできた観光案内所でパンフレット類を漁り、取りあえずバスに乗り、いつもの清水寺へ向かった。五條坂を登っていくとシーズンなのか修学旅行生がやたら多い。ツアーガイドに導かれた一団が参道を登っていく。五重の搭を見ながら参道を行くといつも立ち寄る藍染めのお店が閉まっているし、以前見かけなかったお店があったりして、時代の変化を思い知らせてくれる。ランチを摂ろうとイノダコーヒー店に入り、ビーフカツサンドを注文して食べたら、以前ほど美味しいと思えなかった。どうやら肉の質が若干落ちたようだ。  それより驚いたのは共栄堂の線香の値段が倍になっていたことだ。聞けば、原料の白檀の価格が上がったらしいが、これでは気軽に線香をたく気になれない。ざっと京都の清水寺、祇園、新京極、錦小路あたりをショッピングがてら散策したが、物の値段は上がっているようだ。なかにはえっと思うような掘り出し物にぶつかることがあるが、そんなのは例外だ。総じて物価は高くなっている。世界一周したから感じるのではない。これでは暮らしはきつくなる一方で、政治家に文句のひとつでも言いたくなるのも無理はない。
夕刻ハーベスト京都に入り、テレビをつけると、関西の各テレビ局がワイドショーをやっていて、東京では見かけなくなったタレント、評論家が出演している。なかには都落ちと思えるような人もいて、なるほどと思えてくる。青山某なる政治評論家などは関西だと思いきったことが言えると思っているのか、 とんでもないことを堂々と語っている。東京でならまずいわないようなことを大胆に話している。見ているうちに関西は東京とは一種違うジャーナリズムを形成しているのだな、と妙な納得をした。
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24年ぶりに解けた疑問、聞いてみないとわからないものだ、と思った

2012-10-24 | Weblog
 先日の早稲田大学のホームカミングデーの日でのことである。式典終了後、ゼミの仲間とリーガロイヤルホテルで会食した際、隣にF君が座った。F君とはゼミ時代、何回も飲んだ記憶があるが、どちらかといえば勉強よりも共に遊んだ記憶しかない。卒業して20年目に早稲田の大隈会館で集まった時に会って以来、24年ぶりの再会であるが、F君は「そんなに経っていないのでは」と覚えていないようだった。F君はゼミの仲間ではあるが、どちらかといえば雀荘に通うことが多く、それほど熱心なゼミ生ではなかった。確か卒論を書くのが遅れて、早稲田界隈の古本屋で見つけた新書をほとんど丸写しで仕上げて提出したこともあった。
 で、思い出は24年前の集まりの時の話になるが、その時にゼミのD教授を招いていなかった。招待状を受け取ったゼミ生は当然、D教授も参加するだろう、と思い込んで、地方から駆け付けた人も多かったようで、みんな意外な顔をしていた。幹事役をしていた数人はじうれもマスコミ関係に就職したもので、就職にあたっては一切、D教授の世話にならなくて、すっかりD教授とは疎遠だったので、D教授を招くことなど思いもよらなかったのだった。しかし、考えてみれば、ゼミ生の大半はなんらかの形でD教授のお世話になっており、D教授を招かなかったのは間違いであることに気付いた。
 なかでも最も落胆の色を見せたのがF君だった。その時はD教授を招いていない代わりに研究室の扉の前まで行って記念写真を撮ったことを覚えている。F君は「D教授、来ないの」と大きく口を開けて叫んだのを今dめお覚えている。ゼミのなかでそんなに勉強していたとは思えないF君がそんれほどD教授を慕っていたとは意外だった。学生時代に勉強していなかった者に限って、当時を懐かしがるし、卒業してから勉強したがるとよく言われるが、F君の場合もそれだろうと思っていた。
 F君に当時のことをそれとなく聞いていくと、意外なことが判明した。当時、D教授はいくつかの企業の研修を受け持っていて、就職の際にそうした企業に声をかけ、無試験で就職を斡旋するようなことをしてくれていた。大手銀行や、流通企業などがそれで、F君はそうした企業に紹介してもらおうと4年生の春から頼んでいた、という。ところが、それに対する回答は一切なく、とうとう12月になって自力で就職課を通じて、就職する企業の内定をもらった、という。
 だから、24年前に大隈会館で会った際には「D教授に文句を言ってやろう、と思っていた」と打ち明けてくれたのだ。当時はみんなの想いは同じで、幹事として申し訳ないとおもうのが精いっぱいで、そこまで事情を聞くに至らなかった。「えっ」と思って、永年抱いてきた疑問が一篇に氷解した。まさか、F君がそんな思いを秘めてゼミの集まりに参加したなどとは思いもしなかった。
 F君が早めに帰ったので、そのあとで他のゼミ生にF君がD教授から就職でつらい仕打ちを受けたことを話したら、さらっと「F君はゼミの出席率がよくなかったからな」と解説してくれた。いまは亡きD教授に聞くわけにはいかないので、、そんな事情だったのか知る手立てはない。
 、
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10.8決選での負けを反省した采配はどこにあったのか、監督で負けた中日ドラゴンズ

2012-10-23 | Weblog
 22日、贔屓の中日ドラゴンズが巨人に負けて、ことしのプロ野球のシーズンが終わった。今年のセリーグは巨人が独走し、クライマックスシリーズもそのまま巨人の圧勝となる、との戦前の予想に反し、意外と中日がヤクルトとの戦いでブランコの満塁逆転ホームランで波に乗り、あれよあれよという間に巨人に3連勝し、あとひとつ勝てば日本シリーズにでられるところまで巨人を追い詰めた。ところが、22日の最終戦でなんと4年目の伊藤投手を先発に起用したのを見て、えっと思った。調子がいいかもしれないが、たまたま4日前の第2戦に好投したからといって大事な戦いの先発を務められる投手ではないからだ。1回表に大島、井端が四球を選んで1死1、2塁の絶好機を迎えて、ブランコが打席に入った。巨人の先発ホールトンはよれよれでもうKO寸前だった。なのにブランコはボール球を振って、相手を助け、あえなく3振し、続く和田も3振に倒れ、折角の好機も零点に終わった。これを見ていて、ドラゴンズの選手は固くなっているな、と思って、見るのをやめたら、案の上、4対2で負けた。
 追い詰められていた巨人は第4戦目で勝って盛り返し、本来の力を取り戻したようで、そうなるともうドラゴンズに勝ち目はない。負けてもともととリラックスして戦いに臨んでいた中日の選手は3連勝して、欲がでたのか、すっかり固くなっていた。3連勝していたころの中日の選手だったら、あんなよれよれのホールトン投手など簡単に打ち崩せたのに棒球を振ってあえなく3振してしまい、完全に勝利の神様から見放されてしまった。
 中日の高木監督は戦前から18年前の巨人との10.8決選で負けたことを口にし、短期決戦の何たるかを語っていた。10.8決選では調子のいい投手を起用するのではなく、エースの今中投手を先発に持ってきたのが間違いだった、とも語っていた。だから、同じような最後の戦いとなった22日に、その采配がどう発揮されるかを注目していた。その先発が伊藤投手というのはどう考えてもわからなかった。ただ、高木監督と同郷の岐阜出身ということだけで起用したのではないか、と思えるほどだった。1回表の中日の攻撃中、伊藤投手の顔がテレビに映し出されていたが、緊張して平常心ではないように見受けられた。あとで、2回に決定的な3点を奪われ、降板したというからその通りだったのだろう・
 今回のクライマックスシリーズを通じて、10.8決選を反省した高木監督の采配ぶりがどこで発揮されるかをずっと見てきたが、単に選手の思うままにさせているだけで、これでは勝てないだろう。特に3連勝したあとの4選で、先発の川上投手が1死2塁で、3番の坂本を迎え、初球に打って下さいと言わんばかりの緩い棒球を投げ込んで見事にレフトへ打たれ、先取点を献上し、続く阿部にも同じような初球を打たれあっさりと2点取られた。結局3対1で負けたので、この2点が致命的なものとなった。
 さらに続く第5戦でも2対2の同点で迎えた9回裏に登板した岩瀬投手が先頭の矢野にふわっと投げた初球をレフト前に運ばれ、続くヒットと四球で満塁とし、降板した。岩瀬といい、川上といい、全盛期のスピードはなく、かわす投球法に変わっている。だからコースなり、変化で打者の思惑を外すしかない。打ち気にはやっている強打者に初球から緩い絶好球を投げ込んでは勝ち目はない。
 第5戦ではさらに高木監督は岩瀬に代えて、抑えの山井をつぎ込むミスまで犯した。岩瀬に最後まで投げさせ、山井は最終戦の切り札として温存すべきだった。どの道、引き分けでも最終戦に勝つしかなかったのだから勝ちにこだわる必要はなかったのだ。結局、山井はサヨナラ打を打たれ、敗退し、完全に流れを巨人に持っていくことにもなってしまった。
 どこに10.8を反省した采配があったのか、と高木監督に聞きたいくらいの戦いぶりだった。折角勝つタチャンスがあったのにミスミス大魚を逃した采配であったといわざるを得ないだろう。なんといっても、中日のレーゾンデートルはペナントを獲る以前に巨人に勝つことしかないのだから。ファンとしては悔しい限りの敗戦だった。
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ホームカミングデーは式典より同窓生と会えるのが楽しみ

2012-10-22 | Weblog
 21日は早稲田大学のホームカミングデーなるものの出席した。早稲田大学を卒業してことしで45年目にあたるので、卒業15年、25年、35年、50年目にあたる人たちと一緒に招待されたもので、午前10時半から記念講堂で開かれた記念式典に参加した。始まる少し前から応援団が壇上に上がり、歓迎のエールと応援のデモンストレーションをして出迎えてくれた。そして、まず鎌田薫総長の挨拶のあと招待者を代表して小栗康平映画監督の挨拶があり、早稲田大学と友好関係にある韓国の高麗大学の交友会会長に名誉博士号の称号が贈られる贈呈式がり、最後に早稲田大学の校歌を合唱して終了した。以前にもホームカミングデーに参加したことがあるが、規模の点では格段に大きくなっており、目を瞠るものがあったが、内容的には通り一辺のもので感激するには至らなかった。
 鎌田総長の話は早稲田の建学の精神を述べた程度のもので、聞き流した。小栗監督の挨拶で昨年の3月の東日本大震災の直後に早稲田大学からお見舞いとともに今後の日本を背負っていけるだけの人材を輩出することが早稲田大学の使命であると記した手紙を受け取ったことを述べていたのが印象に残った。そんな手紙を受け取った記憶がなかったので、被災地のOBに対して復興への励ましとして大学側で行ったのだろうが、粋な措置をするものだ、と少し感動した。うちしがれた思いを抱いている被災者にとって、どれだけの励ましになったことか、を考えると素晴らしいことである。手紙を受け取った早稲田大学のOBはさぞかし早稲田大学で学んでよかった、と思えたことだろう。ただ、小栗監督のその後の挨拶は映画つくりで早稲田に学んだことや思い出にふれるような内容でなく、肩透くしを食った感があったのは残念なことだった。
 韓国高麗大学校友会会長への名誉博士号贈呈を贈るのはいいことだろうが、見ていて他にもOBのなかにも贈呈するような人がいなかったものなのか、とチラッと思った。早稲田名誉博士号なるものがこれまでどんな人に贈呈されたのか詳細は知らないが、折角OBたちの前で贈呈するのだからもっと身近に感じられるものであってもいいのでは、と思った。贈呈式に韓国からお孫さんたちを招いて花を渡すなどは行き過ぎの感が強かった。
 最後に応援団が出てきてホール全体に響く声で校歌をリードして、全員で合唱したのは久しぶりで感動した。東京六大学野球の応援で応援団長の声を聞いたことがあるが、屋内でこんなに響くものか、と驚いた。
 式典が終わった後はこの日に合わせてゼミの同期会を近くのリーガロイヤルホテルで行い、年に一度の会合で話に花を咲かせた。早稲田大学周辺は大勢の人でごった返し、58万人という校友の規模を思わせた。ホームカミンデーといっても一緒に学んだ友と再会して、昔話にふけるのが楽しみで集まるようなもので、24年ぶりに会う友人もいて、楽しいひと時を過ごした。4時間あまり談笑したあとは語学クラスの友人と近くの酒屋でグラスを傾け、酒びたりの一日となった。
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