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鈍想愚感

何にでも興味を持つ一介の市井人。40年間をサラリーマンとして過ごしてきた経験を元に身の回りの出来事を勝手気ままに切る

10数年ぶりに川崎大師を訪れ、川崎大師の良さを改めて実感し、もっとお参りにくるべきだ、と思った

2025-02-14 | Weblog

  14日は久しぶりに川崎大師へ行くことにした。川崎に住んで50年近くになるが、これまで川崎大師に行ったのはわずか1回しかなく、それも新年の初詣に行ったので、人混みに混じってのことだったので、あまり周囲を見渡す余裕などなく、人の頭を見ていた記憶しか残っていない。生まれた名古屋には古来の三種の神器の草薙の剣が奉納されていることで有名な熱田神宮があり、当時はこの川崎大師と新年の参拝客数の多寡を競っていたことで名前だけは知っていた。JR川崎駅から京成線に乗って3つ目の駅が川崎大師駅で、駅から歩いて参道に行ったが、全然記憶に残っていなかった。

 それでも参道の両側にあるお店からは名物の薬をかねた棒状の飴を切り落とす包丁を叩きつける音がコンコンと伝わってきて、川崎大師へ来たことを思い出させてくれた。平日だったので、人混みはさほどではなく、スムーズに大本堂まで行くことができた。大本堂へ行き、お参りをして、本堂の中を見ると、丁度法衣を着たお坊さん方が出てきて、お経が始まる時で、多くの人が本堂の座敷に入っていくところだった。見ると、靴を脱いでナイロン袋に入れて上がるようになっていて、周囲のみなさんに倣ってそのまま本堂内の座敷に連なり、案内役のお坊さんに指示に従って、座って、待っていたら、お経がは始まった。

 そのまま座ったまま、お経が唱えられるのを聞きながら、以前に来た時にはこんなことにはならなかったので、有難いことだ、と思ってじっとお経を聞いていた。後で本堂脇の売店らしきところで、配られていた冊子によると、川崎大師は平安時代、第75代崇徳天皇の御代(1124ー1141年),平間兼豊・兼乗という武士の親子が生国尾張を追われ、諸国を放浪した後、川崎に住みつき、1128年に平間寺を建て、今日の川崎大師となった、と言われている。そんなことを想像しながらお経を聞いた後に、案内役から目の前の本堂の仏像を見て回るよに案内され、数々の仏像をつぶさに拝顔し、お参りして回った。こんな機会に恵まれて川崎大師の本堂をくまなく見られてまわって、いい時にきたものだ、と大いに喜んだ。

 ほぼ一周して、本堂正面に戻って、座っていると、お坊さんが「護摩札をお渡しするので、名前を呼ばれた人はお出で下さい」と言って、目の前にあるお札を順番に手渡しし始めた。これも後でわかったのだが、「お護摩札」なるものは厄除け、事業繁栄など様々な祈願をするために焚いて供養するためのもので、予め祈願料として5000円から1万円支払っている人がもらうものだ、ということであった。たまたま、その始まる時間に本堂に居合わせたことから、ちゃっかりそのグループに紛れ込んだものだ、ということも了解した。

 この護摩札祈願は午前、午後3回ずつ行われることとなっており、毎回100人余人が参加するような形となっているようだった。たまたま、開始時間の直前に来合わせたことが幸運にもつながった次第で、我ながらなんと運のいい偶然に恵まれたものか、と大いに感激した。なかなか本堂の中に入って、間近でじっくりとご本尊の尊顔を見られるようなことあるものではない。そんな感激をもとに改めて川崎大師境内の八角五重塔や、大山門、信徒会館、やすらぎの橋などをくまなく探検させてもらい、川崎大師の良さを確かめさせてもらった。そして、いまや名古屋に住んでいた時間より川崎市民として過ごした時間のがはるかに多いのだから、地元民としてもっと川崎大師へ足を運ぶべきだ、との思いを深くした次第。

 

 

 

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