鈍想愚感

何にでも興味を持つ一介の市井人。40年間をサラリーマンとして過ごしてきた経験を元に身の回りの出来事を勝手気ままに切る

年末年始京都旅行その1

2009-12-31 | Weblog
 30日は約1年ぶりに京都旅行とあいなった。いつものように午前8時20分に新横浜行きのバスに乗ろうと高津高校前でバスを待っていたら、すでに男性1人が待っており、しばらくして女性1人が来て、計4人が並ぶともなく、バス停に佇んでいた。そこへバスがやってきて、いざ乗り込もうとすると、マイクを通じた運転手の声で「満員で3人しかお乗りになれません」という。思わず後から来た女性の顔を伺いながら、「3人じゃしょうがない」とつぶやきながら、さっさと乗り込んでしまった。仮にその女性に譲ったら新幹線に乗り遅れでしまう。きちんと整列してなかったことに悔いが残るが、ここはその女性に泣いてもらうしかない、と割り切った。乗り込んだバスは補助椅子席3人分しか空いておらず、確かに満員だった。溝の口から新横浜までよくバスを利用するが、こんなことは初めてのことである。今後は途中でなく始発の溝の口から乗車しようと思った。
新横浜駅に着いたら妙に人が多い。売店や弁当売り場にはお客の列ができているし、待合室も座る席が見当たらない、さすがに年末だ、と思わせた。そういえば、今回の新幹線の切符も売り出しの1カ月前を1日過ぎただけだったのにグリーン席しか取れなかった。プライベートの旅行でグリーン車に乗ることはまずしない。昨年行われた高速道路1000円制度がフルに実施されないせいか、帰省客の新幹線利用が戻ってきたようだ。この傾向は降り立った京都駅でも同じで、バス乗り場に長蛇の列が出来ていた。
それでもなんとかバスに乗り込んで、いつもの五条坂で下りて、清水寺に向かった。いつものコースであるが、いつも覗く工芸品店や京グッズ店を訪れてもいまひとつ食指が動かない。いつも同じようなものでは需要を喚起するには至らない、ということなのだろう。
清水寺で今年の漢字、「新」を写真に撮ったが、いつもなら祭壇の脇に置いてあって触ることもできたのに、ことしは上に上がることは許されず、遠くからしか撮影できなかった。お参りした帰りに清水寺の参道の土産物屋で、八つ橋シューなるものを買って食べた。先週の日本テレビの「ふらり途中下車の旅」で紹介されていたので早速食べてみることにしたものだが、以前はそんなことはなかったのに列ができていて、つくづくテレビの威力は凄いと思った。
その後は八坂神社を抜け、祇園を通り過ぎ、錦小路で夜の食材でも買おうと思って行ったら、凄い人の列で途中で身動きできなくなってしまった。それでもお互いに前に進もうとしてくる人の波になって膠着状態に陥ってしまったのだ。怒号する声や助けを呼ぶ声も出たが、如何ともすることがてきない。ただ、ただ人の波に任せているしかなかった。何回も錦小路に来ているがこんなことは初めてだ。そのうちに見るに見かねて商店街の人が交通整理に乗り出してなんとか前に進むようになった。しばらく行くとお巡りさんがいたが、特に仕切っていたようでもなく、手を拱いているようだった。こんな混雑では商売上がったりだと自発的に事態の解決に乗り出したのはさすがと思わせた。
景気がいいのか、さほどでもないのか、判断に苦しむところだが、まだら模様の様相を呈してきているのかもしれない、とも感じた。
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近未来スペクタル映画のはずが人情味あふれる「アバター」

2009-12-29 | Weblog
 29日は東京・渋谷の渋東シネタワーでジェームス・キャメロン監督で話題の映画「アバター」を観賞した。構想に14年もかけた近未来映画との触れ込みだったので、期待して見に出かけた。混んでいるかと思いきや、上映開始30分前に並んだら1番で楽々と通路の席を確保できた。高校時代に年末に映画を見に出かけると意外と空いていたことを思い出した。お正月映画にふさわしい迫力満点のスペクタル映画で、単なるスペクタクル映画ではない人間味あふれる楽しい映画でもあった。
 「アバター」は足を負傷して半身不随となった海兵隊員が惑星パンドラに送り込まれ、ナヴィという異星人と交流するよう指令を受ける。人間とナヴィを遺伝子で掛け合わせた人造のアバターなる生命体を開発し、カプセルに入った人がアバターに変身して、ナヴィなる異星人と交流して、ナヴィの生態を把握して、パンドラ征服の役に立てよう、との計画である。ナヴィ一族が生息する場所の地下に貴重な資源が埋まっており、それを根こそぎ獲ってしまおう、というのが地球人のねらいだった。
 パンドラに送り込まれた主人公ジェイク・サリーは一人パンドラの密林に取り残されて彷徨ううちにナヴィの姫のネイティリと知り合い、ナヴィ一族に潜り込み、徐々に信頼を勝ち得ていくが、本来の使命であるパンドラ征服とナヴィ一族への同化の狭間で揺れ動き、最後にはナヴィ一族を助ける行動に出て、地球軍と一戦を構えることになり、撃退してしまう。
 細部では知らない間にナヴィーがカプセルの仕組みを理解してしまっていることや、女博士がいつの間にかナヴィーの一員に潜り込んでしまっている点など不自然な場面もあったが、全体としてはいかにもありそうなお話をうまくまとめていて、将来ありそうなストーリー展開で、十分に楽しめる内容だった。
 近未来映画のはずが最後は自然を守るナヴィ一族の純真な願いをナヴィ一族が称え祭る神が受け入れ、地球人の攻勢から守ってくれるところは監督だけでなく脚本も書いたジェームス・キャメロン監督の面目躍如たるところといえそうだ。単なる娯楽大作でない、この世には物質ふだけでは満たされない大事なものがある、とでも言いたかったのだろうか。
 ジェームス・キャメロン監督は「ターミネーター」、「タイタニック」、それに「エイリアン」など話題作の監督で、主人公と共に地球軍を敵に回して戦うことになるグレイス博士にエイリアンで名を挙げたシガニー・ウイーバーが出てきたことに驚いた。そういえば、「アバター」全体が「ターミネーター」に「エイリアン」を合わせ、それに「ジュラシック・パーク」の恐竜を合わせたような映画である。異星人ナヴィのメイクが手が込んでいるのと、次から次へと画面が展開していく戦闘シーンなどにCGがふんだんに取り込まれて作成されているのにも驚く。
 総製作費が2億3700万ドルと日本円で210億円にものぼっているのはCGや凝った特殊メイク、それに特殊撮影に費やされているようだ。
 チケットを買う際に窓口で「3Dでなく2Dですがいいですか」と念を押されたので、入場の際に画面そのものも変わってくるのか、と聞いたら「画面は同じ」ということだったので、納得した。

追記 東急線溝の口駅から渋谷へ乗車する際に、土日用の回数券を買って改札を通ろうとしたら、切符が戻ってきた。29日から休日と思い込んでいたのに世間はまだ仕事中ということのようだった。以前は正月休みは12月29日から1月3日までとなっていたのに、いつの間にか30日からに1月3日までと短縮されたようだ。不況で高度成長期のような休日をふやすような思考が後退したようだ。おかげで、この日は帰りも午後4時を回ってしまったので、1日に回数券を土日用、時差用、普通と3通りも買う羽目に陥ってしまった。
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政権の実権を握っているのは霞が関官僚と喝破した「日本国の正体」

2009-12-29 | Weblog
 知人のK氏の勧めで、長谷川幸洋著「日本国の正体」を読んだ。21年山本七平賞を受賞したとのことだが、筆者は中日新聞の論説委員を務める現役の記者で、霞が関の内幕をあけすけに書いた力作で、中川昭一財務相の失脚、エコノミスト、高橋洋一の窃盗事件、小沢一郎幹事長の秘書逮捕の3つの事件がつながっていることを指摘、霞が関官僚の実態を暴きだす。権力をもっているのが政治家ではなく、霞が関の官僚である、と断言し、マスコミもその走狗に過ぎない、と喝破する。霞が関官僚の実態をここまで露骨に書いた本はかつてない。久し振りに面白い本であった。
 著者は日本を動かしているのは政治家である、と長い間思い込んでいたことが間違いであったことを素直に打ち明ける。政治家を操り、マスコミを自ら描いたシナリオ通りに走らせるのが霞が関の官僚であり、黒子どころか、権力を動かしている、と断言する。冒頭に中川昭一財務相の朦朧会見、エコノミスト、高橋洋一の窃盗事件、小沢一郎公設秘書逮捕の3つの事件がいずれも霞が関官僚が仕組んだことである、とも言ってのける。
 霞が関官僚は自らの王国を築くことしか考えておらず、増税して予算を増やし、同僚たちを天下り官僚として多くの独立法人などに送り込んでいくことしか考えていない人種だ、と切り捨てる。自らの経験をもとに官僚たちがいかに記者を垂らしこんで思うように記事を書かせているか、を暴きだす。政治家も記者も官僚たちの道具にしか過ぎない、とまで言ってのける。官僚になる前は日本をよくしよう、と思っているが、いざ官僚になると自分たちの王国を築くことしか考えなくなる、悲しき習性をもった人種である、とまでいう。
 だから、霞が関官僚にとって無駄な経費を削ってスリム化し、減税するというのは絶対に受け入れられない理論で、常に増税して、自分たちの利権を広げていくことしか念頭にない。彼らにとって、行政改革なんていう言葉はタブーである、という理屈はよく理解できた。
 いままで霞が関官僚の実態を政権の黒子的存在である、と認識していたのが見事に打ち破られた。政策を作り、その実現を図っているのは事実、霞が関官僚であることがこの本を読んでよく理解できた。事実はその通りなのであろう。
 ただ、そうはいっても新聞、テレビを見ているといかにも総理大臣はじめ大臣、国会議員など政治家が政治を行っているような報道がされているが、実は黒子である霞が関官僚が裏で糸を引いているのだ、ということで、国会や各種の委員会、諮問会議の類はみんな官僚主導のもとに描かれた茶番劇である、というのだ。
 確かに筆者の言う通りなのかもしれない。霞が関官僚はざっと50万人いて、国会議員はたかだか750人程度、新聞・テレビの記者はせいぜい数千人しかおらず、数の上では圧倒的に霞が関官僚の方が多い。それに霞が関官僚といっても個々の人格があるわけではなく、組織として自らの存立を守るべく活動するのは組織として当然のことだろう。
 翻って、民間企業だって、社長が指揮をとっているように見えて、実は事務局が原案を作成してプランを練っているのが実態で、社長は単なるお飾りのケースが多い。日本の大企業の場合、時にそうである。筆者も認めているが、民間の株主総会が国会とよく似ているのはすべてお膳立てのうえでことである。
 それと、この本が書かれたのは今年前半で、まだ自公政権時代で、その後政権交代が行われ、多少は雰囲気も変わってきている。ここはぜひ、民主党政権となって、官僚主導から政治主導となったいま、それがどの程度実現されているのか、筆者の目で見て、同じ視点から切ってもらいたいものだ。
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年とった夫婦の背中に冬の風物詩の匂いを感じた

2009-12-28 | Weblog
 27日は東京・外苑前の秩父宮競技場での全国大学ラグビー選手権大会を見に行った。2回戦ではあるが事実上の決勝戦と言われている早稲田大学と帝京大との対戦があるからで、秩父宮ラグビー場でのラグビーの観戦は10年ぶりくらいである。5、6年前に見ようとい思ってきたところ、満員で入れなかったことがあり、今回もそうかなと思いながら、11時半頃に競技場へ行くと自由席1500円の入場券を運よく購入することができた。早稲田の試合は2時からで、その前に慶応と法政との試合が12時から開始となるので、早めに席を確保しよう、と中は入ると、スタンド下でフード類を売っている売店があり、並んで焼そばを注文すると、売り切れでない、という。仕方なく、鶏の唐揚げとフライドポテトを750円也で購入してスタンドに行くと、ほぼ満員で、かろうじて席を確保できた。
 いもの時期は寒いから、家からお尻の下にしく座布団と膝かけを持参して防寒の体制は整えたが、暖かい飲み物までは持参しなかったのが悔やまれた。それでもゴールポスト横の比較的展望のきく場所に席を確保できたのはラッキーなことだった。
 12時少し過ぎに第1試合の慶応と法政戦が始まり、動きのいい慶応が終始リードして、接戦をものにした。休憩となり、手洗いを済ませて、いざ早稲田戦の観戦に臨んだ。試合開始前にそれぞれ両校の校歌が流れ、懐かしい「都の西北」が歌われた。小旗を振って、校歌を歌う姿が観客席のあちこちに見られ、しばし学生時代に戻ったような感覚を味わった。
 肝心の試合は開始早々に帝京大にゴールを割られ、7点を先行され、早稲田のいつもの軽快なフットワークが見られない。やたら、ハイパントを挙げて、敵の乱れを誘うような戦術で、なんとか前半を13対12でリードして終えた。第1試合でも感じたが、ラグビーを競技場で観戦すると、テレビでの球そばだけの観戦と違って全体を俯瞰できて、戦いの状況がよくわかっていい。反則で試合が中断したりすると、思わぬところで、選手がひっくり返っていたり、その間にマネージャーが選手の側に飲み物を運んだり、いろいろな動きが展開されていて、面白い。
 それとグランドが意外と狭く感じられ、すぐに相手エリアにボールが蹴りこまれ、攻守たちどころに変えて攻防が行われているのがとてもスピーディでもある。ラグビーボールは楕円形なので、転がってどちらに転がるか予測はつかないのだが、よほど練習を積んでいるのだろう、的確にボールの転がる位置に走り込み、相手ゴールをめざしていくのは気持ちいいくらいで、こうした感覚は競技場に来てこそ味わえるものである。
 休憩をはさんでの後半になって、帝京大は強力フォワードの威力を発揮して、20対17からスクラムトライに近い形で24対20と逆転した。残り15分くらいで、早稲田は中央で相手反則からフリーキックを得たが、名手山中がこともあろうに相手ゴールに蹴り込むミスを犯し、折角のチャンスを自ら摘んでしまったことが、逆に帝京大のトライを呼び込むこととなり、最後31対20で敗退してしまった。山中選手はその後すぐに交代させられ、最初から冴えを欠いていたことが明らかとなった。
 早稲田はもう一人全日本クラスのスクラムハーフを怪我で欠いていたこともあり、戦う前から帝京大に戦力で劣っていたようではあるが、これも戦いのうちで悔やんでも仕方のないところだろう。早稲田大学はこれで大学日本一3連覇への夢が潰えたわけで、残念なことこのうえない。
 この日の秩父宮競技場は超満員で、2016年のオリンピックに7人制ラグビ-が正式競技として採用されることに決まっているし、2019年にはラグビーワールドカップに日本開催も決定していることも預かっているようだ。
 試合が終わって、秩父宮競技場を出て、外苑前駅への歩道を歩いていくと、ガードマンが近寄ってきて、何事かと思ったら、「今日の試合の結果はどうでした」と観客に聞いていたのが面白かった。
 地下鉄は満員だろうから、国道246を渋谷方面へ歩いていくと、丁度表参道あたりで、ふと前を見ると、60がらみの夫婦が前を歩いている姿が目に入った。2人とも長めの黒いスタジアムジャンバーを来て、リュックサックからは早稲田の小旗が出ていて、いまラグビーを観戦してきた雰囲気がありありで、多分2人とも早稲田のOBなのだろう、と思われた。年取った夫婦がそろって母校のラグビー戦の応援に行くのも悪くない。そんな夫婦の背中を見ながら、冬という季節もあるのか、ラグビーにはそんなムードがある、と思った。
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特定のグループや団体の色の付いた出版が横行する裏に何がある

2009-12-27 | Weblog
 先日、都心へ出かけた折り、地下鉄に乗ってふと車内吊りの広告に大川隆法の「日本の美点を見直そう」なる吹き出し広告が出ているのを見て、一体何の広告かな、と思っていたら、「アーユーハッピイ?」なる雑誌の広告で、雑誌も宗教法人のご機嫌とりをしないと食っていけない時代になってきたのかな、と思った。家に帰ってネットで検索して、「アーユーハッピイ?」なる雑誌はそのものずばりの幸福の科学出版なる会社が出版している雑誌であることが判明して、驚いた。
 考えてみれば、幸福の科学は教祖である大川隆法の本を数多く出版しており、自ら出版をすることはそんなに難しいことではない。創価学会の「潮」はいまや一般雑誌として認識している人もいるくらいで、布教活動の一環を越えて一般への啓蒙誌としての役割りを担っているのかもしれない。幸福の科学出版のホームページを見ると、書籍のほかいずれも宗教っぽいがコミック、コミック、CDも取り扱っている。「アーユーハッピイ?」は心の健康誌として位置づけられており、他にも「Liverty」なる雑誌も刊行して、堂々たる出版社といった感じである。「アーユーハッピイ?」の最近号には書道家の武田双雲氏も登場し、旅行や健康に関する特集をしていて、他の健康誌と遜色なさそうな内容である。
 一般の出版社が未曾有の不況で売れ行き不振に悩んでいるなか、こうした幸福の科学出版のような特定のグループ、団体に重きを置いたいわゆる色付きの出版社が盛況ぶりを示しているのはなにか淋しい感が否めない。不偏不党を旨とし、何物にも加担しないジャーナリズムの精神を最初から放棄して、特定のグループなり、団体の機関誌のくせに、よそ見には世の中の啓蒙誌のような体裁を偽っているのはこの世からジャーナリズム精神が失われていうるような気がしてならない。
 案外、不偏不党で独立路線を歩んできた出版社は経営的に行き詰まり、幸福の科学が買収して路線を変えたのが実態なのかもしれない。出版社をゼロから作るよりは既存の出版社を買収する法が手っとり早いのは事実で、編集や紙面つくりのノウハウもそのまま生かせることになるからだ。
 いずれにしろ、体のいい身売りなのだろう。いかに内容のいい雑誌をつくろうと、それを理解してもらい、購読してもらうには時間もお金もかかる。立ち上がりの資金もすぐに底をついてしまい、いずれは広告主か買い上げか、どちらにしろいわゆるスポンサーなるものがつかないと経営は立ちいかない、そんな時に幸福の科学のようなお金持ちが現れたら、いくら不屈の精神の持ち主も転んでしまうことだろう。
 真相はどうあれ、日本からジャーナリズ精神に富んだム心ある出版社が消えていったことに変わりがない。淋しいとはこういうことである。世の中で正しいことを正しいと、おかしなことをおかしいときちんと発信できる場が保たれること、これが民主主義の基本であり、出版はそれができるフィールドなのである。
 幸福の科学なり、創価学会なりが出版のフィールドに出てくることは彼らの戦略なのだろうが、それで保たれるフィールドが狭まっているのでhないか、と懸念されるのである。
 
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読響のベートーヴェン「第九」演奏会で新たな発見に感動した

2009-12-26 | Weblog
 25日は東京・赤坂のサントリーホールでの読響の名曲ソリーズ演奏会を聴きに行った。年末恒例のベートーヴェンの合唱「第九」で、一年の集大成的なコンサートである。サントリーホールだけでも12月は10回もベートーヴェンの「第九」の演奏会がある。いつもより心なしか、着飾った人の多いなか、開場の午後6時半に入ると、数人の楽団メンバーが気合いを入れて練習の音だしをしていた。座席の周りの年間予約のお客がいつも見かける顔でなく、入れ替わっているのも不思議な感じだった。
 指揮オスモ・ヴァンス、ソプラノ林正子、メゾソプラノ林美智子、テノール中鉢聡、バリトン宮本益光、合唱新国立劇場合唱団が第1楽章から壇上に顔をそろえ、午後7時過ぎから合唱「第九」の演奏が始まった。何回も聴いている「第九」ではるが、聴く度に新らしい曲を聴くような思いで聴くと新たな発見もある。指揮のオスモ・ヴァンスは指揮台の上で跳ねるようなダイナミックな指揮ぶりに特徴があるようで、見ていて楽しい指揮ぶりだった。毎回の楽章の合い間にポケットからハンケチを取り出して、汗を拭いているのが印象的だった。
 ベートーヴェンの「第九」は今週はじめにも神奈川フィルのを聴いているが、門外漢の鈍想愚感子にとって指揮者によって強調したい箇所があるくらいの差くらいしかわからない。第4楽章のクライマックスの合唱が始まる前のチェロだけによる低く抑えた歓喜の喜びの歌を演奏する下りは神々しい神の恵みを心の底から喜んでいるような響きが伝わってきて、特に感動的だった。
 合唱の始まるバリトンの「オーフロイデー……」は今回は正面の座席で聴いたので、よく声が通って聴こえた。やはり、演奏会は舞台に向かって正面から聴くのが一番いいのかもしれない、と改めて思った。合唱団の榛国立劇場合唱団はオペラの観賞でお馴染みの合唱団で、いまや二期会と並ぶ合唱団ともなっているようだ。メリハリのついた歌いっぷりは堂に入ったもので、さすがと思わせた。
 読響のパンフレット「Orchestra」をめくっていると、この演奏会の模様は後日、日本テレビでも放映される、と出ていて一瞬がっかりしたが、テレビで見るのと実際にコンサート会場で生で聴くのでは迫力が違うだろう、と納得させた。
 クリスマスの夜にベートーヴェンの「第九」を聴くことは年末を迎えたことを実感させるものでもあり、こんなことのできる幸せをかみしめ、行く年、来る年に思いをはせながら家路に着いた。 
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事務所の管理すらできない鳩山首相はそろそろ賞味期限切れか

2009-12-25 | Weblog
 24日はクリスマスイブとあって、かみさんと東京・銀座へローストチキンを食べに出かけ、夕刻家に帰って、テレビを点けると、丁度鳩山首相の緊急記者会見なるものが始まるところだった。ひな壇に数人並んだ中央に腰かけた鳩山首相は幾分緊張気味で、一瞬「すわっ辞任かな」と思ったが、それほどの緊張ぶりではない。しかも複数と会見しているところをみると、そうではなさそうだ、夕刊を見ると「首相、釈明会見」と出ている。そういえば、秘書2人が在宅起訴となったことから、政治資金問題についての説明責任を果たすということになったのだろう。
 70分強にも及んだとされる会見で鳩山首相は「検察の判断を重く受け止め、秘書らの起訴に責任を痛感している。名前を勝手に拝借し、ご迷惑をかけたすべての方、及び国民の皆様に深くお詫び申し上げる」と釈明した。母親から贈与を受けた金額は2002年から7年間で12億6千万円、贈与税は6億円強にもなり、これは速やかに納める、とも釈明した。鳩山首相はかねてから「秘書のやったことは政治家の責任」と指摘してきており、責任の取り方について、記者団から厳しく追及された。これに対し、「私腹を肥やしたり、不正に利得を得たようなお金ではない」と弁明したが、さらなる追及に対し、「国民の皆様にご納得いただけなければ、辞任もやむを得ない、と考えている」と語った。
 会見後の解説では検察の捜査では母親から秘書にわたった資金はまだ贈与とも借り入れとも断定されていないようなところもあり、仮に借り入れだとしたら、何の問題もないのにと思われた。他の政治家だったら、「やましいところはない」と突っぱねてしまうところを正直に答えてしまうところに人間性がにじみ出ていた。国民の納得が得られなければ辞任も辞さない、という言辞は必ずしも政権の座に固執していない面もうかがわせた。
 ただ、秘書が母親から月に1500万円もの資金供与を受けていた事実を全く知らなかった、というのはやや理解に苦しむところである。政治資金規正法では本人から資金管理団体への寄付に年額1000万円、個人に150万円の制限が設けられている。これに違反しているうえ、仮に会社の社長が会社全体の資金の流れをつかんでいないとしたら、社長失格である。事務所の所帯はたかだか10人程度のものだろう、そんな程度の所帯の金の出入りを責任者が全く知らないようでは責任者としては示しがつかない。そんな人が300人を超える民主党の代表はおろか、日本国の代表たる首相に就いていることにも疑問符がつくことになりかねない。
 会社を見るのにお金の流れを見ることは必須である。たかが10数人の事務所のお金の流れすら見れない人が92兆円もの国の予算を見れるわけがない。そんなことだから小沢幹事長に党はおろかい一国の台所まで管理されてしまうようなことになるのだろう。
 沖縄普天間基地の移転をめぐる日米交渉に優柔不断さにもつながっていくこととなる。鳩山内閣の支持率が当初の70%台から50%そこそこに落ちているのもそんな鳩山首相のリーダーとしての疑問符が徐々に露呈しつつある、ということなのだろう。
 8月に自民党から民主党への政権交代となったが、最大の要因は自公政権への堪忍袋の緒が切れたことにあったわけで、鳩山代表への支持はそれほどでもなかったのが本当のところだろう。いまも民主党を支持している人の大きな理由はそれでも自公政権時代よりましという側面が強いことだろう。このまま鳩山首相でいくと、そろそろ逆に民主党に対する堪忍袋の緒が切れることにもなりかねない。そろそろハネムーンといわれる就任100日は過ぎたいま、賞味期限切れに近づいた鳩山首相の後継を探る時期に入ったのかもしれない。
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今後死ぬまで会うことはない、と思われる人への年賀状はカットする

2009-12-24 | Weblog
 23日に2010年用年賀状をポストに投函した。例年、年賀状は12月早々に書きだし、クリスマス頃には書き終えている。今年は会社を退いてから2年目に入るということで、特に会社関係の年賀状を差し控えよう、ということで、印刷する段階から枚数を減らした。昨年はまだ退いた年だったので、まだそのまま出すことにしたが、今年はもう2年近く経っているので、もう義理は果たした、ということで、50枚ばかり減らした。
 例年、年賀状はまず宛名を全部書き終えてから、ひっくり返して裏に1枚づつコメントを書き加えていく。そうしないと住所を書いて、コメントを書くと、何も書くことがないからぐっと考え込んでしまう人がいるからだ。大学を卒業してからずっと一度も会っていないが、年賀状だけはやりとりしている人とか、バイト先で知り合った人だがなんとなく年賀状のやりとりを惰性で続けている人などお互い近況を知らないコメントを書きようがない。それでも「ご無沙汰しています」とか、「お元気ですか」など差し障りのないコメントを書いて出してしまう。極端な例としては銀座の飲み屋の経営者で、いまは田舎へこもっている人とも数う10年来年賀状のやりとりが続いている。何のコメントもない年賀状などもらってもうれしくも何ともない、と思っているので、何のコメントもなく出す気にはなれない。
 そんな年賀状を整理するいい機会だ、と思って今年は思い切ってカットすることにした。住所録を見て、今後死ぬまで会うことはない、と思われる人をはずすことにした。会社を退いてから、会って酒でも飲みたいな、と思う人はそんなに沢山いるわけではない。会って酒でも酌み交わしたい人だけに絞ればぐっと少なくなるのだろうが、さしあたりそこまでは絞れない。
 とりあえず、会社の後輩などはこれまでもらった年賀状に対しては欠かさず出していたが、会社を退いたのだからもういいだろう、と切ることにした。ただ、お世話になった先輩や上司、仕事先の広報関係者はこの先もう会うことはないだろう、とは思ってもこちらから切るわけにはいかない。
 で、50枚ばかり減らすことができた。そして、年賀状を書いていて、思ったのだが、コメントの書きようのない人に対して無理にコメントをひねり出す必要はないのではなかろうか、2、3年何のコメントもなく出していれば、そのうちにお互い出さなくなっていくのではなかろうか、と思った。今年はともかく来年からは実行することとしよう、と思った。
 そうした折りに大学時代のM氏からメールが来て、「今年から年賀状を出すことをやめることにした。芸術的な作品を除いて出さないでほしい」と言ってきた。即座に住所録をチェックしたところ、そのM氏はすでにどういうわけか年賀状の住所録から外れていた。
 また、年賀状カットの決意を知人のTさんに話したら、「仮にカットした相手から来ても決して出さないこと。それが2、3年続かないと効果がない」と釘を刺された。万難を排して断行する決意で臨もう、と固く心に誓った。
 年賀状というものは便利なものではあるが、時に厄介なものである。
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日本の会社はまだまだ実力本位の組織とは成りきっていない

2009-12-23 | Weblog
 今年は松本清張生誕100年とかで、テレビは盛んに過去に放送した松本清張ドラマの再放送を行っており、22日もそのうちのTBSテレビの「殺意「を観賞した。高島礼子扮する女刑事が白昼、会社内で行われた上司殺人事件を解決するが、その犯人が同郷出身、同期入社の部下であり、これに女刑事の父親がかつて同じような事件の容疑者となったことが伏線となっている。被害者と犯人の2人はよそ目には仲がいいとみられていたのが、実はいじめの関係にあったことが徐々にわかってくる。観た後に、そういえば、鈍想愚感子もかつて同期入社のK氏を下に従えたことがあったことを思い出した。
 「殺意」は銀行の部長がある日、執務中に製薬会社から送られてきた試供品のビタミン剤を呑んで急死する。青酸カリ服毒によるものだが、残りのビタミン剤には何の異常もない。製薬会社で試供品を請求してきた応募ハガキをもらい、チェックしたとところ、消印のないハガキを発見し、その応募者にあたろうとしたところ、タクシー運転手なるその人物も殺されてしまい、携帯電話への着信記録から被害者の直属の部下が浮かび上がる。しかし、動機と殺害方法が見つからないため、捜査は難航する。
 で、女刑事の父親が「布海苔を調べろ」とヒントを与え、殺害方法は解明される。残った動機はよそ目には仲のいい2人が実はいじめの関係にあったことが明らかとなることで、事件は解決に至る。
 日本の会社は終身雇用・年功序列制を採っているので、官僚の世界で典型的な順送り人事が一般的で、年次を超えての抜擢人事はまず行われない。それでも会社が危機的な状況に陥ったような時に異例な若手が登用されることがあるが、すぐに元に戻ってしまうことが多い。それでも同期入社の人を上下に置くようなことはまずしないものだ。
 それが、実際に起きた時はびっくりした。当時、新会社を作ろうとの計画が持ち上がり、その担当局の長にいたK氏がそのままトップになると見ていたら、なんと鈍想愚感子が上にいく形で新会社なるものが作られてしまった。それまで、たまにランチをする程度の仲であったのが思わぬ上下の関係となり、とにかく発足して1年間はそれで走った。当方としては初期の目的を果たすべく邁進した。幸い、1年後に子会社間の役員入れ替えで、同期の上下関係は1年間で幕を閉じた。
 K氏は口では気にしないようなことを言っていたが、内心は心穏やかではなかったことだろう、といまになって思い返される。上下関係では上よりも下の方がやりにくいのは当然だろう。松本清張の「殺意」のようなことにはならなかったものの心の傷を残したということになるのだろう。上から見える風景と下からでは違って見えるのは当然のことである。それ以来、K氏とはよほどの必要がない限り連絡を取り合わないようになってしまい、お互い敬遠し、いまでは疎遠になってしまった。
 同期入社でたまには顔を合わせ、談笑していたのが、1年でも上下関係になったということで、お互い気まずい雰囲気となり、2人の距離を引き離してしまったようだ。日本の会社はまだまだ実力本位の構造には成りきっていない。同期入社の人を上下関係に置くような人事が機能するようには出来ていないようだ。
 
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300人もの合唱団によるベートーベン第9演奏会に感動した

2009-12-22 | Weblog
 21日は川崎駅前のミューザ川崎シンフォニーホールで行われたベートーヴェンの第九演奏会に行った。川崎土器野焼き大会で知り合ったTさんが高津市民合唱団の一員として出演していることから、招待されたもので、思わぬ誕生日プレゼントとなった。午後1時からの会議が5時半頃に終わり、間に合うこととなった。川崎駅で丁度溝の口から乗ってきたかみさんとバッタリ顔を合わせ、ラゾーナ川崎の地下で夕食を摂ってミューザ川崎に赴いた。
 開演の15分くらい前に席に着いたら、すでに合唱団は入場し終わろうとしていた。オーケストラの背後の円形ステージだけでなく、パイプオルガンの前の座席にもびっしりと並んで、壮観な眺めである。数えるとざっと300人近くともなる。県立弥栄高校、高津市民合唱団が中心となって今回のために結成した神奈川県民合唱団となっているが、女性が白いブラウス、男性が黒のタキシードか学生服でビシッとまとめて端座している姿は改めて第九演奏会は年末恒例の大祭典であることを物語っている。双眼鏡で見ると、Tさんは後部座席の最前列の中央に座っていた。
 岩本達明指揮、神奈川フィルハーモニー管弦楽団のもと午後7時から演奏が始まった。座席が正面向かって斜め右上の3階席で、上から指揮者のタクトを振る手の動きがよく見え、演奏者の楽器のパートを細かく指示しているさまがよくわかった。それと、後ろの席に位置するトロンボーンの奏者がずっと暇そうに座っているのが妙に気になった。全体のなかでわずかしか演奏する場面がなくてもああしてずっと待機していなくてはならないのだ、と思うとつい同情したくなってくる。
 何回も聞いている楽曲ではあるが、こうして生で聞くと赴きが違ってくる。ベートーヴェンの合唱を年末恒例の楽曲として演奏しているのは日本だけと聞いたことがあるが、教会でミサする習慣のない日本人にとってクリスマスを感じさせる曲として合唱がふさわしい、とだれかが企画して、定着していったのだろう。
 第4楽章で感極まってバリトンの「オーフロイデー……」との熱唱とともに始まる部分は何回聴いても感動ものである。テノール、ソプラノ、メゾソプラノも加わっての4人の歓喜の歌、さらには300人もの大合唱団が加わっての合唱は迫力あるもので、感動のひと言だった。若い高校生が加わっているせいか、澄んだ声が会場いっぱいに響きわたった。
 ミューザ川崎には初めて来たが、サントリーホールに劣らぬ立派なホールで、川崎市は財政豊かな都市なのだ、と思わせた。文化振興にこれだけ投資できるのはいいことだ、と市民としてうれしく思った。神奈川県民合唱団としてこれだけのことができることと合わせて誇り高いことだ、とも思った。
 Tさんにはお礼のお菓子を持参して開演前に事務局を通じて渡してもらおう、としたが、そういうことはしていない、直接渡してくれという。考えてみれば300人もの合唱団のメンバーへのお祝いの品を受け取っていたら、それだけで事務局はパンクしてしまうことだろう。仕方なく、終演後、ロビーに出てくるところを待って、めでたく本人に渡すことができた。300人ともなると、打ち上げもまとまってということにもいかなかったのだろう。
 ともあれ、いい誕生日の記念コンサートとなった。Tさん、ありがとうございました。
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