鈍想愚感

何にでも興味を持つ一介の市井人。40年間をサラリーマンとして過ごしてきた経験を元に身の回りの出来事を勝手気ままに切る

同じ空気を吸いたくない

2008-01-31 | Weblog
会社の同僚のZ氏のことである。事の発端は今年はじめの親会社の賀詞交換会に一緒に行こう、ということになって、地下鉄のホームへ行き、電車に乗り込み、座席に隣合わせに座っても一言も言葉を発しない。駅に着いてもスタスタと前に歩いて行き、これでは一緒に行く意味がない。およそ話しをしよう、という態度が見えないのだ。何が気に入らないのか、同僚とは思えない。これまで何回も親会社に共に出向いているが、こんなことは初めてのこである。
 Z氏とは会社の同期入社で、これまで顔を合わせれば話をし、同期会ではお酒を飲んだりしてきた。3年前から誰の差し金か、いまの会社で机を並べて同じ仕事をするようになった。一緒に仕事をしてみて、Z氏がいかにいい加減で、きちんと仕事をしない人であるか、よくわかった。同期の間ではあまり評判のよくない理由も納得がいった。いつも会社に寝に来るのか、と思うほどいつもコックリ、コックリと舟を漕いでいる。そのくせ、妙に対面を気にして、やたら原理原則を振り回す。
先日も仕事を進める上での基準を作る作業を頼んだら、いつものやっつけ仕事で、おまけに以前からある基準との整合性をまるで取っていない。それを指摘すると、「そもそも基準に沿ったことをやってないじゃないか」と他人事のようなことをいう。もともと、その仕事は年度のはじめにZ氏自らやる、と言い出したことなのに、呆れてしまった。
昨年末に麻布十番のそば屋で、恒例の忘年会を開いた折り、誰かが具体的な人名を挙げて、春の定期人事異動での動静をZ氏に尋ねたところ、Z氏は「そういう話はしないことにしている」とキッパリ言い、周りを唖然とさせた。みんな、いつもはそんなことはないのに、なぜ、と不思議がった。一辺に酒が不味くなり、全体にシラケたムードが広がったのは言うまでもない。おかげで、年が明けて新年会をやろう、とはだれも言い出さなくなってしまった。
あとでわかったのだが、Z氏はどうやら、年末に親会社の人事担当者から呼び出され、「お役御免」を申し渡されたようなのである。もともとZ氏は自分のことしか考えない人なので、他人の人事なぞ興味がないし、お役御免とあらば尚更だ。
それでも引き続き任期切れの3月末まではZ氏と机を並べていかなければならない。こと人事に関しては鈍想愚感子の運命も同じようなものだが、いずれにしろZ氏とはあとわずかの辛抱である。よく、離婚寸前の奥さんが旦那に向かって、「あなたと同じ空気を吸いたくない」と宣言する、と聞くが、Z氏に対する気持ちはそれと同じである。
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面白うて やがて悲しき さんま御殿かな

2008-01-30 | Weblog
 29日夜は注目の女子ハンドボールの対韓国戦を見ていたら、最初から圧倒的に差をつけられ、まず勝目はないな、と思って、いつもの「踊るさんま御殿」を見た。出演者は片山さつき衆院議員やラサール石井などインテリ組6人と芸能界の香田晋ら天然ボケがキャラクターの6人組みの異色な顔ぶれで、司会の明石家さんまも唖然とするほどの芸能人の無知さ加減が浮き彫りとなって、久し振りに笑えた内容であった。
 テーマの「この人、本当は馬鹿だったと思ったこと」と「もう少し勉強しておけばよかったと思ったとき」に沿って、出演者が体験談を話すのだが、インテリ組が話す内容がまず非インテリ組の芸能人にはわからない。パラドックスという言葉がまずわからない。聞いている非インテリ組の芸能人の馬鹿面をテレビカメラがアップで追い、さんまがそれを茶化したうえで、「パラドックスと聞いて何を思う」とふると、とんでもない答えが返ってきて、どっと受ける。また、別のトークで浮世絵の話が出てきても相変わらずポカンとしている。聞かれて、「水の上で書いた絵」とトンチンカンな回答をする。
 さらに恋人とバイクで東京へデイトに来た時に恋人が国会議事堂を見て、お城だと思った話をして、国会ジギ堂と言ってしまったこととか、クイズ問答集を買って舞台の合い間に披露しようとしたら、漢字にカナがふってないので、困ったといった話が出てくる。あげくの果てに源義経のことを「ゲンキキョウ」と言う。これには片山さつきも唖然としていた。
 思うに「踊るさんま御殿」はさんまのアドリブに任せて、台本らしい台本はなくて、ぶっつけ本番でやっていることと思う。だから、これらの天然ボケは演技ではなくて地がそのまま出ているものと思う。単にかわいいだけの若い女のタレントならいざ知らず、中堅の男性歌手や30そこそこの男性タレントも同じだからびっくりである。そんな天然ボケばかりを選りすぐって集めたのかとも思ったが、芸能人のレベルはそこまでひどいものか、と呆れ返った。
 しかし、彼等とて芸能界で生きているのだから、天然ボケは別として、なんらかの特異な才能があるから、こうしてテレビに出演できているのだろう。
 片山さつきが最後に「日本の義務教育のあり方を考え直さなければならない、と思った」と述懐していたが、いくら例外とはいえ、ひどすぎる。芸能プロダクションの選別基準に常識という項目があってもいいだろう。なければ、小中学校の生徒が備えているような知識くらいは与える努力をすべきだろう。
 いつもは笑っただけで終わるさんま御殿が深刻な余韻を残した。
終わって、NHKBS第1を点けたら、もうハンドボール戦は終わっていて、案の定、日本は34対21の大差で負けていた。こちらも深刻な課題を残したようだ。
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裁判官は企業の実態を知らない

2008-01-29 | Weblog
 東京地裁は28日、ハンバーガーチェーンの日本マクドナルドの店長が管理職扱いされ、時間外手当を支払わないのは違法として、同社に未払い残業代など1350万円の支払いを求めた訴訟で、「店長の職務内容から管理職とはいえない」として755万円の支払いを命じた。残業代を支払うのは妥当な判断ではあるが、店長が管理職でない、とするのはやや疑問が残る。日本マクドナルドは控訴するので、この裁判はまだまだ尾を引くことになるが、司法関係者は企業の実態をもう少し勉強する必要があるようだ。
 労働基準法では監督・管理の地位にあるものは労働時間や休憩、休日について同法の対象外で、会社は残業代などを支払う義務はない。厚生労働省の通達によると、管理職に当たるかは①労働管理などで経営側と一体の立場にあるか②賃金や勤務形態が優遇されているかーーなど職務や職責、待遇などが基準となっている。今回、日本マクドナルドの店長が管理職かどうかが焦点となったわけで、判決は「同社店長は店舗責任者としてアルバイトの採用や会社のマニュアルに基く運営など店舗内の職務を持つにとどまり、経営者と一体的立場とはいえない」と管理職ではないとしている。
 しかし、マクドナルドの店長はどうみても管理職であるのは客観的な事実である。店内の社員やアリバイトに対して勤務時間の管理や職務の指示を行い、お客に対しては会社を代表してサービスに務めている。確かに社員4500人に対して店長が1715人と多過ぎるが、独立店舗の責任者として会社を代表している意味では立派な準経営者である。
 だから、問題は管理職である店長としてそれにふさわしい賃金を得ているかどうかで、日本マクドナルドの賃金体系こそが問題にされなければいけないだろう。店長として時間で測れないような仕事もあるので、店長としての平均的な残業時間を上回るような管理職手当てが与えられているかどうか、が問われるべきだろう。
 経営者と一体的立場にあるか、などという尺度で管理職を決めるのはそれこそ企業の実態を知らない者としかいいようがない。日本の企業の場合、会社は社長が1人でほとんどのことを決めてしまうケースがほとんどで、そうなると社長以外すべては非管理職ということになってしまう。厚生労働省の通達を変えないといけないだろう。
 日本マクドナルドはハンバーガーテェーンの最大手で、低価格を売り物にしてきたが、その背景に過酷な労働と低賃金があることが判明したわけで、この意味で業界に与えた影響は大きいもんがある。この裁判が長引くと同時に今後、同社の低価格路線が見直されていくことになるのは間違いない
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回収ボックスはどこ?遠い、資源大国への道

2008-01-28 | Weblog
 都市鉱山では日本は世界一の資源国である、という。数日前の読売新聞が報じたところによると、茨城県つくば市の物質・材料研究機構(物材研)の調査で国内の家電や電子機器などに含まれる金銀などの金属資源の国内総量は各国の天然資源量を上回る世界最大の規模に匹敵することがわかった。金の価格が1オンス(約28、3グラム)1000ドルを突破し、他の稀章少金属も連れて大幅に値上がりしており、資源小国の日本といsては先行き不安を感じるなか、心強い調査結果が出たものである。
 物材研は素材や製品として輸出入される金属20種についての貿易データなどを分析し、国内に蓄積されていつ金属資源量を割り出した。それによると、金は5800トンで、世界の埋蔵量の16%に相当する、という。延べ板に換算すると、約20兆円分になる。また、銀は6万トン、インジウムは1700トンで、それぞれ世界の埋蔵量の23%、61%に相当する、という。世界各国の鉱山の埋蔵量と比べると、金は南アフリカを抜いてトップ、銀や鉛、インジウムも世界一になる、という。
 もっともこれは企業や家庭から輩出される使用しなくなった家電製品や情報機器類を集めて、解体し、そのなかから金や銀、稀少金属をより分けて再生する作業をきちんとすることが前提となる。以前から日本の廃棄物をごっそり買っていく専門の業者がいることが言われてきた。専ら中国で解体、選別して資源再生に大いに役立てているのだが、日本では人件費が高くてこれまでやっていなかった。
 しかし、これだけ資源価格が高騰してくると、都市鉱山を国全体で体系的に進めてもいい時期に至っている。ここは国や地方自治体、それに業界あげてそうした取り組みにかかる必要があるだろう。
 そうした折りに読売新聞の記事を追いかけるようにNHKテレビで、某携帯電話会社が店頭で使わなくなった携帯電話の回収ボックスを置きだした、と報じていた。以前に携帯電話をばらしてみたことがあり、確かに携帯電話には金や稀少金属がいっぱいありそうな感があるのは知っていたので、早速、近くの溝ノ口auの店に使わなくなった携帯電話を持参したところ、店内のどこにもそんなボックスは置いてない。店員はいずれもお客と応対中で聞こうにも人がいなかったので、カバンの中へしまい込み、どこか他のお店にでも置いてあるだろう。とうかがったが、結局どこにもなくて、再び家に持ち帰ってきてしまった。
 1億台を超える保有台数なので、使用しなくなった携帯電話を集めだしたら、一挙に大量の機器が集まることだろう。ただ、やみくもに集めても後処理の体制が整っていない、と大変なことにあんるのはすぐに想像がつく。NHKの報道に合わせてか、たまたま、モデル店舗で回収ボックスを置いただけなのだろう。
 資源小国を資源大国に変えるにはまず人の意識から変えないとダメということなのだろう。
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豆腐よ、おまえまでもか

2008-01-27 | Weblog
家の近くの豆腐屋が新春から値上げした。うちのかみさんがいつものように買いに行ったら、「一丁120円から140円に値上げしました」と言われ、16.6%もの大幅な値上げに驚いてか、よほどびっくりした顔でもしたのだろう、豆腐屋のおばさんから「今度からでいいですよ」と言われた、という。もちろん、かみさんは「そういうわけにはいかない」ときっちり払ったが、豆腐屋のおばさんがそういうのは我が家が毎日のように豆腐を買う常連さんだからだろう。いままで即席メンやマヨネーズ、チーズ、ビールなどが値上げと聞いても「ふーん」といった程度であったが、
流石に毎日買うものが値上げとなると一挙に生活感が増してくる。
我が家がいまの溝ノ口に越して來たのは95年3月で、來た早々に件の豆腐屋さんで豆腐を買って食べたところ、抜群に美味しく、特に夏場に冷奴で食べる味は何とも言えぬ美味で、それだけでいい所に引っ越してきた、と思ったほどだった。以来、毎日のように豆腐は欠かさず買って、食べており、引っ越した当初は来客があれば、冷奴を出し、いかに美味いか、同意を求めるほどだった。いつか、豆腐屋さんに聞いたら、原料には米国産大豆を使っている、という。それ以上は企業秘密として教えてくれないが、原料だけではない美味の秘訣がありそうである。
常連だから、豆腐屋さんも顔を覚えてくれて、たまには庭に生えるシソウの葉をサービスしてくれるようなこともあった。豆腐屋さんは老人夫婦できりもりしており、豆腐屋の例にもれず、朝早くから造り、出来上がれば周囲の八百屋などにも卸しており、その傍ら小売りもしている。時々、長めの休みを取って夫婦で海外旅行に出掛けてもいるようで、隣の床屋に海外旅行で撮った写真が掲げてあることでそれが知れる。
 鈍想愚感子は昔から魚は嫌い、肉もそれほど好きでない、専ら玉子と豆腐を好むかみさん泣かせの食習慣の持ち主であり、とにかく食卓に豆腐と玉子さえあれば満足する。だから、たとえ1丁20円といえども値上げは痛いし、家計に響く。
 考えてみれば、間違いなく米国産大豆は値上がりしているし、燃料の重油も大幅に値上がっているので、遅かれ早かれ、豆腐の値上げは避けられないことではあった。だからといって我が家の場合、好物の豆腐の消費を落とすわけにはいかないだろう。しかし、豆腐全体の消費が落ちないかどうかは保証の限りではないだろう。
今後、豆腐に限らず値上げの動きはどんどん出てくることだろう。それが転嫁できたり、賃金のアップなどで吸収されていけばいいが、どこかで詰まるようなことがあると、どこかで爆発することになるだろう。 その責は福田首相なり、福井日銀総裁にいくことになるだろう。
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わたしいまめまいしたわ

2008-01-26 | Weblog
 25日は東京・北の丸公園の東京国立近代美術館で開催されている現代美術「わたしいまめまいしたわ」展を観賞に行った。数日前の朝日新聞の夕刊に紹介されていて、面白そうだな、と思ったのだが、紹介されているなかに澤田知子なる写真家の名前があったのが特に目を引いたのだ。澤田知子は数年前に雑誌「VOGUE」に作品が載っていて、女学校のクラス写真を様々な顔、髪型、表情をして1人で50人くらいを演じたのに驚いた記憶があったからで、今度はどんな驚きをもたらしてくれるのか、との期待もあった。
 金曜日の昼下がりとあって場内は閑散としていて、1人静かに観賞するにはもってこいの環境のなか、ゆっくり歩く靴の音が場内に響きわたる。まず、自画像のコーナーがあり、岸田劉生、梅原龍三郎、佐伯祐三らの描いた自画像が並べてあるコーナーの近くに目当ての澤田知子の「ID400」があった。駅などにあるインスタント写真コーナーで撮った4枚組の写真に本人が様々な格好をして写っている白黒写真が縦横10組ずつ100人分写っているのが4枚並べられてある。いずれも写真家本人と知れる出で立ちで、順番に眺めていくとなるほど、と思わされる。ただ、作品としては以前の女学校の集合写真の方がインパクトが強くて、やや期待外れだった。
 このほか、草間弥生、秋山祐徳太子など名前を知っている人の作品が展示されていたが、一番感銘を受けたのが暗い部屋の正面で「追憶の五重奏」と題されたビル・ヴィオラの映像作品だった。5人の中高年男女が亡くなった大切な人を見送る場面を撮った映像で、いまにも涙がこぼれ落ち、号泣の声が聞こえてきそうな気がする。写真としても優れた瞬間をとらえたので、亡くなった人がとてもいい人だったんだな、と思わせるいい作品だ、と思った。
 いかにも女学生が考えそうなタイトルで、作者が現代なり、社会をどうとらえているのか、を考えると楽しくなってくる。入場料金が常設展と合わせても420円と高騰気味の美術展入場料のなかで格安なのも良かった。こうして自由気儘に制作に没頭できるだけ、現代は平和な時代なのかも知れない。
 先日、横浜美術館で「ゴス展」を見に行った時も思ったのだが、現代美術を正しく評価して、選別して、保存し、後世に残すような仕事をだれかがやらなければいけないのだろう。近代まではその仕事を欧米では貴族王様が、日本では財閥がやっていたのだろうが、いまやそうした存在は少なくとも日本では絶えてしまっている。せいぜい横浜美術館や東京国立近代美術館の学芸員が細々とやっているに過ぎない。見分ける目を持っている人には保存を図るだけのお金がないだろうし、お金がある人にはその嗜好がないだろう。
 となると、現代美術は混沌ということになる。門外漢としては機会があれば、こうして見て楽しむくらいしか能がないことになる。
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行きはよいよい、帰りは恐い

2008-01-25 | Weblog
23日は久し振りに東京・三軒茶屋の昭和女子大で行われた題名のない音楽会の公開録画番組を聴きに行った。券を確保したうえで、会場へ戻ると、係員が携帯でどこかの鉄道が上下線とも止まった、というようなことをやりとりしていた。果たして、東急田園都市線の高津駅で人身事故があって上下線がストップした、という。6時45分開始が15分遅れて始まった演奏会の前半は今年がプッチーニの生誕150年ということで、オペラ蝶々夫人やトゥーランドットなどの名曲を高らかに歌い上げた。いつもの出演者との掛け合いがないせいか、きっちり30分で終わってしまった。
 後半は音楽センター試験と題して、青島広志、大谷康子らの回答者がオーケストラが演奏する曲を中てるクイズで、冒頭を演奏するだけで中てるのやら、指揮者の指揮する姿を見て中てるのや、サブのメロディだけ聞いて中てるのや、果てはオーケストラの演奏する曲を聞いてメロディを弾いている楽器を中てるのもあって、音楽を楽しむ方法にこんなものもあるのだ、と思い知らされた。やや、冗長な感もなきにしもあらずだったが、1時間半の長きにわたって収録し、結構楽しめた。
 で、午後9時過ぎに会場をあとにして、もう電車は復旧しているだろう、と思って、三軒茶屋駅へ行くと、依然として電車は不通のままだった。今度は用賀駅でレールの亀裂が見つかり、復旧するまで上下線ともストップしている、という。買ってあった切符を払い戻したうえで、振り替え輸送しているバスの停留所へ行くと長蛇の列。寒いなか、しばらく待っていてもバスはなかなか来ない。通るタクシーに空車マークは点いていない。考えてみたら、長いサラリーマン生活のなかで、こうして帰宅の足が奪われたことはまずない。溝ノ口まで歩いて帰るには距離があるし、どうしたものか、としばし考えた。
 といっても名案が浮かぶわけがない。すると、田園調布駅行きのバスが来て、乗れそうな感じで、立っていつ来るかわからにバスを待っているよりはいい、と思いとっさに乗り込んだ。どこに停まるか、見ていたら、自由ケ丘駅前に停まったので、降りて駅の中へ入ると、ホームはぎっしりと人の波。大井町線で二子玉川まで行くのは諦めて、東横線で武蔵小杉駅へ出た。で、JR南武線に乗ろう、としたら、ここもホームに入りきれないほどの人でいっぱい。乗れるか、と思ったらギューギュー詰め込んでなんとか乗り込んで、無事に溝ノ口駅にたどり着くことができた。家に帰って、暖かいお風呂に入って、一息ついた。結局、1時間半くらいのロスで済んだ。
 いつもこういう時に思うのだが、日本人というのは大人しいというか、従順である、ということだ。もっとも、怒りをぶつけようとしてもぶつける先がない、と思うのだろう。鉄道にしろ、システムにしろ、永年使ってきていて、金属疲労のようなものが随所に出ているのは間違いない。保守するにしても達人らしい人はどんどん引退してそうしたノウハウが伝わらない、という面もありそうだ。いずれ、大きな事故が起きないとも限らない。
 題名のない音楽会の余韻が事故ですっかり吹っ飛んでしまった。でも大事に至らず良かった、良かった。
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これも幻に終わるか新聞社ネットの大連立

2008-01-24 | Weblog
 1月1日からスタートするはずだった朝日新聞、読売新聞、および日本経済新聞3社のインターネットサイトの統一「ANY」プロジェクトが遅れている。1月末に延期されたという説があるが、正式に発表されたわけではない。昨年秋に3社の社長が記者会見し、大々的にぶち上げただけに関係方面から期待されているプロジェクトに一体、何が起きているのだろうか。
 「ANY」プロジェクトは朝日、読売、日経のサイトのポータル(入口)となるもので、3社のニュース、論説記事などを論評を加えるなどして紹介し、それぞれのサイトに誘導する仕組み、とすることになっていた。しかし、冷静に考えると、ニュースなり、論説を比較して論評することなど一体だれが行うのだろうか、3社のだれしも納得するようなものが短時間にできるはずがないし、そもそもポータルなんて必要がないのでは、と思えてくる。
 「ANY」プロジェクトを立ち上げよう、と思うに至ったのはネット業界の雄、YAHOOに3社で対抗しよう、ということに他ならないが、対抗できるだけのものを作るにはポータルではなくて、3社のサイトが一体にならないと難しい。仮に3社のサイトが一体になってもたとえば発表記事などは3社のを3つ並べても意味はないし、また、どの社ものを優先するか、も難しい問題である。それにサイトに掲載された広告バナー収入をどう配分するか、も簡単には決まりそうにない。
 しかも、それをするには新聞そのものの死命にまで関わってくるので、おいそれとはいかないだろう。3社ともサイトは新聞の添え物という意識が抜け切らないからで、そもそもサイト最優先で取り組んでいるYAHOOなどとはサイト戦略に温度差がある。
 こう見てくると、「ANY」プロジェクトは1月末どころか、長期延期、もしくは空中分解の観測すら出てくる。もともと3社内で十分に練り上げた上で発表されたプロジェクトでなく、3社のトップが合意してトップダウンで進んだもので、こうした場合得てして構想倒れのケースが多い。米国企業の場合はトップダウンで物事は進むが、お神輿経営の日本ではトップダウンは馴染まない。
 それにANYウロジェクトの本当のねらいは販売提携にある、というのが業界筋の見方で、全国に乱立している非効率な新聞販売店網を統合していくことにこそ意味があることだろう。ただ、それだと、公正取引委員会から睨まれかねないので、ネットを表面に立てただけの話だろう。
 今回のANYの背後に渡辺恒雄読売新聞社主がいるかどうかしらないが、こう見てくると、いつぞや見た自民・民主両党の大連立と朝日・読売・日経の3社ネット連立がダブって見えてくる。

追記 1月30日になって、明日から3社ネット「あらたにす」がスタートする、との発表があり、31日午前7時にオープンした。3社そろっての公約を破るわけにはいかない、とあってなんとか格好をつけた。幻とみた鈍想愚感子は脱帽である。3社に言わせれば、力を合わせればこの世にできないことはない、ということなのだろう。たが、中身を詳細にみると、確かに3社の記事が並んでいるが、これではGoogleのニュースより、こちらを見ようと思わせるわけではないし、売り物のはずの3社の論説・記事の比較がコメンテーターの名前と抱負が載っているだけで、批評らしきものは見当たらない。
従ってか、バナー広告も3社の社告めいたものしかなくて、ビジネスにはつながっていない。流石の電通、博報堂もそこまで協力できなかった、とみえる。
火事場の力技でなんとかスタートさせたが、肝心のビジネスモデルにまでは至っておらず、YAHOO、Googleを脅かすのはまだ先のようだ。
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ジャパン・ナッシングの遠因は政治家の頭ナッシング

2008-01-23 | Weblog
 東京証券取引所の株価が下げ止まらない。一部上場の日経ダウで22日も前日の535.35円安を上回る752.89円安と今年最大の下げ幅を記録し、終値は1万2673.05円と2年4カ月ぶりの安値となってしまった。引き続いて開けた22日のニューヨーク証券市場でも世界同時株安で一時ダウ平均で464ドルを越す下げ幅となったほどで、たまらず米FRB(連邦準備制度)は最重要の政策金利であるFF(フェデラルファンド)金利を緊急に0.75%引き下げ、3.5%にしたが、それでも終値は前日比124.75ドル安の1万1973.55ドルと1万2000円を割り込んだ。
 問題は世界同時株安のなかで、日本だけが独歩安の傾向があることで、日本の株式市場の3分の1強を占めていた外人投資家が日本を見限りつつある。米タイム誌は最近の記事のなかで「いまやNY、LON、KONGーーニューヨーク、ロンドン、香港の三大都市がグローバル経済を率いている」と東京が地盤低下していることを明言している。証券だけでなく、経済そのものが低下している、と断じているわけだ。早速、日本の証券業界は竹中平蔵元団長を団長とするメンバーをロンドンに派遣して、投資セミナーを開催するなどしているが、焼け石に水の感がある。
 先日もテレビを見ていたら、株安の状況をカブドットコム証券のマーケット・アナリストの山田勉氏が「かつてはジャパン・バッシングであったのが、ジャパン・パッシングになり、いまやジャパン・ナッシングだ」と揶揄していた。早速、この表現を田原総一朗はコメントのなかでチャッカリ使っていたが、証券関係者がジャパン・ナッシングと言うのは自らの首を締めているのに等しい。
 ジャパン・ナッシングの最大の原因は相も変わらず瑣末な政争に明け暮れる政治にある。22日も国会で代表質問をのんべんだらりと繰り広げている。焦点は道路財源としているガソリン税の暫定税率の問題で、当面する経済不安はどこ吹く風とにった面持ちである。ジャパン・ナッシングどころか、政治家の頭こそがナッシングである。
 英エコノミスト誌の1月19日号を読んでいたら、日本の政局に触れた下りで、小沢一朗の形容詞に「blunt」と付いている。辞書を引いたら、鈍い、無遠慮となっていて、最近の小沢一朗のパフォーマンスをうまく表現しているな、と感心した。
 となると、日本の株安の趨勢は底なし、ということか。
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無意識に脳が指令を出す

2008-01-22 | Weblog
21日は朝予想された雪にはならなかったものの、おっかなびっくりで会社へ出かけた。というのは前日は朝起きて、またぞろお腹が痛み出し、いつものジョッギングも止めて、暖かい飲み物を飲みながら養生していたので、それが治っているものか、との不安があったのだ。元旦に出た結石がもう終わったはずなのにまた下りてきたようなのだ。しかも今回は1つだけでなく、複数の石が下りてきたようで、ほぼ1日、引きつるような鈍痛が続いた。
 今回は数日前にどこかから頂いたイクラをやや大量に食べたところ、その翌日からお腹の調子がゴロゴロしだした。イクラは鮭の卵で栄養がいいからか、胃腸の消化能力を超えてしまって、ゲップは出るわ、おならはでるわ、で2、3日下痢の一歩手前の症状が続いた。それと、イクラのなかにある油の成分が内臓のなかで、結石を転がすような作用でもしたのだろう。科学的にそうした働きがあるとは解明されたわけではないが、そうとしか思えない今回の発作であった。
 おかげで、20日はずっとパジャマを着たまま、1日中、ゴロゴロとしていて、テレビを見ながら、読書をしながら、過ごして、ようやく午後になって症状が治まってきた。で、考えたら、1日一歩も外へ出なかった。風邪なりで寝込んだ時は別として、お休みに一歩も外へ出ないことなんて、いままでにないことであった。
 で、翌朝になって、背広に着替えている時にたった1日でも家の中にじっとしていたことを振り返ると、なにか病み上がりのような気になってきた。マンションの外へ出てもたった1日だけのことなのに足の運びが久し振りのような感じがした。結局、この日はまる1日、懸念していたような結石の症状は起きなかった。
 最初に結石の症状が出た時はそんなことはなかったが、最近の結石の症状を見ていると、いつも発作が起きるのは休みの日である。まず会社へ行く日には発作は起きない。何回も同じ症状が起きるうちに、まるで、脳が「今日は会社へ行く日だぞ」と腎臓に指令を出して、石が転がり落ちるのを止めているような感じである。本人は少しもそうした意識は自覚していないので、無意識のうちにそう行っているのだろう。広い意味での学習効果といえるのかもしれない。毎日、そんな大した仕事をしているわけではないが、それでも会社へ出かける以上はそれなりの緊張もするということなのだろう。それがお休みの日には緩んでいて、石も転がり出てくる、ということなのかもしれない。
 仮に仕事をしなくなったら、一体どうなるのだろうか。一挙に石が飛び出してくるものなのだろうか。人間、常に仕事でなくとも緊張する何かが必要、ということなのだろう。
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