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鈍想愚感

何にでも興味を持つ一介の市井人。40年間をサラリーマンとして過ごしてきた経験を元に身の回りの出来事を勝手気ままに切る

TBSのサンデーモーニングにソフトバンクの孫正義氏が生出演しているのを見て驚いた

2024-06-30 | Weblog

 30日朝、いつも見ているTBSのサンデーモーニングを点けたら、司会の膳場貴子の横のコメンテーターの席にソフトバンクの孫正義社長が座っているのに驚いた。いつも決まった評論家など4人が座っており、イレギュラーな人物が登場するのはあまり例がない。しかも現役の経営者が座るなど見たことがない。この番組は最初に過去一週間のニュースを取り上げ、そのコメントを居並ぶコメンテーターに順次聞いていくのが通例で、まず最初に米国のこの秋の大統領選の討論会で現職のバイデン大統領が対抗馬のトランプ氏に大きく差をつけられたことを報じ、それについてコメンテーターにどう思うかを聞いていくこととなり、トップバッターの目加田説基子中央大学教授に次いで孫氏にコメントが求められた。だが、孫氏はバイデン、トランプ両氏に会ったことはあるものの専門分野でないこともあって、「2人とも世界に影響を与えるので、頑張ってほしい」などと当たり障りのないコメントで終わってしまった。  

 ところが、その後、話題が円安に移るろ「日本の経済の底力は相当に弱っている。もう1度最先端技術を立て直すしかない」と語り、さらに今はやりのAIに話題が変わり、先日ソフトバンクが米国の医療分野の企業と提携」したことに触れるや、孫氏は持論を展開し、医療の世界をAIが圧倒する時代が来ることを話し出し、今後について成算があるようなことを力強く語りだした。医療分野で今後12年でいまの10億倍もの活躍を果たしてくれる、と目を輝かせて語ってくれた。半分、自社の宣伝であるとはいえ、現実にAIの現場で指揮を執っていて経営者が語るのだから、かなり説得力のある話しぶりであった。

 この番組はこの後にスポーツコーナーがあり、冒頭プロ野球に現況について話題が及ぶので、孫氏のソフトバンクがパリーグで首位を快走していることについてもコメントが求められるのかな、と期待していたら、AIの話題が終わった段階で、膳場キャスターが「孫さんはこの後の予定があるので、ご出演はここまでです」と述べ、孫氏は場をあとにしてしまった。

 どういう経緯で孫氏の出演が決まったのかわからないが、たまたま「今週の出来事」の話題のなかで、ソフトバンクがAI分野で米国の医療関係の会社と提携するニュースがあったので、臨時のコメンテーターとして座を用意したのを孫氏が引き受けた、ということなのだろう。孫氏としても自社のいい宣伝になると判断してチャッカリと乗っただけのことかもしれない。TBSの番組担当者のなかに目ざとい人いただけのことかもしれないが、一般紙のテレビ番組欄に「孫正義氏が番組生出演」と明記してあり、いい番組の宣伝になったのかもしれない。ひょっとしたら、ソフトバンクの関係者がいい宣伝になる、と思って、TBS側に持ち掛けたのかもしれない。世の中で、”ソフトバンクは生き馬の目を抜く”といわれているが、ソフトバンクの社員なら考えそうなことでもある。

 

 

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原告、被告とも社会の問題点に対する視点が欠けていて、残念な結果となった傍聴であった

2024-06-27 | Weblog

  26日は東京・霞が関の東京地方裁判所へ行き、午後1時30分から603号法廷で東京近郊の鍼灸師派遣の会社、パレ―ド社が同じく鍼灸師派遣のHITOWAライフパートナー社に損害賠償請求している民事裁判を傍聴した。まず被告側の証人が証人尋問に立ったが、最初は施術管理技術者がなんとかかんとかといったやり取りをしていて、どこに問題があるのか、さっぱりわからなかったが、聞いているうちに原告が被告の商売のやり方に問題があると指摘していることがわかってきた。

 被告は埼玉県所沢で鍼灸師を派遣しているが、同じ埼玉県狭山市にも同じように鍼灸師を派遣していることが保健所が別なので違法ということが指摘されていて、施術管理者技術者も同じような問題を抱えていることが暴露された。被告側の証人はそれを指摘されてもすでに被告会社を退職していたので、あとになって知らされた、ということのようだった。話を聞いているとこうしたことはこの世界ではどこもがやっているような状態のようで、所轄官庁の厚生労働省も訴えがない限り、放任しているような状況にある、ということも明らかとされた。

 だからといって裁判長も問題を重視するような感じはなく、続いて尋問台に立った被告側の証人も淡々と聞かれたことを証言していった。それでも法的な問題点について、突っ込むような尋問もなく、聞かれたことの経緯を証言するでけで終わってしまった。被告側の証人2人はいずれも中間管理職で、会社全体を見渡してものを言うタイプでなく、会社としての方針といったことに触れるような発言は一切なかった。

 そして、最後に証言台に立った原告に注目したが、最初弁護人が被告との団体契約の解除、および被告の不正請求について訴えていることを明らかにしたが、尋問ではそれをことさら披露することなく、事の経緯をなぞるだけの尋問に終わり、折角起訴したのだから、社会の問題点にふれるような展開を期待したが、それも空振りに終わったような感じだった。請求している損害賠償額についても明らかとされなかったのも不満だった。途中で退席してしまったので、問題の所在については納得をえられないまま中途半端な傍聴となってしまった。

 被告のHITOWAライフパートナーは鍼灸師の派遣のみならずおそうじ、靴フランチャイズなど多岐にわたる事業を展開していて、グループ全体で8000人の従業員を抱える立派な企業のようであり、社会的にも存在感のある企業にようである。にもかかわらず裁判に際して抱えている事業に関して会社としての取り組み、今後の方向などを適格に話すことのできる責任者を出してこないことは大いなる汚点ではないか、と思われた。

 裁判では原告、被告とも訴訟の争点がどこにあり、それだけでなく社会的な問題につながるような側面があれば、それについても光をあてるような視点をもった対応が期待されるところだが、今回は原告、被告ともそれについては全くの配慮がなく、期待外れの結果となったことは至極残念なことであった。 

 

 

 

 

 

 

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60年ぶりに再現された友との付き合いの一コマになんともいえない感慨が湧いてきた

2024-06-24 | Weblog

 この13日から3日間、高校時代の友達3人と名古屋から信州松本を経て東京へ帰ってくる旅をした。3人とは高校の剣道部の仲間で、ずっと離れても時に会い、楽しく過ごしてきた仲間だった。ことしも昨年に続き、旅をしよう、ということで、集まった。まず名古屋駅に集合し、名鉄で稲沢へ行き、そこからY君の車に乗って松本へ行った。もう一人稲沢の仲間S君がいたが、身体の調子がよくないということだったので、立ち寄ってお見舞いのお菓子を渡し、4人で一路中央高速で松本に向かった。

 長野県にはこれまでに数回訪れているが、松本市に来たのは初めてで、松本城へ行った。木造の5層建ての立派なお城で、中の階段を登るのに行列ができるほどの混雑ぶりに驚かされた。戦国時代の永正年代に造られた深志城が始まりで、天正10年(1590年)に小笠原貞慶が新たに松本城として改築した、という。じっくりと見学した後、市内の浅間温泉にある帰郷亭ゆもとやに泊まり、温泉にゆったりと浸かり身体をほぐした。

 翌日は松本市内をドライブし、まず美ヶ原高原に行き、その真ん中に位置する王ヶ頭ホテルのベランダでコーヒー飲みながら 日本アルプスの山々を360度眺めながらその絶景を楽しむという幸せなひと時を過ごした。その後、再び松本市に戻り、信州そばの昼食を摂ったが、長野県の中心は長野市でなく、この松本市ではないか、という感想を強く持った。日銀の支店も長野市でなく、松本市にあったことを見れば、なおさらとの念を強くした。

 その後は進路を一路東京に取り、我が家のある川崎市をめざし、午後7時過ぎに家に帰った。2泊目を我が家にするというのはメンバーのなかのK君のアイデアで、早速、簡単なディナーを摂りながらビールを飲むという宴会となった。話は盛り上がり、結局24時を回って眠りに就くということとなった。3人のうち、1人のいびきがうるさくて、2人と1人が別の部屋に別れて眠るということと相成った。

 それでも翌朝は8時頃には起きて、午前10時頃には3人は名古屋へ向かって出発した。その後夜になってメールが来て、東京から横浜にかけて渋滞にはまり、家に帰ったのは午後6時頃だった、ということだった。お疲れさま、と言わざるを得ない。こちらも強行軍だったので、その後2日間は疲れが残った。

 このグループは剣道部の友人で、いずれもが長男だったので、惣領の甚六をもじって甚六会という名前を付けていたが、最初7人いたのが一昨年に1人亡くなったのでいまは丁度6人となっているが、今回は6人のうち参加は4人となった。考えてみれば、高校を卒業して大学に入った昭和39年(1968年)の5月に当時東京・飯田橋の近くに下宿していた4畳半の部屋に甚六会の仲間の6人が上京して総勢7人で2日ばかり泊まっことがあった。あれから60年経って、同じようなことが再現されたわけで、なんともいえない懐かしい思い出となった。いずれにしろ、こんなに永い間の友情が保たれていることに他ならないということで、人生の貴重な一コマといえるのかもしれない、と感慨深く思い出した次第。

 

 

 

 

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京都並みの混雑ぶりを呈していた古都、鎌倉。なかでも覚園寺はもっと知られてもいいお寺だと思った

2024-06-09 | Weblog

 8日はピースボート乗船の友達のH氏夫妻と連れ立って鎌倉見物に出かけた。午前10時に北鎌倉駅に集合することで出発したところ、川崎駅での乗り継ぎに遅れ、定刻過ぎに北鎌倉駅に到達したが、改札を出ると沢山の人が密集しており、まるで東京・銀座や京都並みの混雑ぶりを呈していた。これまで数回鎌倉には来ているが、こんなことは初めてのことで驚いた。円安で海外旅行が敬遠され、国内観光に切り替わっているうえ、天候にも恵まれたとはいえ、老若男女がこれほど鎌倉に殺到するとは思いもしなかった。

 まずは北鎌倉脇にある鎌倉五山のひとつである円覚寺に行くと、入口で拝観料を1人500円也を徴収された。以前は拝観料を取らなかったような記憶があるが、ここでも京都並みということか、と納得した。境内は樹木が生い茂っており、初夏の風が吹く抜く中、境内を散策し、お参りをした。緑あふれる境内は別天地といった感じで、古都鎌倉の匂いを嗅ぎ取ることができた。続いてJR横須賀線沿いを歩き、鎌倉五山のうちの建長寺を訪れ、ここでも拝観料を払い、総門をくぐり、仏殿建長7年(1255年)鋳造の国宝、梵鐘を拝観したあと、方丈の龍王殿に上がり、見事な庭園脇で一服した。けんちん汁がこの建長寺で生まれたものであることを知り、改めて日本の文化にお寺が関わっていたことを思い知らされた。

 この後は紫陽花で知られる明月苑はどうせ満員だろうと敬遠し、ランチを摂るべく鶴岡八幡宮前の蕎麦屋に行ったところ、14組待ちの混雑ぶりだった。とりあえず客待ち台帳に名前を記入して、30分あまり鶴岡八幡宮にお参りした。で、戻ったところ、わずか3組進んだだけだったので、キャンセルし、すぐ隣の同じ蕎麦屋に入り、鎌倉割子そばなる鎌倉名物に舌づつみを打ち、味を堪能した。

 その後は小町通りを散策しながら、鎌倉駅に至り、Hさん推薦の覚園寺に行くべくバスに乗って鶴岡八幡宮の東北あたりに位置するお寺に向かった。覚園寺は建保6年(1218年)に時の将軍、北条義時が創建したもので、以来800年にわたって引き継がれてきたお寺だ、という。現在31代目にあたる僧侶が引き継いでいる、という。本山の薬師堂脇には樹齢800年という神奈川100選の銘木、槇の木が聳えていてお守りしている風であった。境内を一周して、出口にさしかかった脇に合歓の木があり、側にいたお尚さんが「この合歓の木は夕暮れになると花が開いたように咲き、日が出ると閉じてしまいます。それも数日限りである」と説明してくれた。建長寺を出た際に脇に観光案内図が掲示されていて、この覚園寺が紹介されていたのを思い出し、もっとみんなに知られてもいいお寺だ、と思った。

 ともあれ、鎌倉を訪れる機会がもっとあってもいい、と思った。数年前に鎌倉を訪れる観光客は年間2000万人で京都の約半分だと聞いた記憶があるが、今日の感じではいずれ追いつくことも夢ではない、と思った。

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日本の最先端技術の研究に勤しむ理化学研究所を見学できて、その息吹を感じ取って感激した

2024-06-05 | Weblog

  4日は埼玉県和光市にある理化学研究所の見学ツアーに参加した。先月末にたまたま理化学研究所のサイトを開いたところ、見学ツアーが開催されるとの広告を見て、定員20名ですでに募集人数を大幅に超える応募がある、と書いてあったので、おそらくダメだろうと思っていたら、当選の通知が来たので,喜んで参加することにした。和光市までは渋谷から副都心線を通って都心から約1時間で行ける感じで、集合時間の1時50分まで20分くらいで着く予定で和光市駅から歩きだし、西門までたどり着くと閉まっていて、約100メートル先の正門まで行くと、再び西門まで歩けとのことで、遠回りして、それらしき団体がいたので合流すると、もう一度西門まで行って受付をしてくれ、ということで、汗かきながら歩き回り、やっと見学団に合流できた。

 で、見学団に加わり、最初の理研ギャラリーにてオリエンテーションを聞いた。そこで、理研が1917年に設され、大河内正敏氏のもとで、多くの研究者を輩出し、ノーベル賞受賞の湯川秀、朝永振一郎博士らを生み出し、米国のカーネギー、ロックフェラーと並ぶ地位を確立したことなどを聞き、改めて理化学研究所の偉大なる業績を拝聴した。その後、脳神経科学研究センター、仁科加速器研究センターを見学し、理化学研究センターが元素番号113のニホニウムの命名権を獲得するなど数々の業績を挙げたことなどを聞いた。

 理化学研究所は東京近郊の和光市の約30万平方メートルもの広大な敷地のなかで2700人もの研究者が務めており、この中には外人研究者が約800人も含まれている、という。昨2023年度の予算は1000億円を超える規模で、今話題の量子コンピューターやサイクロンはじめ原子核の研究など最先端の研究が進められている。数年前にノーベル受賞の山中伸弥教授が脚光を浴びたIPS細胞の研究に参じた小保方晴子研究員もここ理化学研究所員であったことは有名である。見学の途中、広大な敷地の横にゴルフ場を思わせる緑地があり、大きな通信塔が立っていたので、何かと思っていたら、米軍の装置だと説明していた。また、敷地の一角にサッカー場かと思われるような運動場もあり、研究員、所員の間でサッカーか、ラグビーでもやるようなこともあるのかな、と思わせてくれた。

 ともあれ、日本の科学技術の最先端の研究が行われているいわば聖地である理化学研究所を訪れ、その息吹を感じられたことに感激した。来た甲斐があったというものだ。もちろん、ほんのその一端を覗いたに過ぎないが、いずれ、家族の一員がこの施設の一員にでもなるようなことでもあれば、一層、身近に感じることができることだろう、と思った。

 和光市駅からの帰りに行きに利用した副都心線を使って帰ろうと思ったが、1時間ほど先だったので、池袋行きの西武池袋線しかなくて、それに乗った。池袋駅に着いて、改札を出て山手線に乗り換え、渋谷駅で田園都市線に乗り換えて溝の口駅に帰った。で、結局行きの520円に比べ200円近く高いものとなってしまった。一旦改札を出てしまうとこういうことになってしまうのだろうが、いい経験をしたのだから、と納得した次第。今秋にも再度、見学会行われるとのことだったので、都合がつけばぜひ再度訪れてみたい、と思った。

 

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