6日は東京・初台の新国立劇場で野木萌葱作の演劇「骨と十字架」を観賞した。28日まで20回公演されるが、この日は2回あるプレビュー公演の初日で、開園前に演出の小川絵梨子が「プレビュー公演は新国立劇場としては昨年の『スカイライト』公演に次いで2回目の公演で、みなさまの声を13日からの本公演 に生かしていきたい」と挨拶した。演出家がお客の前で挨拶するのは珍しいことだと思いながら聞いていたが、なぜわざわざ演出家がそういったのかあとでわかった。入場時にはプレビュー公演の趣旨が書かれた一枚の紙を渡されただけで、いつもの演劇界の今後の公演パンフレットの束は手渡されなかったのもあれっと思わせた。
開演となって、主演の司祭、ピエール・ティヤール・ド・シャルダンが座っているところへお付きの神父が現れ、なにやらバチカン法王庁からシャルダン司祭が信仰の傍ら取り組んでいる古生物学者としての行いについて相応しくないとの叱責を受けていることへの対応について相談している。そこへ法王庁の総長ら3人は登場し、改めてシャルダン司祭に信仰の道か、学問の道を選ぶか、決断を迫る。神への仕えの誓約書を書けと迫る神父と遥か北京から説得に来た神父がシャルダンに入れ変わりに説得し、お付きの神父と合わせて5人の男性が舞台上を駆け回る。事前に読んでいた新国立劇場から送られてきた会報で主演のコメント、パンフレットの出演者の写真でシャルダン役の出演者を眺めてみるが、どうもしっくりこないし、演劇の中へ入り込めなかった。
舞台ではシャルダンは信仰の道へ専念するという誓約書への署名を拒否して、バチカンの命で北京へ赴き、北京から説得に赴いてきた神父とともに古代遺跡の発掘に加わり、北京原人の頭蓋骨を発見するという偉大な業績を挙げ、ヨーロッパに遠征し、脚光を浴びることとなる。
そこで休憩となったので、会場の受付にあった出演者5人の写真と役を掲載したチラシを手にして座席に戻って予めもらっていた公演パンフレットと照合した途端、主役のシャルダンを演じていた俳優が事前の発表していた役者,田中壮太郎から紙農直隆に変わっていることが判明した。それで開演してからずっと抱いていた違和感がスーッと溶けていく感じがしてきた。公演パンフレットにあった主役を演じる顔写真の役者を求めて舞台を眺めていたが、どの役者にも当てはまらず、主役は一体だれなのか、と思いながら、舞台を見ていたのだ。
「骨と十字架」の後場となり、改めてシャルダン司祭は法王庁から信仰と学問の道の2者択一を求められるが、断固として学問の道の断念を拒否し、総長、仲間の神父との再三の説得にも応じようとせず、最後には席を立ってしまうところで幕となる。信仰の道と人類の骨を触れることが信仰の道に悖るのか、という問題は明らかとされないまま、観客にも疑問が残る。原作は日本製なので、そこまで踏み込んでいないのかもしれない、とも思った。演劇の意味を考える苗に今回は知らない間に主役が交代していたことが強烈で, そこまで考えるゆとりがなかったというのが正直な感想であった。
公演が終わってから係の人に聞いたら、3週間前に主役の演者の交代が決まった、という。入場料の高額なオペラの場合はオペラ歌手の交代は公演前にお知らせが届くが、演劇の場合はそこまでする習慣はないのだろうか。主演の交代は演劇そのものの価値を左右するものなので、少なくとも会場入り口にでも「お知らせ」を掲示するなどして観客が観る前に告知してもらいたかった。入場前にどこかにこっそりと掲示されていたのかもしれないが、当方には目につかなかった。
開演前に演出家の小川絵梨子が丁寧なあいさつをしていたのも主役の交代があったからだ、納得した。係員になぜ主役の演者が交代したのか聞き忘れたが、あまり大っぴらに理由がいえるような事情ではないのかもしれない。これまで公演の直前に主役が交代したようなことに遭遇したことがない。かつて黒沢明監督の映画「乱」の制作途中はそれほどで、主演の勝新太郎が降板して仲代達矢に交代したことがあったが、今回はそれほどの作品ではないとはいえ、チケットを購入したお客に対しては公演前になんらかの手段で主役交代の告知をすべきだった、と思われた。