13日は東京・初台の新国立劇場で演劇「マリアの首」を観賞した。俳優座の田中千禾夫氏が1951年に長崎の原爆被害者をテーマに戯曲化したものを新進の小川絵梨子が演出した意欲作である。浦上天主堂にあったマリア像の首をめぐっての原爆被害者の思いを描いているが、そのまま現代にもってきているようで、いまひとつ訴えてくるものがなかった。主演の鈴木杏も力演していたが、なぜマリアの首なのか、説得力がないままに終わってしまった感がしてならなかった。
「マリアの首」は舞台中央に木の柱組みで設けられた小屋のようなものを中心に昼は看護婦、夜は娼婦の主人公として生きる鹿がそこで客ととっている前で、原爆症の夫が書いた詩集を籠に入れて通る人に販売している忍をめぐって通りすがりの人があれこれとちょっかいを出しているシーンから始まる。おまわりさんとか、やくざの三下の若い衆、それにおじいさんがからんできたり、冷やかして通り過ぎていく。時には娼婦からいじめられるような目にも遭う。いずれもがなんらかの形で原爆の被害にあっていて、陰をひきずっている。この忍は鹿と浦上天主堂に安置されていたマリア像の首をどこかに持っていって、反原発運動の象徴のようなものにしたい、との願いを持っている。とはいえ、お互いに仕事やら、家族を抱えていて思うような動きがとれない事情にある。
今日も鹿は同じ看護婦の静と病院に担ぎ込まれた若い男の看護に追いまくられたり、拳銃自殺を図った男の手術に立ち会ったりしていた。一方、忍の夫は原爆の調査員と称する若い男の訪問を受けて原発反対のための運動への協力を求められ、断るのに閉口して、なんとか追い返したところへ忍が帰ってくるが夫は生きる希望を見いだせないでいる。
そんな折り、長崎に雪が降ってきて、かつて忍が通りすがりのおじいさんと雪の降る晩に浦上天主堂で会う約束をしたことを思い出し、その場所へ駆けつけると、鹿が必死になってマリアの首を前に叫んでいる姿を見つける。
2人で前に転がっているマリアの首を見つけ、抱きかかえようとするが重くていかようにも動かない。このマリアの首を反原爆運動のシンボルとしたいとの思いから、なんとかしようと大声で叫ぶところで幕となる。マリア像は被害者と反原爆を叫ぶ人を結びつけるもので、原爆被害者のシンボルでもある。その首をいかようにするのかは明らかにされないままにされていて、観る者は想像するしかない。原爆被害者に寄り添うことのできない者はマリアの首を見て共感するしかないということになるが、果たして劇作家の田中千禾夫氏はなにを訴えたかったのか。
この演劇は制作当時の60年前は新鮮だったかもしれないが、その後の原爆、核をめぐる国際的な動きはめまぐるしく変化してきており、それなりに時勢を読み込んだものに手を加えないと受けないような気がする。現にいまは北朝鮮が核ミサイル発射を進め、国際社会のなかで孤立を深めている緊張感のなかにあるので、反核は緊急の課題ともなっていて、そうした現代的な意義を踏まえてちょっぴり味付けをしてもよかったのではないか、とも思ったが、田中千禾夫氏の偉大な作品に手を加えるのはできない相談なのだろう。テーマがテーマだけに面白い内容とはいえないものとなってしまった感は否めず、鈴木杏の力演もやや空回りに終わったような気がした。
「マリアの首」は舞台中央に木の柱組みで設けられた小屋のようなものを中心に昼は看護婦、夜は娼婦の主人公として生きる鹿がそこで客ととっている前で、原爆症の夫が書いた詩集を籠に入れて通る人に販売している忍をめぐって通りすがりの人があれこれとちょっかいを出しているシーンから始まる。おまわりさんとか、やくざの三下の若い衆、それにおじいさんがからんできたり、冷やかして通り過ぎていく。時には娼婦からいじめられるような目にも遭う。いずれもがなんらかの形で原爆の被害にあっていて、陰をひきずっている。この忍は鹿と浦上天主堂に安置されていたマリア像の首をどこかに持っていって、反原発運動の象徴のようなものにしたい、との願いを持っている。とはいえ、お互いに仕事やら、家族を抱えていて思うような動きがとれない事情にある。
今日も鹿は同じ看護婦の静と病院に担ぎ込まれた若い男の看護に追いまくられたり、拳銃自殺を図った男の手術に立ち会ったりしていた。一方、忍の夫は原爆の調査員と称する若い男の訪問を受けて原発反対のための運動への協力を求められ、断るのに閉口して、なんとか追い返したところへ忍が帰ってくるが夫は生きる希望を見いだせないでいる。
そんな折り、長崎に雪が降ってきて、かつて忍が通りすがりのおじいさんと雪の降る晩に浦上天主堂で会う約束をしたことを思い出し、その場所へ駆けつけると、鹿が必死になってマリアの首を前に叫んでいる姿を見つける。
2人で前に転がっているマリアの首を見つけ、抱きかかえようとするが重くていかようにも動かない。このマリアの首を反原爆運動のシンボルとしたいとの思いから、なんとかしようと大声で叫ぶところで幕となる。マリア像は被害者と反原爆を叫ぶ人を結びつけるもので、原爆被害者のシンボルでもある。その首をいかようにするのかは明らかにされないままにされていて、観る者は想像するしかない。原爆被害者に寄り添うことのできない者はマリアの首を見て共感するしかないということになるが、果たして劇作家の田中千禾夫氏はなにを訴えたかったのか。
この演劇は制作当時の60年前は新鮮だったかもしれないが、その後の原爆、核をめぐる国際的な動きはめまぐるしく変化してきており、それなりに時勢を読み込んだものに手を加えないと受けないような気がする。現にいまは北朝鮮が核ミサイル発射を進め、国際社会のなかで孤立を深めている緊張感のなかにあるので、反核は緊急の課題ともなっていて、そうした現代的な意義を踏まえてちょっぴり味付けをしてもよかったのではないか、とも思ったが、田中千禾夫氏の偉大な作品に手を加えるのはできない相談なのだろう。テーマがテーマだけに面白い内容とはいえないものとなってしまった感は否めず、鈴木杏の力演もやや空回りに終わったような気がした。