鈍想愚感

何にでも興味を持つ一介の市井人。40年間をサラリーマンとして過ごしてきた経験を元に身の回りの出来事を勝手気ままに切る

反原爆のテーマがテーマだけに面白いものとは言えないものとなった演劇「マリアの首」

2017-05-13 | Weblog
 13日は東京・初台の新国立劇場で演劇「マリアの首」を観賞した。俳優座の田中千禾夫氏が1951年に長崎の原爆被害者をテーマに戯曲化したものを新進の小川絵梨子が演出した意欲作である。浦上天主堂にあったマリア像の首をめぐっての原爆被害者の思いを描いているが、そのまま現代にもってきているようで、いまひとつ訴えてくるものがなかった。主演の鈴木杏も力演していたが、なぜマリアの首なのか、説得力がないままに終わってしまった感がしてならなかった。

 「マリアの首」は舞台中央に木の柱組みで設けられた小屋のようなものを中心に昼は看護婦、夜は娼婦の主人公として生きる鹿がそこで客ととっている前で、原爆症の夫が書いた詩集を籠に入れて通る人に販売している忍をめぐって通りすがりの人があれこれとちょっかいを出しているシーンから始まる。おまわりさんとか、やくざの三下の若い衆、それにおじいさんがからんできたり、冷やかして通り過ぎていく。時には娼婦からいじめられるような目にも遭う。いずれもがなんらかの形で原爆の被害にあっていて、陰をひきずっている。この忍は鹿と浦上天主堂に安置されていたマリア像の首をどこかに持っていって、反原発運動の象徴のようなものにしたい、との願いを持っている。とはいえ、お互いに仕事やら、家族を抱えていて思うような動きがとれない事情にある。

 今日も鹿は同じ看護婦の静と病院に担ぎ込まれた若い男の看護に追いまくられたり、拳銃自殺を図った男の手術に立ち会ったりしていた。一方、忍の夫は原爆の調査員と称する若い男の訪問を受けて原発反対のための運動への協力を求められ、断るのに閉口して、なんとか追い返したところへ忍が帰ってくるが夫は生きる希望を見いだせないでいる。

 そんな折り、長崎に雪が降ってきて、かつて忍が通りすがりのおじいさんと雪の降る晩に浦上天主堂で会う約束をしたことを思い出し、その場所へ駆けつけると、鹿が必死になってマリアの首を前に叫んでいる姿を見つける。
2人で前に転がっているマリアの首を見つけ、抱きかかえようとするが重くていかようにも動かない。このマリアの首を反原爆運動のシンボルとしたいとの思いから、なんとかしようと大声で叫ぶところで幕となる。マリア像は被害者と反原爆を叫ぶ人を結びつけるもので、原爆被害者のシンボルでもある。その首をいかようにするのかは明らかにされないままにされていて、観る者は想像するしかない。原爆被害者に寄り添うことのできない者はマリアの首を見て共感するしかないということになるが、果たして劇作家の田中千禾夫氏はなにを訴えたかったのか。

 この演劇は制作当時の60年前は新鮮だったかもしれないが、その後の原爆、核をめぐる国際的な動きはめまぐるしく変化してきており、それなりに時勢を読み込んだものに手を加えないと受けないような気がする。現にいまは北朝鮮が核ミサイル発射を進め、国際社会のなかで孤立を深めている緊張感のなかにあるので、反核は緊急の課題ともなっていて、そうした現代的な意義を踏まえてちょっぴり味付けをしてもよかったのではないか、とも思ったが、田中千禾夫氏の偉大な作品に手を加えるのはできない相談なのだろう。テーマがテーマだけに面白い内容とはいえないものとなってしまった感は否めず、鈴木杏の力演もやや空回りに終わったような気がした。
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安倍首相はこの日本をどのようにしよう、としているのか、具体的なビジョンを聞きたい

2017-05-04 | Weblog
 安倍首相が憲法記念日の3日、日本会議が都内で主催した憲法改正を求める「美しい日本の憲法をつくる国民の会」でビデオメッセージを寄せ、「憲法9条に自衛隊の保有を明記し、2020年施行したい」との意向を表明した。これまで安倍首相は憲法改正については明言を避けてきたが、ここで憲法改正への意欲を明らかにしたのはなぜか。安倍首相は2013年春に政権復帰直後に憲法改正を打ち上げ、機会をうかがってきたが、森友学園問題などで昭恵夫人に対する疑惑が解けないなどで安倍政権に対する信頼がゆらいでいるこの時期に打ち出すのはいかがなものか、と思われる。それと私的ともいえる会議の場で重大な憲法改正への意向を表明したのもなにか解せない。

 安倍首相が憲法記念日の日に憲法改正への意向を表明することを決めたのはおそらく半年近く前だろう。森友問題が起きた2月中旬に国会の予算委員会で野党議員の追及に対し、「私や妻が関わっていることが明らかになれば首相を辞める」と口走ったのもこの憲法改正のスケジュールが頭の中にあったからだろう。こんなことで辞めれば憲法改正ができなくなる、とも思いから啖呵を切ったのだろう。さらに先月末に今村雅弘前復興大臣が二階派の会合で「東日本大震災が東北でよかった」と失言した際に即座に解任を迫ったのも間近に迫ったこの憲法改正への表明があったからだろう。こんなことで国民の支持を失うわけにはいかない、との必死の思いから出た措置だったのだろう、といまになって思い返される。

 安倍首相はかねてから祖父の岸信介元首相が果たそうとしてできなかった憲法改正への思いを持っている。政治家としての使命とも思っているのだろう。支持率が50~60%と安定しているし、憲法改正へ必要な保守勢力は憲法改正に賛同する自公、および維新の会、日本のこころで3分の2を超えている。しかし、安倍首相自身はずっと憲法改正への具体的な内容、スケジュールについては明らかにしてこなかった。それでも一昨年の集団的自衛権の行使、さらには今年の共謀罪を取り締まる法律などは憲法改正へ向けての布石ともいえる流れといえる。

 もちろん、今回明らかにしたのは憲法9条に自衛隊の保有を明記するということだけで、9条に規定している戦力の不保持、交戦権の否認との関係については触れていない。そのあたりを明確にしたうえでいずれは国民投票で国民の賛否を問う、ということになるのだろうが、日本国の今後のあり方を左右する重大な問題をこんな形で明らかにするというのは姑息なやり方ではなかろうか。本来は国会の所信表明のなかできちんと筋立てを立てたうえで、明らかにして議論をつくしたうえで、国民に信を問うというのが正しいやり方ではなかろうか。

 それに安倍首相はこの日本をどのような国にしていこう、としているのかを明らかにすべきだろう。米国との関係や中国、韓国など近隣諸国との関係をどうするのかも明らかにする必要がある。自衛隊でなく戦争を行えるだけの武力を持って、米国、中国と対等な関係を築くとでもいうのだろうか。これまでの戦争を放棄した非武装中立を維持する平和国家との整合性はどうするのか、をぜひ聞きたいところである。



 
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ゲイ賛歌の映画「ムーンライト」を観賞して、感激する気にはなれないのは遅れているのかしら?

2017-05-03 | Weblog
 2日は東京・日比谷の東宝シネマズで、ことしの第89回米アカデミー作品賞を受賞した映画「ムーンライト」を観賞した。平日とはいえ、ゴールデンウイーク連休中なので満員とはいかなくてもまずまずの入りだった。冒頭から米国ロスアンゼルスの黒人街に住むいじめられ少年をめぐる物語で、見ているうちにこの先どんなロマンな展開が繰り広げられるのかと期待を持って見ていたが、最後は今はやりのLGBTを賛歌する期待外れの結果に終わった。米国では一般的なのかもしれないが、日本ではまだ少数派のゲイを真正面から取り上げる映画は現れないだろう、と思った。

 「ムーンライト」は米国の黒人街で豪華な車を運転する黒人ファン、実は麻薬のディーラーが配下の売人を見回るシーンから始まる。そして場面は一転して、黒人の主人公のシャロンが仲間の黒人少年らに追いかけられ、人の住まない空き家に逃げ込み、じっとしているとファンが窓を蹴破って入ってきて、やさしく声をかけてくれる。困っている少年に幼き頃の自分を重ねたうえでの行為のようで、その後レストランに連れていき、果ては彼女のステラの家で食事までご馳走してくれる。少年はその日はステラの家に泊まり、翌日家に帰り、母親から厳しく叱声される。

 この母親が実は麻薬中毒で、ファンから麻薬を買っているこが判明し、ある日母親は自分の息子がファンになついていることを知り、なぜシャロンをかわいがるのか、と迫る。ファンはそんなことになっていたとは知らず、答えられない。それでもシャロンは麻薬に溺れる母親を嫌い、度々テレサの家に泊まりに行く。ただ、仲間からいじめられることだけは続いて、仲間の一人であるケヴィンとだけは親しく付き合うようになる。

 高校生になってもいじめは続きシャロンは逃げ回り、時にはテレサの家に泊まりに行くが、母親に見つかるといい顔をされない。すでにファンは他界していて、落ち着ける場所はテレサの家しかなくなっている。そんなある夜、気に入っている海岸に来てのんびりしていると、そこへやってきたケヴィンが話しかけてきて、2人は愛し合うこととなってしまう。それから数日して、ケヴィンが仲間にけしかけられてシャロンをぶんのめす暴力沙汰が起きる。先生から「だれにやられたかを告白しなさい」と言われても何もいわないシャロンは翌日、教室で仲間の一人を椅子でぶん殴る行為に出て、少年院送りとなり、街をあとにする。

 それから数年後、アトランタの街で麻薬のディーラーとなったシャロンはある夜、ケヴィンから電話ももらい、メヴィンが故郷でレストランを経営している、と言われ、懐かしい思い捕らわれる。養老院のようなところにいる母親を見舞った後に、思い出してケヴィンの元を訪れる。最初はぎこちなく語らっているものの、そのうちに2人はケヴィンの家で昔のことを話し、シャロンの「私を触ったのはお前だけだ」との一言で、2人はかつての思いを取り戻し抱き合ったところで幕となる。

 見終わったエンドタイトルでエグゼクティブ・プロデューサーとしてブラッド。ピットの名前があるのを見つけた。こんな映画がアカデミー作品賞をとるとは日本では考えられないことである。それだけ米国ではゲイが市民権を得ているのだな、と実感した。LGBTといわれているが、こうして公開の場で大っぴらに賛美されているのを見て進んでいるとしか思えないのは遅れているのかしら、と思った。
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