鈍想愚感

何にでも興味を持つ一介の市井人。40年間をサラリーマンとして過ごしてきた経験を元に身の回りの出来事を勝手気ままに切る

傍聴して、東京都議会は他の自治体と違って知事の負担は極めて軽い、と感じた

2013-02-28 | Weblog
 27日は東京都議会の傍聴に出かけた。昨年、石原慎太郎前都知事の際に東京都議会での石原節を聞きたいものだ、と思って傍聴に出かけたが、予算委員会の日程にしか合わせられず、次は本会議でと思っていたら、あっさりと退陣してしまった。そのあとを受けた猪瀬直樹都知事の答弁ぶりも聞きたいものだ、と思っていた。前日のNHKニュースで本会議の代表質問で、民主、自民、公明、共産4党の幹事長らからの質疑の模様を伝えていたが、3党ともさきの都知事選で433万8936票もの圧倒的な票を獲得し、圧勝した猪瀬知事にごますりのような質問しかせずに及び腰である、と伝えていたので、その通りかどうか確かめたい気持ちもあった。
 平成2年12月に建てられた東京都庁のなかで都議会は議会棟の最上階にあり、堂々たるもので、入場にあたり、荷物検査はもちろんのことだが、目の前で携帯電話の電源まで切らせる徹底したものだった。この日は一般質問で、第1党の民主党の議員から各自持ち時間10分程度の質疑が始まった。質問が終わって、答弁に入ったところ、まず最初に猪瀬都知事が壇上に立って質問の答えたが、答えたのは最初の質問の都のエネルギー政策に関してだけの部分で、その後の質疑でも特に都知事に対して質問があったものについてだけの答弁で、せいぜい2、3分のものだった。その他のほとんどは教育長や総務局長ら幹部職員が入れ替わり答弁に立って、議員側もそれで納得しているようだった。
 昨年から東京都議会のほか、神奈川県庁や横浜市議会、川崎市議会を傍聴してきているが、首長がこんなに楽なのは東京都議会だけであるのに驚いた。神奈川県庁などは代表質問であれ、一般質問であれ、回答のほとんどは知事がこなしており、都知事はいかに楽をしているかよくわかった。石原前知事が知事業の傍ら、いくつかの本の著述をこなし、さらには毎週テレビでの対談を行っていて、よくもそんな時間がとれるものだ、と感心していたが、そのからくりがよくわかった。石原都知事が都の職員をそう教育したのか、その前の青島幸男知事が何もしない都知事だったので、職員が自然とそういう風にしてしまったのか、実情はよくわからない。それに都の職員はそれだけ優秀なことも預かっているのかもしれない。
 猪瀬知事は総選挙の陰で漁夫の利を得たのと、石原旋風にうまく乗ったのが圧勝の原因で、いずれ化けの皮が剥がれるのではないか、と思っていたが、これでえはなかなかそうはいかないだろう、と思った。
 あと傍聴していて感じたのは神奈川県議会などでは、回答のあと、さらに議員が再質問して、議論をするのに東京都議会では質問して、回答する一方通行のやりとりだけで終始していたのが気になった。回答の半分以上は配下の官僚が作成した文書を読んでいるだけなのに、都知事や局長らの本音を引き出すのは容易なことではない、と思った。傍聴人に対してのアンケート用紙も配布されていなかったので、そんなことも書くこともできなかった。
 もうひとつ、答弁席を眺めていて、知事の後ろの席に警視総監の西村康彦氏が控えていて、たまに答弁に立っていたが、それを見て改めて警視庁は都の組織なのだ、と思ったことだった。テレビドラマなどでよく警視庁が登場するので、一般の人は警視庁だけはつい全国組織だ、と思いがちだが、単に東京都の警察組織であることは意外と誤解されている。ということは警視庁は都の命令のもとにあり、都議会議員と極めて近い位置にある、と考えるとなかなかに意味深でもある、とも思った。
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年金財政の破綻のつけを企業に押し付けたって回り回って政府に帰ってくるだけのこと

2013-02-27 | Weblog
 この4月から65歳までの雇用継続を企業に義務付ける「改正高齢者雇用安定法」が施行される。厚生年金の支給開始年齢が2025年に65歳まで段階的に引き上げられることに伴い、定年後に年金も賃金もない空白期間が生じないようにするためのもので、あわせて再雇用対象者を限定できる規定を廃止するととに対象者が雇用される企業の範囲をグループ企業まで拡大する仕組みも設けていいことにしている。アベノミクスのおかげで景気が上向きのムードは出てきたが、実態経済、および生活の実感へは届いていない現在、経済再生の担い手である企業だけに過大な負担を強いることになりはしないか、と懸念される。
 65歳までの雇用を確保するため、現行法は①定年制の廃止②定年の引き上げ③継続雇用制度の導入ーーのいずれかを企業に実施するように義務づけている。ただ、罰則はなく、労使協定で定めた基準で継続雇用する対象者を選別することができた。これが、4月からは希望者全員の雇用継続が義務化され、違反企業は新聞などに公表されることになる。
 3つの選択肢のうち定年の廃止は人事の停滞や過剰な雇用につながる恐れから、実施する企業はほとんどない。多くの企業が継続雇用制度か、65歳定年制の導入を決めており、その分による負担増は賃金体系の見直しや新規採用といった総人件費にはねかえらないことで吸収することで対応しよう、としている。さらに賃金体系を年俸制にして、前年の労働成果を評価したうえで次年度の報酬を決める成果報酬制度を導入することで総人件費の抑制を図ろうとする動きが出てくることとなろう。
 さらには希望者のみを雇用継続するといってもその資格を勤続30年以上の者に限定したり、上司との面談したうえでその可否を会社側が判断することなどをしてくるのは当然考えられることである。かつてのように終身雇用制が維持されていた時代なら、スムーズに65歳までの雇用継続が実施されたことだろうが、いまは会社を変わることが当たり前の時代となりつつあるので、企業の内部の制度も柔軟に変更されていくので、なし崩し的にしか65歳までの雇用継続は実施さらないことだろう。
 しかも企業を取り巻く環境は年々厳しくなっており、多くの企業は正直とても65歳まで雇用を継続できる経営状態にはない。今年の春闘ですらゼロ回答としたいというのが本音であり、そのうえに高齢者を引き続き雇用していかなければならないなどという余裕は出てこないことだろう。経済の実態とは別の観点から進んできている論理でたまたま65歳までの定年延長が押し付けられたのはいい迷惑だと思ってbいることだろう。企業も生き延びていこう、とする限り、あの手この手で可能な限りなんとか吸収しようとするがとても労働者側の期待に応えられるようなことにはならないことだろう。対応できない企業は倒産して、経営者のみならず従業員も悲惨な結末を迎えることともなりかねない。
 もとはといえば、国の年金財政が破綻しかねないことから、支給開始年齢を引き上げざるを得ない政府の無能から発したもので、そのつけが回り回って企業に押し付けられる、というわけで、いずれ政府に回り回って帰ってくることはみえみえのことでもある。さすがの安部首相もそこまでは気がついていないのか、手を付けられるには至っていないようである。
 いずれ、どこかでこの連鎖を断ち切ってほしいものだ。 
 
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ガガの震災復興コーヒーカップの美談の陰で気になること

2013-02-26 | Weblog
 先日、宮城県の女性が宮城県に米国の女性歌手、ガガが東日本大震災の直後に来日公演した際に、震災復興のためにと置いていったキスマーク入りのコーヒーカップを寄贈した、とのニュースが報道されていた。それによると、昨年のオークションで落札したのは寄贈した女性の兄ということで、どうしてその本人は登場していないのだろう、と思っていたら、その翌日に亡くなった、との報道があった。してみると、宮城県に寄贈したのはお兄さんの遺志ということになる。
 このカップはガガがたまたま来日公演したのが東日本大震災のタイミングと重なって、それにも拘わらず大勢のファンが歓迎してくれたのに感激したのだろう、日本人を元気づけることにでもなれば、と思って飲んでいたコーヒーカップにキスマークをつけ、マジックペンで「日本の為に祈りを」と日本語で書き加えた。そのコーヒーカップが昨年6月にネットオークションに出品されることになり、宮城県の歯科医、弓哲久さんが「震災の復興目的以外に使われてほしくない」として601万1000円で落札した。
 妹の張琴さんによると、弓さんは京都市出身で、山形県の総合病院に勤務後、6年円に大崎氏で開業し、震災直後から宮城県石巻市で遺体の身元確認のための検視作業にあたる一方、ぬいぐいるみを着るなどして子供たちを慰問するボランティア活動を行ってきたが、数年前から難病にかかり、この21日に「特発性肺線維症」で死亡した、という。妹さん以外の家族はいたのかどうかわからないが、近来まれにみる美談であり、弓さんお遺志を生かして、ガガのコーヒーカップが人々を元気づけるような形で宮城県の美術館の特設展示場にでも展示されてほしいものだ。
 それにしても弓さんが払った600万円余は一体、だれが手にしたのだろうか、ということが気になる。ガガが書いたコーヒーカップがどういう経過でオークションにかけた人の手にわたったのか、単なる好奇心からオークションにかけてみたのか、そのあたりをいつか解明してもらいたいものだ。まずガガ自身、それにガガのマネージャーは周辺にいた関係者にそれこそ捨てるような感じで、コーヒーカップを渡したことだろう。まさか、そのカップが大枚600万円、ドルにして7万ドルもの高値になろうなどとは考えもしなかったことだろう。 
 絵や骨董などの美術品なら、美術商やブローカーなどが介在して、それなりの評価がされて、公開のオークション会場で値決めがされるので、ある程度の値付けが決まるのだろうが、こうした評価のしにくい際物とあっては素人が適当なことをいうだけの評価しか生まれないので、だれの意見も妥当とは思われないことだろう。となると、やってみないことにはわからない、ということになる。
 おそらくこのコーヒーカップはネットオークションにかけられたことだろうが、いまごろは当の出品者が個人であれば、きっと得たお金について内心、ひやひやしているのではなかろうか。ひとつは不当にもうけ過ぎたのだはないか、ということ、もうひとつは課税当局に目をつけられているのではないか、ということで、おちおち寝てもいられないか、と推察する。
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治ったと思ってビールを飲んで普通に食べたのが仇となって元の木阿弥に

2013-02-25 | Weblog
 治ったと思ったら、意外な落とし穴があった。24日は次男の誕生会があったので、早く身体を治さないとという気があったのか、いつものように朝食を摂った。体温も平熱に戻ったし、すっかり治った積もりでいたら、昼にはほとんど食欲もなく、スープをちょっと食べた程度で、それで誕生日ケーキを買いに行ったり、他の用もしながら誕生会に臨んだ。夜になっても少しも食欲が湧いてこなくて、食べられるのかな、との不安もあった。
 で、開始予定の午後6時過ぎには主役の次男がやってきたので、出前のピザをとり、まず2人で乾杯をして、治ったと宣言した以上、ビールを飲もう、と飲みだしてしまった。ピザも頬張り、野菜やスープにも手を出して食べだすうちにメンバーもそろい、お祝いの宴も進んだ。が、当初の勢いはすっかり衰えて、箸も進まず、ビールもコップに残ったままとなっていった。全く、食欲がなくなってしまったのだ。治ったと思ったのが間違いだったのか、とも思い始めた。
 いつもなら好物のバースデーケーキに一口も出さず、もっぱら紅茶のみを呑んでいた。そのうちに元気もなくなってきて、早く終わらないのかな、と思いながら口数もすくなくなってしまった。どうやら、食中りが全然治っていなかったことに気がついたこともある。2日前の食中りの症状と全く同じ状態となってしまったのだ。午後11時過ぎにはみんな帰って、お開きとなったが、こちらはもはやダウン寸前の状態となってしまった。トイレに駆け込むと、前日の朝と同じ強烈な下痢となっていた。何度もそれを繰り返す始末で、すっかり元の木阿弥状態に戻ってしまったのだ。1日で回復するとは驚異的な回復ぶりと自信を持ったのが誤解だったことになる。食中りがそんなに簡単に治るわけがないのだ。
 自らの体力に過信したのが仇となった。治ったといってもまだ、安全運転をい続けなければいけなかったのに、ビールを飲んで普通に食事をするなどという無謀なことをしていては元に戻るのは当たり前だろう。ずっと以前にビールを飲む度に下痢を起こしていたことがあったことを思い出したが、そのことすら忘れていた。食中りで胃が弱っているのにビールを流し込んでは胃がびっくりしてストライキを起こすことなど自明のことである。何年生きてきても、同じような間違いを起こすのはんあんとも情けない。
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まさか裁判所の地下のコンビニで食中りするとは、だれも想像しないだろう

2013-02-24 | Weblog
 22日のことである。週に1回の裁判所へ行き、夕刻に家路についたが、退勤ラッシュに重なったせいか、永田町から次の急行に桜新町で抜けれることがわかっている各駅停車の電車に乗ったが、結局溝の口駅まで座れず、立ちっぱなしで来た。そのせいか、駅に降りると急に疲れが出てきて、家に着いて好物のケーキがだされたが、一個も食べられずに残してしまった。いつも食後でもケーキは「別腹」といってペロリと平らげていたのに、こんなことは初めてのことだ。風邪でもひいたのかな、とも思ったが、症状がちょっと違う。しばらく静かにしていて、夕食となったが、ほとんど食べられず、風呂も止めて、早々に寝ることにした。
 風呂に入ってないせいか、布団に入っても身体が暖まらずにやむな電気炬燵を入れてもらい、ようやく身体が暖まってきたが、なかなか全身まで暖まらずに寝ていても寝たような気がしなかった。お腹の上になにか厚いベルトを巻いたような圧迫感があった。頭に手をやると、少し熱っぽい気もしたので、体温を計ってみると、37.2度の熱があった。疲れか、風邪かわからないが、とにかく疲れをとるしかない、と横にはなったものの、一向に寝つかれない。
 そのまま朝になり、お腹の調子がよくなさそうなので、正露丸を服用したところ、しばらくしてトイレに行くと、水溶性の下痢となった。やはり、なにかに中ったのだ、と思ったら、今度は強烈な嘔吐感が襲ってきて、便器のなかに胃の中のものをほとんど吐き出してしまった。随分以前に食中りをしたことがあったが、その時は2、3日寝込んでから下痢となった。今回は症状が出るのが恐ろしく早いのと、嘔吐も併発しているのだからかなり強烈な食中りである。
 一体何を食べたのかを考えてみると、かみさんと同じ朝食と一緒に食べたケーキはかみさんが」なんともないのだから除外できる。となると、東京地裁の地下のコンビニでランチに食べた菓子パンが疑われる。クリームパンを2つ食べたが、あまり美味しくなかった。変な味がしたとは思わないが、どう考えてもそれしか考えられない。ヤマザキパンかメーカーの名前まで確認しなかったし、賞味期限のチェックもしなかった。凶悪犯人を裁く場である東京地裁のビルの地下にあるコンビニで売っているパンがまさか食中りの原因とはだれも考えないだろうが、事実そうとしか思えなかった。コンビニとしてはどこに立地していようが、他の店舗と同じように配達する、ということなのだろう。
 ともあれ、まずは食中りを治すしかないと、これはもう寝ているしかない、と再び横になって、体温を計ると37.6度まで上昇している。頭を冷やしてもなかなか体温が下がらない。翌日は1日休んでいて、ようやく夜のなって小康状態となり、症状も収まってきた。
 で、翌々日の朝になって、ようやく体温も平熱となって、事なきを得た。でも1日半は寝ていたことになる。このところ、後輩の通夜もあり、連日出かけて疲れがたまっていたこともあるのだろうが、やはり裁判所の地下のコンビニで購入した菓子パンに中ったのは間違いない。いままでランチによく菓子パンを食べていたが、これからは少なくともクリームパンを食べるのは怖くなってしまった。クリームパンに限らず、パンを買う時には賞味期限だけはチェックすることとしたい。
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左側の肩ばかりにカバンを下げていると左腰が痛くなる

2013-02-22 | Weblog
 21日朝起きたら、左の腰のあたりが重い。そういえば、前日の夜から寝ていて、なんとなく腰に軽い痛みがあるような感じがして、寝返りを打ってもちょっと引っ張られるような感触があった。今日は一日寝てた方がいいのかな、とも思ったが、却って軽く運動した方がいいのだろう、と思っていつものジョギングに出かけた。歩くようなジョギングなので、腰にはいい、左右にひねったり、叩いたりしてジョギングをしてきたが、それほど回復しなかった。
 毎年この時期には腎臓結石で、寒い朝にはまず腰が重くなり、お腹が痛くなる症状が出るのだが、この一年ずっとその商用は出ていない。以前にぎっくり腰になったことがるが、それほどの激痛ではない。なんだろう、と考えて、ふと最近出かけることが多く、その際に肩掛けカバンを持っていくと必ず左の肩からぶら下げていたことに思い当たった。いつかテレビで、カバンを一方の肩からばかりかけていると、なんらかの障害が出てくることがあるので、たまにはもう一方の肩からかけるとか、交互にかけるなどしてバランスをとった方がいい、とやっていた。身体の仕組みからして、左側だけで重いものをかついでいれば、左の腰に負担がかかって、痛みなり、なんらかの障害ふぁ出てくるのは明らかなことなのだろう。
 それをかみさんに伝えたら、日ごろヨガを習っているので、我が意を得たりとばかりに左の腕と右足を交差させ、次は右腕と左足を交差させる運動を教えてくれた。数回やってみたら、確かに若干よくなったような気がした。あとは寝転んで両足を抱え込んで伸ばしたりする運動も教えてくれて、これも数回やってみた。
 21日は横浜へ出かけたので、カバンを右側にかけることにした。カバンには水筒と本が数冊入っているので、手に持つと重く、これが片方の肩にばかりかかっていたら、確かにどこかに障害が出てくることだろう、と納得しながら、ずっと右側へ吊るしていた。痛いからといって、何もしないでいるよりは多少は軽く運動した方がいいのかもしれない。横浜の街を歩き回って、夕刻家に帰ってきたら、左腰の痛みはぐんと軽くなっていた。
 テレビで言っていた通り、代わる替わるカバンを左右かけることが効果的だったようだ。そのことをかみさんに伝えたら、「回復が早い」と驚いていた。
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さながら推理小説のような手に汗握る展開の映画「ゼロ・ダーク・サーティ」

2013-02-21 | Weblog
 20日は東京・渋谷で映画「ゼロ・ダーク・サーティ」を観賞した。レディスデーで、女性は1000円とかで、平日にもい拘わらずチケット購入の多くの人が列を成していたが、あと25分で上映開始の「ゼロ・ダーク・サーティ」は難なくチケットを購入することができた。急いでランチを摂り、席につくと結構な入りに驚いた。映画は2011年5月1日のオサマ・ビンラディン襲撃に至るまでの約10年間を、捜査の中心となった米CIAの女性捜査官の動きを追ったもので、さながら推理小説のような展開で、手に汗握る映画で面白かった。
 「ゼロ・ダーク・サーティ」は2001年9月11日の同時爆破テロの首謀者と見られるアルカイダのオサマ・ビンラディンを追う米CIAが一味と思われるイスラム人を拷問にかけ、なんとかオサマ・ビンラディンにつながる線を手繰り寄せようとしているところから始まる。男を縄にかけ、食事も与えず、裸でさらし、小さな箱に押し込め、これでもか、これでもか、と痛めつける。女性捜査官のマヤはその様子を後ろから見守るだけで、手は下さない。そしてアブ・アハメドというビンラディンの配下らしき男の名前を突き止めるが、数年してその男は死んでいることが判明する。
 手がかりを失ったか、と思った時にヨルダンから重要な情報がもたらされ、マヤの同僚の女性捜査官が勇躍ヨルダンに乗り込み、キーパーソンに接触を試みるが、罠で自動車でに乗りつけた男は自爆し、それに巻き込まれてCIAの捜査官7人が死亡する惨事を引き起こしてしまう。悲嘆にくれたマヤは自信を失いかけるが、部下の女性捜査官が7年前に発見していたある男がアブ・アハメドではないかと言って写真を持ってくる。その男は8人兄弟で、兄のハビーブが死んでいて、アブ・アハメドは生きていることがわかる。
 アブ・アハメドの電話番号を25万ドルを投じて入手し、母親にかけてき電話を盗聴して、アル・アハメドの所在を突き止める。さらに男を追跡するため、マヤは上司に「ラワルピンディとペシャワールにそええぞれ技術者4人をほしい。聞き入れなければワシントンに送還してくれ」と直訴する。
 で、ビンラディンが隠れていると思われる住居を突き止め、監視を始めるが、10日経っても、50日経ってもそれらしき証拠は何もつかめない。ブビンラディンらしき人物は一切外に出てこないし、電話をかけることもないので、確証がつかめない。CIAはマヤを呼んで長官主宰の会議を開くが、「主がビンラディンであるかどうか」との問いかけに男性たちは60~80%の確率しかにあ、と言うが、マヤだけは100%と言い切り驚かす。長官に名前を聞かれたマヤは「単なるワークハッカーだ」と言う。その後、食堂で長官と一緒になったマヤは長官からCIAでの職歴を聞かれ、「高卒で12年経つが、何の実績もない」と言い切る。
 で、あとは大団円のビンラディン家の襲撃で、空挺部隊が夜間、ステルスヘイコプターで、襲撃し、見事ビンラディンを殺戮する。映画はマヤが本人と確認したところで終わる。襲撃のところは思っていたような空爆で撃破するのではなく、人海戦術だったので、ややがっかりしたが、映画としては隠れ家を突き止めるまでがヤマといったところで、襲撃シーンはつけたりだったのだろう。
 当初映画の原題は「フォー・ゴッド・アンド・カントリー」だったが、その後「いまの「ゼロ・ダーク・サーティ」に変わった、という。ゼロ・ダーク・サーティとは襲撃の時刻が午前12時半ふだったので、その時刻
をいうのだ、という。 監督はキャスリン・ビグロー、主演もジェシカ・チャスティンといずれも女性。監督のキャスリン・ビグローはイラク戦争を扱った「ハート・ロッカー」で女性として初めてアカデミー監督賞を受賞した実績の持ち主で、こんなハードな戦争を取り上げる映画が女性の手でつくられるとは映画の4界も女性の時代の到来を告げている。思った。
 
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思わず「許せない」と言われて、TPOを考えて話題を選ぶべきだ、と深く反省した

2013-02-20 | Weblog
 19日は東京・青山の梅窓院で行われた前の会社の後輩のS君の通夜に行った。まだ48歳の若さで敗血症とかで亡くなったのだが、連絡をもらったら、喪主はS君の父親となっていた。我が子の葬儀の喪主と務める心中を思うと悲しみがどっと増してくる。S君は早稲田大学の理工学部を卒業して新卒で当社は入社したのだが、新人として鈍想愚感子の配下となった。同じ職場でなくなってしばらくしてから、たまたま京都へ家族と旅行した折に京都博物館へ行って、休憩室でばったりとS君と会い、わざわざ東京から美術展を観賞に来た、と聞いて驚いたことがあった。
 通夜は現役のまだ働き盛りの社員が亡くなったこともあって、会社の先輩、同僚はもちろん、取引先の関係者らが大勢詰めかけて、結構な人で賑わっていたのが、志半ばで旅立ったS君にとってなによりの供養となったことだろう。梅窓院のなかに入るのは初めてのことだったが、浄土宗のお寺なのにお経を詠む僧侶は日蓮宗と紹介されていたので、そんなこともありなのだ、と思った。お経の半ばで焼香が始まり、終わったら祭壇の横に立っている喪主と奥さんに挨拶し、そのまま退席するような流れだったので、精進落としとしてたまたま顔を合わせた後輩のD君を「そばでも」と誘って退出した。
 外苑前の近くに確か蕎麦屋の増田屋があるはずと歩き出したら、ビル全体が工事中で消滅していた。代わりに焼き鳥屋へ入って、まずビールジョッキを傾けた。D君とは年に1度くらいランチをともにして近況などを語ったりしていたが、こうして2人だけで夜に酒を飲みかわすのは初めてのことだった。お互いの知人の消息や人事の内容などを聞きながら、当然のように昨年かみさんとでかけた世界一周クルーズの話をしたところ、D君はすかさず「許せないな」と半ば冗談顔でつぶやいた。
 この半年、船を下りてから久しぶりに会う知人、友人には世界一周クル^ズの話をして、そのコース、内容、感じたことなどをざっと話したあとに「ぜひ、かみさんといつかでかけたらいい」と誘うのが常だった。なかには船から絵葉書を出している人にはすんなり聞いてもらえて、楽しい談笑の話題となってきた。だれもが「よかったですね」とこちらの話に相槌を打ってくれ、なかには「すごいですね」と感激してくれる人もいた。D君は気のおけない後輩なので、忌憚なく思った感想をつぶやいたのだろうが、そんな露骨な反発を示されたのは初めてのことで、ちょっと面食らった。
 世界一周クルーズの良さをアピールしようと思ったのに思わぬ反応に意をそがれて、紹介もほどほどにして、話題を変えたら、D君はこの3月で会社を辞めることにした、というではないか。いまの会社に見切りをつけて、同業他社に移ることにしした、という。先にその会社に移籍した先輩に誘われてその気になり、実は部下にも今日打ち明けたばかりで、そのほかの人にはまだ打ち明けていない、とも語った。この3月で50歳になるD君は人生で最大級の決断をしたばかりで、そんな彼から見たら、ゆっくりと人生を楽しんでいる暇はとてもないし、将来そんなことができるかとても考えられない心境なのだろう。それで、思わず「許せない」との感想が出たのも無理はない、と思った。で、とりあえず、新たな人生のスタートに再び乾杯することで、その場をとりつくった。
 そんな状態のD君の心境を知らずにうっかりと悠々自適の生活を語ったこちらも迂闊であった。話題はTPOを考えてしなければならない、と深く反省した一日であった。
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「かわいい孫のことを思えば眠たいなんて思わない」と聞いて頭をガツンと殴られた気がした

2013-02-19 | Weblog
 鈍想愚感子には4歳の女の子と2歳の男の子のかわいい孫がいる。といっても自慢話をしようというのではない。週に1回くらいのペースで会って、遊んでいるのだが、先日も親である長男が午後8時ころに電話をかけてきて、「母親が出かけてぐずっているので連れていく」と言ってきた。こんな遅い時間に来たことはなかったので、珍しいこともあるものだ、と思って待っていたら、2時間しても訪れる気配はない。電話を受け取ったかみさんによると、行かないかもしれない、と言っていたというので、それじゃもう寝ようかな、と思っていたところへやってきた。
 上の子はもう寝かかっていたが、家に入ると目を覚まし、早速、買ってもらったばかりの印刷機械のおもちゃを取り出し、遊び出した。カラーのシールを剥がしてプラスティックの板に挟んで、ローラーを回すと板の凹凸の模様が浮かび出る、というもので、見ると6歳以上のおもちゃとなっている。遊び方を教えてやってみせると、次から次へとシールをはずし、印刷するようにせっつく。下の子は買ってもらったプラスティックの剣を振り回したり、ぬいぐるみの犬を持ってきてじゃれたり、飽きるとお姉ちゃんの遊びを邪魔しに来たりする。
 こんな遅くに孫と遊んだことはないので、この孫は一体、何時になったら寝るのだろうか、と思いながら様子をうかがっていても目はランランと輝いていて、一向に寝る気配はない。
 翌日はこれといった予定もなかったので、何時に寝てもいいや、とは思ってはいたものの、翌々日には朝早くから人間ドックに行く予定だったので、それへの準備もしなくてはと思っていた。最近は午後10時ころには寝るようにしていたので、もう寝る時間はとっくに過ぎているのにとも思いながら孫の相手をしていた。で、そろそろ午前零時に近づいてきたので、「もう寝るよ」と言ってかみさんと孫をそのままに布団に入った。しかし、孫たちは相変わらず陽気に騒いでいた。
 それでもしばらくは遊んでいたが、親の長男が出かけてしまったことに気がついて、そのうちにぐずり出し、まず上の子が泣き出した。そうなると、下の子もぐずぐず言い出して、今度は2人とも泣き出してしまった。それでもかみさんは「パパはどこへ行ったんだろうね」とか言いながらなだめていた。その一部始終が耳に入ってきて、とても寝ていられる状況ではない。たまらず、起きて下の子を抱いてなだめたが、一旦泣き出したら、止まるものではない。どうしたらいいのか、途方に暮れて最後には孫を掘り出して、再び布団に入ってしまった。
 それでもかみさんは2人をなだめてなんとか泣き止ませよう、と必死になだめていた。そうこうしているうちに長男が迎えに来て、無事に2人を連れて帰っていってことは収まった。一時はどうなることか、と思った。  翌朝、家の中はきれいになっていて、かみさんはあれから散らかった家の中をきれいにして寝たようだった。起きてきたかみさんに「ご苦労さん、ご苦労さん」と言って頭をなでてやったら不満そうな顔をしてジロッと睨んできた。「よくもあんなに遅くまで面倒が見られるものだね」と言ったら、かみさんはケロッとして「あんなにかわいい孫を前にして、眠たいなんて思わない」と言った。
 それを聞いた途端、頭をガツンと殴られたような気がした。相手のことえ思えば、眠たい、疲れたなんてことは問題ではないのだ。これまで自分のことしか考えていなかったことが恥ずかしくなってきた。なるほど人を愛するということはこういうことなのだ、といまになってしみじみ教えられたような気がした。考えてみれば、自分の子どもすらこうした考えで育ててこなかったが、かみさんはこうしたスタンスでいたのだ、思うともっとかみさんに感謝しなければならない、と思った次第。
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いつか金正恩の仕掛け人の息の根を止める黒幕がいてほしい

2013-02-18 | Weblog
 17日夜のNHKニュースで、北朝鮮が先日の核実験の前日に新型ミサイルの燃焼実験なるものを平安北道鉄山の東倉里(トンチャンリ)で行っていた、と報じ、核ミサイルの発射にも踏み切る可能性がある、と伝えていた。なんでも17日は全指導者の金正日第一書記の生誕71周年にあたるとかで、ここ最近の北朝鮮の核実験をはじめとする一連の威嚇行動はこの記念日に合わせて、国民に偉大なる国家をアピールするためのものとされている。もちろん、いまの国家指導者、金正恩への心服、服従を促し、敵である米国を威嚇することをねらっている、ともしていた。
 画面では核関連施設を視察する金正恩が横に夫人を従えている姿が映っていて、一時妊娠が伝えられていたのにお腹がすっくりとしているので、無事に出産を終えたのではないか、とも報じていた。仮に、出産したのが本当であるならば、後継者誕生とのことはいままで一言も報道されておらず、北朝鮮当局の広報スタンスが狂っているとしか思えない。男子誕生であるならば、まず第一に国民に知らせ、国家全体で祝福することがなによりも大事なことではなかろうか。
 今回の核実験でも北朝鮮の国情から見て、核実験をするよりも国民の生活向上のために食料生産を増やすとか、経済振興のために国費を投じることが先だ、との声があった。国民が飢えているのに核実験をして世界にアピールするのはどう考えても狂っているとしか思えない。金正日生誕71周年にしてもいかに前国家主席とはいえ、死んだ人の誕生日をこんな半端な年で祝うのは狂っているとしか言いようがない。
 かねて金正恩の後ろでこうした国家行事を仕切っている人がいるとにらんできたが、ここへきていよいよそうした人の存在がはっきりとした。ことし1月に30歳になった金正恩氏の歩みを見ていて、いまの国際情勢を見て、とるべき方向なり、施策について的確な判断を下せるとはとても思えない。今回の核実験の時期について、最大の敵だる米国のオバマ大統領の再選にあたっての一般教書演説に時期に充てたことといい、原子力開発計画を承認することといい、とてもいまの金正恩氏がすべて采配を振るっているとは思い難いところがある。影でシナリオを描いている仕掛け人がいて、金正恩氏はその仕掛け人が仕掛けたレールに上に乗って、タクトを振っている仕草をしているだけに過ぎないことだろう。
 トム・クルーズなり、007の映画なら、単身北朝鮮に乗り込んでいって、その仕掛け人の正体を見破り、一瞬のうちに葬り去ってしまうのだろうが、現実はそうはいかない。ただ、いまは人口衛星の上から監視することもでき、かなりなまでのプライバシーまで覗けるよになっている、と聞いている。米CIAなどはすでに金正恩氏の動静の一部始終は掴んでいて、いつでも暗殺ができる状態にしていても不思議ではない。いまのところ、実害は出ていないので、ある限界までは好きなようにやらせていて、いつかの時点で暗殺なり、息の根を停める指令が発動できる時期をうかがっているのではなかろうか。そう考えると、それがいつなのか、興味深いところである。
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