母親が亡くなって34年ずっと遺品代わりに保管してきたのが、サマセット・モームの文庫本で、本箱の片隅に埃をかぶったままだった。昭和30年代の発行で、紙も黄ばんでいるうえ、活字も小さいので、読む気がしなかったのだ。それがどういうわけなのか、よくわからないが、突如読む気になり、20冊くらいあったのをすべて読み終えてしまった。20冊のなかに1冊、なぜかモーパッサンの短篇集があった。モームの本のほとんどは短篇集で、長編は「月と六ペンス」、「剃刀の刃(上下)」、「劇場」の4冊であった。
母は昔から本が好きだった。母は暇さえあれば本を読んでいて、いつも本箱の1段か、2段は母の本で占められていた。ノーマン・メイラーの「裸者と死者」や、レマルクの「西部戦線異常なし」などかあったのをよく覚えている。母から「本を読みなさい」と言われた記憶は一切ないが、母が本を読んでいる姿を見て、いつしか本に親しむようになったのは確かだ。
その母も52歳で亡くなった。で、葬式の時に遺品を整理して、なぜかモームの文庫本だけを残した。母からモームがいい、と聞いたわけではないが、たまたま揃っていたから遺品として取って置く気になったのか、よくわからない。ただ、高校三年生の夏休みに英語の先生から「なにか一冊、英語の原書を読破するよう」薦められ、モームの「人間の絆」を選んで、英和辞書を片手に読み切ったことがある。その時に母のアドバイスがあったのか、記憶にはないが、本箱にモームの本があったことと無縁ではない。その意味では母の影響がなかった、とはいえないだろう。
今回、モーム短篇集(第1~14集)はじめ諸作品を読んで、モームが大変な皮肉屋であることが改めて分かった。また、短篇集のタイトルにアシェンデンとあるのが主人公の探偵の名前であることが初めて分かった。大概は英国の植民地でのイギリス貴族のふとしたきっかけで落ちぶれてしまい、ある人は死に、ある人は最愛の奥さんに逃げられてしまう、などといった話をあの手この手で綴っている。ただ、長編となるとやや趣きが違う。たとえば、「月と六ペンス」は画家のゴーギャンをモデルにモームなりの芸術家の狂気を浮き彫りにしている。「剃刀の刃」は求道者の幸福とは何かを考えさせてくれた。丁度、「剃刀の刃」を読んでいる時にWOWOWで放映され、長編ビデオに収録して、途中まで見て止めてしまった。映画ではタイロン・パワー主演でイメージが固定されてしまう、と思ったからだ。
また、新聞の書評欄で誰かがモームのスペイン滞在記「ドン・フェルナンドの酒場で」を褒めていたので、早速、インターネット書店から取り寄せて読んだが、あまり感激しなかった。
モーム短篇集第8集の「この世の果て」の巻末の本の案内の欄にレニエの「燃え上がる青春」とモーパッサンの「死のごとく強し」に鉛筆で印がつけられているのが目についた。おそらく、母がそのうち買おう、と思って印をつけたのだろう。思わぬ所に亡き母の痕跡を見つけて、しばし胸にジンときた。長年の思いをやっとのことではたせ、いまはほっとしている。
母が何を考えてこれらの本を読んでいたのか、いずれ考え、追憶してみたい。
追記 一年を過ぎ、そろそろ61歳になるので、タイトルから還暦をとることにした。そして、元ジャーナリストとはいっても一次情報の入らないジャーナリストは陸に上がった河童、といった感じで、大した説得力もないことしか、書けないことがよくわかった。で、ジャーナリストの看板も下ろすことにした。代わりに「何にでも興味を持つ一介の市井人」とした。残念だが、一年やってみて実感したことだから仕方ない。これで、肩肘張らず、本当に気儘に書けることだろう。
母は昔から本が好きだった。母は暇さえあれば本を読んでいて、いつも本箱の1段か、2段は母の本で占められていた。ノーマン・メイラーの「裸者と死者」や、レマルクの「西部戦線異常なし」などかあったのをよく覚えている。母から「本を読みなさい」と言われた記憶は一切ないが、母が本を読んでいる姿を見て、いつしか本に親しむようになったのは確かだ。
その母も52歳で亡くなった。で、葬式の時に遺品を整理して、なぜかモームの文庫本だけを残した。母からモームがいい、と聞いたわけではないが、たまたま揃っていたから遺品として取って置く気になったのか、よくわからない。ただ、高校三年生の夏休みに英語の先生から「なにか一冊、英語の原書を読破するよう」薦められ、モームの「人間の絆」を選んで、英和辞書を片手に読み切ったことがある。その時に母のアドバイスがあったのか、記憶にはないが、本箱にモームの本があったことと無縁ではない。その意味では母の影響がなかった、とはいえないだろう。
今回、モーム短篇集(第1~14集)はじめ諸作品を読んで、モームが大変な皮肉屋であることが改めて分かった。また、短篇集のタイトルにアシェンデンとあるのが主人公の探偵の名前であることが初めて分かった。大概は英国の植民地でのイギリス貴族のふとしたきっかけで落ちぶれてしまい、ある人は死に、ある人は最愛の奥さんに逃げられてしまう、などといった話をあの手この手で綴っている。ただ、長編となるとやや趣きが違う。たとえば、「月と六ペンス」は画家のゴーギャンをモデルにモームなりの芸術家の狂気を浮き彫りにしている。「剃刀の刃」は求道者の幸福とは何かを考えさせてくれた。丁度、「剃刀の刃」を読んでいる時にWOWOWで放映され、長編ビデオに収録して、途中まで見て止めてしまった。映画ではタイロン・パワー主演でイメージが固定されてしまう、と思ったからだ。
また、新聞の書評欄で誰かがモームのスペイン滞在記「ドン・フェルナンドの酒場で」を褒めていたので、早速、インターネット書店から取り寄せて読んだが、あまり感激しなかった。
モーム短篇集第8集の「この世の果て」の巻末の本の案内の欄にレニエの「燃え上がる青春」とモーパッサンの「死のごとく強し」に鉛筆で印がつけられているのが目についた。おそらく、母がそのうち買おう、と思って印をつけたのだろう。思わぬ所に亡き母の痕跡を見つけて、しばし胸にジンときた。長年の思いをやっとのことではたせ、いまはほっとしている。
母が何を考えてこれらの本を読んでいたのか、いずれ考え、追憶してみたい。
追記 一年を過ぎ、そろそろ61歳になるので、タイトルから還暦をとることにした。そして、元ジャーナリストとはいっても一次情報の入らないジャーナリストは陸に上がった河童、といった感じで、大した説得力もないことしか、書けないことがよくわかった。で、ジャーナリストの看板も下ろすことにした。代わりに「何にでも興味を持つ一介の市井人」とした。残念だが、一年やってみて実感したことだから仕方ない。これで、肩肘張らず、本当に気儘に書けることだろう。