27日は東京地裁へ裁判の傍聴に出かけた。いつものように受付横の本日の裁判スケジュールを見ていると、午後1時半からオウム真理教の信者だった菊池直子の高裁での控訴審の判決があるとわかり、他に興味ありそうなものも」なかったので、傍聴券配布に並ぶことにした。午後1時締切の傍聴券には定員の2倍強の応募があり、難なく当たったので102号法廷に入ってみた。たまたま中央通路脇に座っていると、冒頭2分間の撮影があり、当日夜のニュースを見たら、頭の後ろの禿げ頭が写っていたが、だれも鈍想愚感子だとは思わないことだろう。
開始早々、大島隆明裁判長は意外にも「元判決を破棄し、被告を無罪とする」というもので、それを聞いた記者の多くは脱兎の如く法廷を後にして外へ飛び出して行った。法廷でもどっと溜息ともつかぬどよめきが走り、驚愕の波が広がっていった。裁判長は無罪とした理由を「被告は確かに爆弾の材料を運ぶという作業を行ったのは確かだが、それがサリンや爆弾など人に被害をもたらすためにに使われるものだと意識していたわけではない」とし、一審で井上嘉浩死刑囚が「被告に爆弾に使われることを説明した」と証言したことが有罪となった点について不合理なものときめつけた。
約1時間20分にわたる判決趣旨を聞いていて、オウム真理教のテロに対する恐怖は風化したとの感想を持った。翌日の各紙報道を見ていて裁判長は左翼思想の持ち主であるとの指摘があったほか、一審の裁判員裁判で裁判員を務めていた男性が「私たちの努力が覆され、無力感を覚える」とショックを隠し切れないコメントを発していたのが目立った。市民の感覚としてはあれだけの罪を犯したのに一転して無罪とは理解できないものがあるのは否定できないだろう。
確かに罪の意識のないことに加担していたというのは法的には正しい感覚なのだろうが、オウム真理教がそういったテロ集団組織だったことを全く意識しなかったということは通常の市民感覚からすれば、そぬした組織に属することは罪がある、と思うのは当然のことである。暴力団に加盟することはいまや反社会的行為とみなされ、一般人が暴力団と関わることは忌むべきことされている。
それに今回の無罪判決はこれまで菊池被告に対して指名手配犯として全国のポスターに貼り出され、逮捕されて第一審で5年の有罪判決を受けてきた一連の警察・検察の措置が間違っていた、というようなもので、釈然としない。それが裁判というものだといえばそうかもしれないが、法治国家というのはそいうものなのか、と考えさせられる問題を含んでいる。
あと、これまで一貫してオウム真理教を糾弾してきた評論家の江川紹子さんが今回の無罪判決を支持していたのが注目された。オウム真理教をテロ集団に導いた幹部と一信者とは違うということかもしれないが、どこまでを幹部とするのかという問題が残る。
もっとも検察は間違いなく最高裁へ上告することだろうし、最高裁は常識、および世論の動向を察知して有罪にすることだろう。ただ、菊池元被告はすえで3年間拘置所に服役しており、刑期をくらっても実質的にはすでに罪にふくしている、というこおtになり、いずれ釈放されることになる。