鈍想愚感

何にでも興味を持つ一介の市井人。40年間をサラリーマンとして過ごしてきた経験を元に身の回りの出来事を勝手気ままに切る

みんなの党の渡辺喜美代表よ、1億円もする熊手があるものか、そのセンスを疑いたい

2014-03-28 | Weblog
 みんなの党の渡辺喜美代表が化粧品会社ディーエイチシー(DHC)の吉田嘉明会長から8億円を借りていた問題で27日、会見に応じ、「選挙資金ではなくあくまでも個人的にかりたものだ」と釈明し、「猪瀬前東京都知事と違い、すべて銀行口座を通じて行っており、やましい点はない」と疑惑を全面否定した。が、8億円ものカネを一体何に使ったのかについての説明はほとんどなく、疑惑は晴れていない。渡辺代表は次期安倍内閣の改造で大臣に起用されるなどのうわさもあるでけに安倍政権にとっての影響は避けられないだろう。
 事の発端は2日前に発売となった週間新潮にDHCの吉田会長の手記が発表されたからで、丸1日経ってからの釈明会見だったわけで、日頃公務員制度改革や行政改革に熱心に取り組んできた渡辺代表から一体どんな説明があるか、とかけつけた報道陣に対して、通り一辺の説明に終始し、見事に期待外れに終わった。8億円の借金があることは認めたものの、すべて個人的な使用として借りたものだ、と言い張った。しかし、8億円ものカネをどう個人的に使うのか、だれしも疑問に思うのは避けられないところだろう。
 8億円ものカネの使い道について問われ、答えに窮したのか、渡辺代表は「酉の市で買う熊手のようなものに使った」と答えたが、数万円ならともかく億にものぼるカネを熊手に使うものなのか、代表のセンスを疑いたくなってくる。
 貸した吉田会長も個人的なカネとして8億円もの融資に応じたのか、そんなうそはすぐにばれるに決まっている。借りた時期も4年前の参院選前や2年前の衆院選だったことを思い合わせると、渡辺代表の言い逃れにすぎないことは一目瞭然である。
 渡辺代表は今回の件については党の倫理委員会にすべての調査を委ねるようなことを言っているが、ことはみんなの党だけでは終わらない。渡辺代表自身が国会の政治倫理審査会などしかるべきところに出向き、一国会議員としての説明責任を果たすことからまず始めるべきだろう。渡辺代表はこれまで終始、行政改革に取り組み清廉なイメージでみんなの党を立ち上げ、それなりの党に仕立ててきたのに、実はおカネにクリーンではないことは暴露したことになり、渡辺代表個人のみならずみんなの党にも致命的な打撃を与えようとしている。
 昨年末の特定秘密保護法案の審議過程において、渡辺代表は終盤に安倍首相と直談判して、法案の修正協議に入り、法案成立の後押しをし、それまで与党に対して反対の立場をとっていたのににわかに政権にすり寄るような姿勢を見せていた。だから一部では次期安倍内閣の改造では大臣になるとの声すら出ていた。こうした代表の姿勢に対して、みんなの党の設立時のスタンスからかけ離れているとして、結いの党が結成されたわけである。
冷静に考えて、自民党を割って出て、たった1人で新党、みんなの党を立ち上げ、わずか4年そこそこで野党のなかでもそれなりの位置を占めるにまで成長させた手腕は並み大抵のものではないことだろう。新党立ち上げにあたっては人には言えない苦労なり、時には法律すれすれのことすら行われたことは想像に難くない。DHCの吉田会長との間で取り交わされた他人には言えないような約束もあっただろうし、吉田氏から借りたおカネの使い道でも黒いようなものもあったかもしれない。
 渡辺代表として吉田氏がこんなに早く公表するとは思いもしなかったことだろうし、2人の間に一体何があって、こんな事態に至ったのかもわからない。先月、黒子の大学教授に作曲を依頼していたとして記者会見に応じた佐村河内守さんみたいにどこかで真相を明らかにすることも考えられるが、政治家としての死命がかっているだけにしばらく右往左往することになりそうだ。
 いずれにしろ、クリーンなイメージで売ってきた渡辺代表が実は並みの一政治家に過ぎなかったことは今回の事件は語っており、いかなる結果となろうとももはやみんなの党は崩壊に至るしかないことだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父親の17回忌は参会者わずか4人だけのひっそりとしたものとなり、時代の趨勢を感じさせられた

2014-03-26 | Weblog
 25日は父勲の17回忌で、いまや菩提寺となった神木本町の長尾寺から和尚さんに来てもらい、お経をあげてもらった。4年前の13回忌の時には故郷の名古屋からかみさんの母親や義兄を招いて、10数人もいて我が家としては盛大に執り行ったのと比べると、今回は3男夫婦とかみさんのあわせて4人だけのひっそりとした法事となり、妙にこじんまりとしたものとなってしまった。かみさんの母親も2年前に亡くなっており、肝心の母親がいないとなればその子たちも呼ばなくていいし、姉の声をかけたら認知症で遠出ができない、ということで、純然たる家族だけの葬式でいう密葬みたいな法事となった。家族のなかでも長男は家族で海外に行ってしまい、次男は日を間違えていて欠席となり、わずか4人での法事という思いもしなかったさびしいものとなった。
 そんな法事でも一応、正月明けからお寺に連絡して手配を進めてきた。遠路の名古屋からだれも来ないことが判明したため、今回は初めて命日の25日に行うこととした。これまでは命日の3月25日前の土日に設定していたので、いつもお彼岸にぶちあたり、お寺さんには申し訳ないきついスケジュールとなっていた。前回の13回忌の時には法事で初めてお墓ができあがったばかりなので、みんなでお墓にも参る計画を立てていたところ、和尚さんの車が渋滞にはまって大幅にスケジュールが狂ってしまい、結局お墓参りは断念した経緯があった。
 家族だけの気楽な法事となったことから、法事のあとの食事も近くの小料理屋へ飛び込みでいけばいい、ということにしたが、まさか長男に続いて次男までが欠席のいなるとは思いもしなかった。和尚さんにも声をかけようかな、と思い迷っていたが、やってきたのはいつもの和尚さんの息子さんんではなく、息子さんの同い年の徒弟さんだった。長尾寺とは20年前に母親の23回忌に曹洞宗のお寺ということで、まだ生きていた父親とともに飛び込みで経を頼んだことで知ったお寺だった。その父親が6年後に亡くなり、そういえば母親の23回忌の経を頼んだお寺があった、と思い出し、葬式を依頼したことから、そんおまま俄の菩提寺となったのである。それほどの縁でもないのに、4年前に和尚さんの跡継ぎの息子さんが修行していた鶴見・総持寺での法戦式の招待を受け、かみさんと一緒に得難い経験をしたこともあり、長尾寺の檀家とも位置付けられているのかな、とも思っている。それだけに今回の法事では和尚さんとそうした話でもdけいるのかな、と半ば期待していたのにこちらも見事裏切られてしまった。
 考えてみれば、名古屋でのことし初めのかみさんの母親の3回忌もほぼ家族だけのこじんまりとしたものとなってしまい、事務的に進められているような気がした。一族ではこうした慶弔時には中心的な存在でもあった母親がいなくなり、残ったのは子供たちだけで、自分たちのエゴがむき出しとなって、集まることすら叶わなくなってきたようで、昔ながらの盛大な法事は段々とさびれていくようである。少子化、核家族化が進むなかで、法事はますます簡素化されていくのではないか、と思い知らされた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「死の都」で最初から最後まで一言も発せずに登場し、退場した役者はそれでもオペラ歌手なのか

2014-03-22 | Weblog
 21日は東京・初台の新国立劇場でオペラ「死の都」を観賞した。予約したのはB席、3階のL7列の4、5番だったので、エレベーターで3階に行き指定されたL7列に座ったところ、どうも4階のような気がして改めると果たして4階だったので、1階降りて指定の席に座った。舞台に向かって左側で、舞台の左の壁が観にくいが、歌舞伎座の桟敷席のような感じで、舞台もオーケストラピットも眺めわたせてそれほど悪くはない席である。幕が上がると、オペラ歌手の声も快く耳に響き、いい気分にひたれた。上から眺める観客席はほぼ満員で、日本にオペラが根付いたような印象を受けた。
 「死の都」はチェコ出身のエーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト作の20世紀の新作オペラで、最愛の妻、マリーを亡くした主人公、パウルは妻が亡くなっても妻の写真や遺品を部屋中の飾ったままの生活を送っている。そこへ親友のフランクが慰めに訪れ、改めてパウルの異常ぶりを目のあたりにする。そんなフランクに妻とそっくりな女性を知り合いになった、と告げるが、フランクは生きた人を人形のように扱うのはよくない、と忠告する。が、パウルは聞き入れようとせずにマリエッタを自宅に招き、亡き妻のショールを掛け、亡き妻のリュートを与え、死者再現の夢を実現する。不気味に思ったマリエッタはそのまま立ち去り、仲間との舞台稽古に赴く。
 2幕で、パウルがマリエッタの家に行くと、そこに親友のフランクがいてマリエッタの家の鍵を持っていることを知り、奪い取る。そこへマリエッタの劇団仲間がやってきて、広場で馬鹿騒ぎとなる。マリエッタはいま稽古している舞台の演技をして、死んだ尼僧が生き返り、男を誘惑するシーンを演じると、堪らずパウルが加わってきて、いまだに愛しているのは死んだ妻だ、と叫ぶが、最後にはマリエッタの誘惑に負けてしまう。
 第3幕では再び、パウルの家。家の前を通り過ぎる「聖血行列」の行進を見ていたパウルは悔恨と呵責の念に捕われ、マリエッタに部屋から出ていくよう求めるが、マリエッタは聞き入れない。それどころか、マリエッタはパウルの亡き妻の金髪を手に取り、自分の髪の毛より劣るのをパウルに見せつける。これに怒ったパウルはマリエッタを絞め殺してしまい、我を失う。
 しばらくして目覚めたパウルに召使いがやってきて、「先ほどの女の方が……」と告げ、マリエッタが颯爽と現れ、忘れていった傘と薔薇の花を持って立ち去る。あっけにとられていると、フランクがやってきて、「旅に出る」と告げ、「一緒に行かないか」と誘う。パウルは頷いてそれに応じ、「ここで死者が甦ることはないだろう」と部屋を出たところで、幕となる。
 パウルがマリエッタを殺したのは幻想だったのか、パウルも死者の世界に入ってしまったのか、よくわからないままに幕となった。作者は死者に捕われることは決していいことはない、とでも言いたかったのだろうか、これもよくわからない。それと、今回のマリーのようにオペラで最初から最後まで一言も発せずに舞台に立ち続けた役者は初めてお目にかかった。これでもオペラ歌手なのだろうか、不思議な感じだった。日本の歌舞伎でも東海道四谷怪談でお岩のようなお化けが登場するのだから、オペラでも同じようなことがあっても不思議ではにないのかもしれない、と思った。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どこにでもあるような黒人奴隷の悲惨な映画だが、タイトルの「それでも夜は明ける」が良かった

2014-03-19 | Weblog
 18日は東京・渋谷の渋東タワーで米アカデミー作品賞受賞の映画「それでも夜は明ける」を観賞した。米南北戦争前の米国での一黒人の悲惨な生活を綴った物語で、実話に基づくものだ、という。米アカデミー賞では事前には大方の候補にも挙げられていなかったが、見事作品賞を受賞するに至った。黒人のスティーブ・マックウィーン監督の作品で、いかにも虐げられるマイノリティを描いたものが好きな米国人らしいもので、ブラッド・ピットが最後に主人公を窮地から救う白人役で出演していたのが意外だった。
 18世紀の半ば、米国ニューヨーク州サラトガでバイオリン奏者として妻と2人の子供と幸せな生活を送っていた黒人のソロモン・ノーサップのもとにある日、2人組の男がワシントンで演奏会に出てくれないか、との話を持ってくる。それに乗って、ワシントンに出かけ、演奏会も終えて3人で酒を飲んでいるうちにノーサップは正体不明となってしまう。翌日、気が付いたら、手足を鎖に縛られ、牢屋のようなところに転がされ、身動きとれない状態となっていた。2人に騙され、黒人として南部へ売られていく身となってしまったことが判明する。同時に同じような身の上となった仲間の黒人とともに車に乗せられ、南部に連れていかれ、農場主に1000ドルで売られ、しかもプレートと仮の名前のもとに奴隷として働かせられることとなってしまった。
 実はノーサップという自由黒人なのだ、という弁明の機会も与えられないまま、奴隷として農作業に従事させられることとなる。ただ、ノーサップはバイオリンが弾けるうえ、人としての判断能力もあることから農場主から目をかけられることとなるが、そのことを快く思わない使用人から恨まれ、死にそうな仕打ちを受け、結局、他の農場主に売られていく。新しい農場でも同じような目に遭い、黒人奴隷としての悲惨な生活を強いられる。そうした生活が12年も続いた果てに白人で同じような作業に従事している人とめぐり逢い、自由黒人であることを打ち明け、故郷へ連絡してもらうこととなる。
 そして、ある日、保安官が農場に訪れてきて、本名と家族状況を聞かれ、自由黒人であることを証明され、晴れて故郷の家族のもとに帰れることとなる。長い旅路の果てに家族のもとに帰って、再会を果たし、新たに夫と孫を得た娘と妻たちと抱き合い、幸せな生活に戻れたところで、幕となり、題名通りの「夜は明ける」となる。
 南北戦争前に米国北部に自由黒人なるものが存在したことすらも知らない人にとってはこの映画のリアリティはピンとこないところがあるし、実際にはもっと悲惨な黒人奴隷の生活があったのだろうが、実話に基づくところがこの映画のポイントなのだろう。
 原この映画の題は「12 Years a Slave」で単に「奴隷としての12年」に過ぎないが、日本流に「それでも夜は明ける」と希望を持たせたタイトルにしたことが受けるのかもしれない。
 この日は午前中に用があって、上映開始ギリギリに映画館に飛び込み、売店でホットドッグと紅茶を買っていたら、名前を呼ばれたので、振り返ると昨年秋に亡くなったばかりの後輩の奥さんと意外なところで、遭遇するという奇遇もあった。その意味でも鈍想愚感子にとって忘れられない映画となった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

異常な小保方晴子さんバッシングの報道ぶりに日本のマスコミの定見のなさを見た

2014-03-17 | Weblog
 つい1カ月前に世紀の発見ともてはやされた理研の小保方晴子さんに対する報道がやかましい。やれ、STAP細胞はまやかしであるから始まって小保方さんの博士論文にまでさかのぼって非難する声が相次いでいる。当の小保方さんは行方をくらまして、所在がわからないほど困惑している様子である。当初はまるでノーベル賞を取ったかのようなもて囃子ぶりだったのが、いまは手の平を返したようなバッシングぶりで、よくみられる過剰なマスコミ報道といえばそれまでだが、極端から極端に走る日本のマスコミの体質をいみせつけてくれた。定見のないマスコミにはありがちなことだが、いい加減に反省してもらいたいものだ。
 もともとSTAP細胞とはiPS細胞では作ることができない胎盤を含むすべての細胞に分化できるとされる刺激惹起性多能性獲得細胞のことで、英語でStimulus Triggered Acquisition of Pluripotenncy cellsといい、頭文字をとってSTAP細胞と言われる。世界で初めて小保方晴子さんがその作成に成功した、と発表したのは1月下旬のことだった。英国の雑誌、ネイチャー誌にその論文が掲載されたことから世界一斉に快挙として報道された。もちろん、小保方さん一人の業績ではなく、理研の研究者や小保方さんの恩師である山梨大の若山照彦教授らも実験に参画していて、共同研究の形で発表された。
 ただ、当初の報道では小保方さんがSTAP細胞研究のリーダーであったことと、科学者としては極めて若い30歳の女性であることも手伝って、もっぱら小保方さんに脚光が当たった。小保方さんが日頃、研究者には珍しい割烹着を着て研究している姿が画面に登場し、小さいころからの生い立ちも含めてまるでノーベル賞を取ったような大騒ぎの報道となった。
 それが、日を追うにつれ、STAP細胞の作成に成功したというのはまやかしである、との報道が徐々に出始め、遂にはねつ造である、との非難まで出るに至り、理研としても理事長自ら記者会見に応じ、「STAP細胞の論文を取り下げる」と発表することにまで及んでしまった。STAP細胞の作成に成功したとの発表が真実であったのかは今後の究明に待つしかないが、事態が小保方さんの博士論文の取り下げにまで及ぶのは行き過ぎの感がしなくもない。
 もともと小保方さんの論文を掲載した英国のネイチャー誌が掲載にあたってそれなりの評価をしたはずである。ネイチャー誌が掲載にあたっていかなる掲載基準を持っているのか、また審査をいかにしているのか詳細はわからないが、それなりの権威筋が加わってのことであることは間違いないことだろう。だからこそ、永年にわたって、ネイチャー誌に掲載されることが科学の世界で即認められたこととして通ってきた。だからこそ、日本のマスコミも英ネイチャー誌が掲載したことをもって、STAP細胞作成のお墨付きを与えたものと見られる。
 今回の小保方さんバッシングにあたって日本のマスコミは英ネイチャー誌には取材しているふしは見られず、単に日本サイドの学会はじめ周辺の反応をもとに一斉にバッシングに走っている。1月末にこぞって科学の世界に”新星の女神現わる”と報道したその反動からバッシングに走っているように思えてならない。仮にSTAP細胞発見が本物だったら、この過熱報道をいかに反省してくれるのだろうか。
 英ネイチャー誌は論文の掲載については撤回の意向は伝えられていない。もうひとりSTAP細胞論文の共著者の米ハーバード大のチャールズ・バカンティ教授は論文の撤回に同意していない、と伝えられており、今回のSTAP細胞作成の成功について最終的な決着はついていない、ともいえないだろうか。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台湾で実施されている消費税の宝くじ方式でも還元は日本でも導入すべきだ

2014-03-13 | Weblog
 この9日から12日まで3泊4日の日程で、大学時代の友人4人とともに台湾一周の旅行に行ってきた。台湾は日本の九州と同じくらいの大きさであるが、発展している西海岸に比べ東側は開発されていないため、台北から東周りで高雄までは列車の旅で、高雄から台北まではバスで回った。それで九扮、花蓮、太魯閣峡谷、日月潭など主要な観光地をめぐるのだから、連日朝早くから夜までのかなりの強行軍の旅となった。出かけるまでは前に下痢で体調を壊したうえ、腰の具合いもよくないまま参加したので、おっかなびっくりの状態での旅となった。それでも節制にこれ勤めたので、なんとかすべての行程を楽しみ、意外な台湾の魅力を発見する思い出深い旅となった。
 台湾はビジネスで10回近く訪問しているが、いずれも1泊2日か、2泊3日の慌ただしい旅行で、観光はちょっと時間をできた隙にせいぜい故宮博物院を訪れたくらいで、台北市内の観光施設もほとんど訪れたことがなかった。それも最後の台湾旅行はもう14年も前のことで、14年ぶりに訪れた台湾は台北市内の佇まいこそ変わらなかったが、当時は気が付かなかった地下鉄が完備されていることといい、台北のダウンタウンに隣接して松山空港が出来たこと、それに世界一を競う高層の101ビルが完成しているなど様相が一変していた。行った際に訪れていた華西街の高級さレストランが無くなっていたことはショックだったが、新たに士林の夜店街ができていて台湾のパワーを見せつけられた。そこに集い、活発に行き来すいる若者をもていて、あとで台湾が日本以上に少子化に悩んでいる、と聞いてとはとても信じられなかった。
 もうひとつ驚いたのは前に訪れた際には閑散としていた故宮博物院はウイークデーの早朝8時半から大勢の人が来ていて、入口前で列を成していたことだった。故宮博物院は60万点の美術品を所蔵していて、そのうち2万点を展示している、と言われ、以前に訪れた際には説明員もなく、勝手に見て回ったため、どこに何があるかも頓着せずに中国の歴史の重みを感じただけだった。今回はたまたま、ガイドがついて「翠玉白菜」や「象牙透彫雲龍文套球」など国宝級の美術品を詳しく説明してくれたので、なるほどと感激することができた。故宮博物院へ来る観光客が多いのは中国から台湾への観光客が増えているためといわれ、ており、朝のラッシュ並みの混雑に驚かされた。
 台湾の人々は日本に対する友好的な態度で好感が持て、何回訪れても親しみが湧く。今回もその感想は変わらなかった。あと、今回、台湾を旅していて感じたことで特記したいのは高速道路で料金徴収所がなく、聞いたらすべての通行車両をカメラで補足して、ナンバープレートを読み取ってあとで料金を請求するシステムをとっている、という。つい2カ月前からそうした方法に切り替えた、という。それで、料金徴収所はすべて取り払われた、という。日本もぜひそうしたシステムを取り入れるべきだろう。
 もうひとつ、台湾の商店で買い物をすると、レシートをくれるが、そこに英語2文字に続く8ケタの番号が印字されていて、2カ月に1回そのレシートに対して宝くじ抽選が行われ、最高200万元(日本円で約700万円)が当たる仕組みとなっている。消費税を還元するため、とされ、商店の納税を促進するものともなっている。レシートを印字する用紙の供給システムがどうなっているか詳細はわからないが、日本でもやろうと思えば簡単にできることだろう。4月から消費税が3%アップとなるが、この機会にでもこうした仕組みを入れて、少しでも還元することを考えてほしいものだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寒さと体調のせいでか、食べたものをすぐに吐き出してしまった

2014-03-07 | Weblog
 6日はかみさんが友人とコンサートに出かけたため、夕食を1人で摂ることとなり、そうした場合いつもするように午後6時半過ぎに溝の口駅前の「餃子の王将」店へ出かけた。ひところの賑わいはなくなっているが、それでも数人待ちの状態で、しばらくすると2人掛けの席に案内された。いつものように天津飯と餃子を注文して、待つうちにふと隣を見ると小皿料理のようないくつもの皿が並んでいる。新製品かと思ってメニューを見ると、通常の半額の値段で手頃に中華料理が味わえるような趣向となっている。今度来たら、そうしようかなと思っていると、料理が来たので早速食べた。お腹いっぱいで満腹になったところで、店をあとにした。
 ところが、家に帰ってしばらくすると、なにかお腹の調子が芳しくない。厠に入ると、下痢を起こしているような感じで、2回ばかり厠に入った。暖房をつけ、お風呂に入って暖まったものの、相変わらずお腹の調子がよくならない。念のため、太田胃酸を呑んで、さらに百草を呑んで、寝たところ、百草が食道に詰まったような感じがして、お腹がゴロゴロとして、しばらくとても寝付けない状態が続いた。たまらず、再度、厠に飛び込んだところ、一向に改善しない。厠でウンウンうなっているところへ、かみさんが帰ってきて、「どうしたの」と尋ねるので、「下痢になった」と回答した。
 厠を出て居間でお腹のあたりをさすってみるものの、なんともならない。しばらくリビングをのた打ち回って、「こんな状態になったのは珍しいことだ」と思っていたら、急に吐き気を催してきた。即、厠へ行くと、さっき食べたものをほとんど吐き出してしまった。2、3回吐いたあとで、天津飯のたれのような赤いものが余韻のような形で出てきた。ケチャップに何か異物でも混入していたのだろうか、とも思わせた。
 それで、一応すっきりはしてケリはついた。これまで何回も食中毒になっているが、食べてからこんなに早く全部吐き出してしまうのは初めてのことだ。いつもはまず熱が出て、風邪かなと思わせていて、1、2日してから下痢となって食中毒だったことが判明するケースが多い。それに比べると、今回は食べてからすぐに吐いていて、よほど毒性が強かったのか、それとも寒さもあって胃が収縮していて受け付けなかったのも作用しているのかもしれない。
 ピロリ菌か、なにか悪い細菌が食材に紛れ込んでいたのか、真相がわからないが、明らかに餃子の王将で食べた天津飯と餃子に中ったのは間違いない。「餃子の王将」溝の口店は神奈川県下では一番売り上げの多い店とかで、これまで何回も訪れている数少ない贔屓のお店である。6日の夜に同じように「餃子の王将」店を訪れ、天津飯と餃子を食べた他のお客がどうしたのか心配ではあるが、ひょっとしたらたまたま鈍想愚感子だけが被害にあったのかもしれない。寒さと体調の加減で、運悪く被害にあっただけかもしれない。ただ、当方としてはしばらく、餃子の王将から足が遠のくのは仕方のないことだろう。
 
追記 後で考えてみて、どうも天津飯の具である卵に中ったのだ、と思い当たった。これまで外で食べた卵に中って下痢、もしくはお腹を壊したことが再三あったことを思い出したからだ。一度はラーメン店で食べた茹で卵にあたったし、一度は露店商の売っていたものを食べてお腹を壊したし、一度などはクリームパンに中ったこおtがある。いずれも卵で、たまたま質の悪い卵だったのだろう、たまたまぶちあたったのが運が悪かったとしかいいようがない。鶏の卵は大好きで、好んで食べるので、丁度調子の悪い時に出来のよくない卵に中った、ということなのだろう。家庭で食べる卵は品質のいいものを選べるが、外で食べる卵はそういう選択が効かない。今後はお店を選んで、卵を食するようにするしかないだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする