鈍想愚感

何にでも興味を持つ一介の市井人。40年間をサラリーマンとして過ごしてきた経験を元に身の回りの出来事を勝手気ままに切る

まだ生存中なのに大きな胸像が地元の秋田県湯沢市に飾られた菅前首相はもう終わった印象を持った

2023-05-28 | Weblog

 27日夜、テレビのニュースを見ていたら、自民党と公明党の次期衆院選の選挙協力について、公明党が新たに設けられる東京28区の選挙区で新たな候補者を立てたいと申し入れたのに対し、自民党が認めなかったのに対し、公明党は東京全区で自民党との選挙協力をしない、と伝えたニュースを報じていたのに、菅前首相が登場した。何かコメントでも言うのかと思っていたら、なんと出身地の秋田県湯沢市に自身の胸像が建立されるお披露目に現地を訪れているのを報じていた。まだ存命中なのに現職政治家の胸像が披露されるなんてあまり聞いたでことがなかったので驚いた。

 翌朝のネット情報によると、菅前首相の胸像は業績をたたえ、後進の育成につなげるため建立したもので、高さ実際の本人の1.5倍の高さ2メートルにも及ぶ大きさで、建設費のうち2100万円は地元中心にを募金で集められた、という。テレビに映る菅衆院議員は満面に笑みを浮かべ、満更でもない表情であった。ニュースの本題とは違う形で、胸像の存在が明らかとなってしまったわけで、一般にこうした申し入れがあった際には生存中なのでとか言って、遠慮するのが普通だと思われるが、断われる状況になかったのか実情のほどはよくわからない。 

 菅首相は首相在任中も含め、自民党と公明党の連立については積極的な立場を取ってきており、公明党とのパイプ役を務めてもきた。それだけに今回の自公離反の動きについてはあってはならないことだと思っていることだろう、として、コメントを求められたものと見られる。ニュース内ではそうしたコメントをしたように聞き取れたが、胸像の存在が大きく報じられることとなって、あまり印象に残らなかった。

 自民党内では次期衆院選に対する思惑がそれ以外にも毎日のように報じられていて、一説には菅前首相は体調を崩しているとも報じられていた。そんなこととも知らずか、菅首相はテレビ画面に満面の笑みを漏らしていた。まあ、いまの政局とは関係がない存在になってきていることを如実に物語っているようにも映っていたのは事実である。

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コロナウイルスの怖さを再確認させてくれたコロナウイルス濃厚接触者疑いの電話連絡だった

2023-05-24 | Weblog

 23日、熱海へ行った帰りに小田原でランチを摂っていたら、会社の先輩のTさんから携帯に電話が入った。出てみると、なんと5日前に東京・大手町のパレスホテルで開かれた社友会のパーティに出て、その後に上の喫茶店で一緒にコーヒーを呑んだTさんの友人のMさんがコロナウイルスに感染した、との報告だった。そのパーティには珍しくマスクをしていくのを忘れてしまい、マスクなしで会場内を徘徊し、Tさん、それにMさん、さらに私の友人H氏を合わせて4人、膝を交えて喫茶店で1時間以上、親しくお話したのだった。

 つまり、コロナウイルス感染者との濃厚接触者というわけで、いまは5日間は要警戒ということで当局の重要監視体制下に置かれる、ということである。もちろん、コロナウイルスは下火にあり、いまはさほど警戒状態下にはないけれど、一応は感染を疑われても仕方がない。喫茶店で親しく話していた3人が濃厚接触者として、感染を疑われることとなる。携帯電話にはH氏からも確認のための着信があり、折り返し電話をした。

 コロナウイルス感染が盛んな時だったら、一大事だったことだろうが、幸い今は感染が収まりつつあるので、重大事態にはならなかったが、こんなことは初めてのことで、驚いた。いまのところ、熱も出ていないし、身体も特にだるいとか、異変もないので、接触してから丁度5日目を迎えたところで、このまま推移すれば、そんなことがあった、との笑い話で終えることとなることだろう。

 ただ、この3年半、コロナウイルスが世界を席巻していたなか、幸い我が家にはコロナウイルスが侵入してきた兆しは全くなかった。離れて住んでいる子や孫たちはほとんどコロナウイルスに感染し、なかには2回も感染した者もいたなかで、我々70歳を超える夫婦は1回も感染はおろか、濃厚接触者にもなったことがなかった。2人とも過去5回のコロナウイルスのワクチンを接種しており、本当に幸運でもあった。それが、コロナウイルスの波がほぼ過ぎ去ったいまになって、濃厚接触者の疑いがかかるとは思いもしなかった。

 今後数年して再びコロナウイルスが流行することはるかもしれないが、その時に十分に注意しなさい、という警告で今回のようなことが起きたのかもしれない。感染したMさんは奥さんを介護しているいわゆる老々介護者で、その奥さんが感染したら大変だな、との心配もされるが、改めてコロナウイルスの怖さを再確認させてくれたものと思うしかないようだ。

 

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「さんま御殿」を最初から最後まで見てしまった裏に太田光代の「夫と別れたい」との爆弾発言があった

2023-05-17 | Weblog

 17日朝、いつものように前夜録画していた日本テレビの「踊る さんま御殿!」を見た。この番組はいつも録画して見ており、最近は出演メンバーを見て、さっと早送りして短時間で見てしまうことになっていたが、今日はネットで出演していた爆笑問題の太田光の妻である太田光代が「もう夫と別れたい」と爆弾宣言をしたと出ていたので、どんなやりとりでそうした発言となったのか、見てみようということとなったわけであった。

 この日の「さんま御殿」は「有名人夫を転がす妻たち」と題して、太田光代はじめ板野友美、山口もえなど漫才師、プロ野球選手、マラソン選手らの妻12人が登場し、夫の行状をあれこれお笑いのネタとして話すもので、後ろに座った太田光代は司会の明石家さんまが遠慮してか、なかなか指名されず、ずっと残りの妻たちが夫のあれこれを指摘し、それぞれ不満をぶつける場面を繰り広げ、それなりの笑いを誘っていた。

 そして最後の「おススメしたい夫の管理術」の場面で、最後の最後になってさんまが太田光代に話をふると、なんと太田光代は「最近、夫はオネショしたんですよ」と話したうえ、さらにさんまが迫ると「もう別れたいんです」と宣った。太田光代は現在58歳で、最近占い師に占ってもらったら、「61歳になったら、新たな出会いがあるといわれ、もうその気になっているんです」と語った。夫とは結婚してもう33年経つが、この間、海外旅行はじめどこにも連れてってもらっていない。思い出が一切ない」とも語った。だから新しい人と新たな生活をしてみたい、という。

 「さんま御殿」はこれまでずっと見てきているが、今回は珍しく最初から最後までずっと見てしまった。太田光代さんの爆弾宣言がいつ、どこでそいう質問で引き出されたのか、と思って、見てしまったのだが、まさか最後まで引っ張られるとは思いもしなかった。それだけ、太田光代の存在感が重かった、ということなのだろう。ずっとこの発言をするまで、さんまはほとんど太田光代に発言の機会を与えなかった。それが他の出演者にも伝わったのか、どことなく緊張感の漂った1時間であった。

 果たして、太田光、光代夫妻は別れてしまうのだろうか、注目を集めるための演技ともみられなくもないが、大きな波紋を投げかけることになることは間違いないことだろう。太田光代はこの発言をした時に前に座っていた爆笑問題の相方である田中裕二の妻である山口もえに対して「あなたたちも5年持たないから」と微妙な言葉を投げかけていたこともあれっと思わせた。

 いずれにしろ、最近「さんま御殿」をずっと最初から最後までみてしまったのはまぎれもない事実で、太田光代がもたらしたものであり、いかに彼女の存在が大きなものであったかを物語っている。ただ、爆笑問題は単に人気のある漫才師に過ぎず、その一挙手一投足がどこまで世の注目を集めるのか、となるとやや疑問のところも十分にある。 

 

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被告側の証人に社長が登場し、証言が終わった後も部下の証言を黙って傍聴していたのに驚いた。肝心な裁判の行方も被告側の勝利に終わる見通しだ。

2023-05-10 | Weblog

 10日は2週間ぶりに東京・霞が関の東京地裁へ裁判の傍聴に出かけた。午後1時10分から612号法廷でのサザビーズジャパンの女性社員が会社から解雇されたのを不満に思い、地位確認を請求した民事裁判を傍聴した。実は2週間前にこの裁判の前半の被告側の証人尋問を傍聴し、肝心の原告に対する証人尋問が行われず、片手落ちの感のまま家路に就いた裁判で、たまたま行ったら、聞きたいと思っていた裁判にぶち当たったもので、映画でいえば前編から後編までようやく見終わって、完結した感じとなった。

 前回は被告のサザビーズジャパンが石坂泰章社長自らが証言席に立ち、原告の入社の経緯から解雇に至るまでの原告とのやりとりを証言したのに続き、原告の上司2人が原告の仕事ぶりについて、いかに原告がお粗末な仕事ぶりだったかを実例をあげて証言していった。それによると、原告は上司が仕事を指示しても「いつまでやるのか」とか、「なぜそうするのか」と聞いてきて、スムーズに仕事を行わないし、周りの人とのコミュニケーションを図ろうとしない、などが明らかとされた。

 このため、サザビーズジャパンは石坂社長はじめ上司が数回にわたり原告と面談を行い、業務の改善を図るよう試みたが、原告はあまり改善を図ろうとせずに効果をもたらさなかった。そこで、被告側は数回にわたり、警告書を発行し、原告にその旨を迫ったが、それでも前進は見られなかった。そこで、被告側は2020年12月に原告に対し退職勧奨に踏み切ったが、応じなかったので、最終的には解雇に踏み切った。

 この間、原告との様々なやり取り、および原告の仕事ぶりについて原告の上司にあたる証人が相次いで登場し、いかに原告の仕事ぶりが解雇に値するものなのかを実際の仕事ぶりを通じてのパフォーマンスの数々を証言した。この間、石坂社長はずっと傍聴席に座って、その内容を聞いていた。この種の裁判で企業のトップが証言し、自らの証言が終わった後も傍聴席で関係した部下が証言する内容をじっと聞いているようなシーンを見たことがなく、正直驚いた。

 で、10日は前回残された原告の証人尋問が行われた。その内容は前回行われた被告側の証言をひっくり返すような内容にはほど遠く、退職勧奨については「そうした処置を受けるようなことはしていない」し、「同僚とのコミュニケーションがとれてない、とは思わない」と被告側の証人が指摘するようなことについては一切反対する意見を述べるにとどまった。これでは原告の訴えは却下される見通しが強い、との印象を持った。裁判は引き続き、原告、被告双方の主張を聞いたうえで結審となる見込みで、あと数ケ月かかる見通しだが、判決の行方は被告側に有利なものとなるのは避けられないだろう。

 

 

 

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能登群発地震の発生に直面して、考えたこと。国なり、地方公共団体で「備え」に必要な知識、装備の提供、体制の構築を急いでほしい

2023-05-07 | Weblog

 5日、石川県能登地方に最大6強の地震が発生し、翌6日までに最大震度1以上の地震を56回観測した。テレビでその報道を見ていたら、京大防災研究所の西村卓也教授が「地下15キロのところで水(液体)が噴出し、活断層を刺激したことにより起きた地震で、今後さらに継続して地震が起き、さらに大きい地震が起きる可能性がある」といままであまり聞いたことがない解説をしていた。従来、地震は地下断層の滑落によって生じるものというのが常識だったのでで、地震に対する認識を大きく変えることとなった。

 そういえばこうした群発地震は以前にも長野県で起きたような記憶があったのだが、地名まで想起するに至らなかった。そう思っていたら、7日朝のTBSのサンデーモーニングを見ていたら、冒頭にこの能登の群発地震を取り上げ、司会の関口宏がメインコメンテーターの寺島実郎多摩大学長を飛ばして、隣に座っていた元村有希子毎日新聞論節説委員にコメントを求め、元村氏はまず半世紀以上前に長野県松代市で同種の群発地震が起きたことを指摘し、「液体が断層の隙間に入り込んだことによるものだ」と語った。

 松代地震は1965年8月3日に起きた地震で、当初は原因不明とされていたが、その後、地震予知を含めて学会の専門家の間で研究が進んで、地下の溶岩の上昇で熱せられた岩が膨張し、発生したことが原因であることがわかった、という。松代群発地震はその後も1970年6月まで6万回にもわたり発生し、なかには1日当たり有震回数は585回のも達した日もあった、という。なかにはマグニチュード6.4のも達するものもあったが、幸い死者が出ることはなく、具体的な被害は負傷者15人にとどまった。

 ただ、松代地震はそれまでにない地震だったこともあって、学会はじめ気象関係者の間で大きな注目を集め、我が国の地震予知の在り方に大きな影響を及ぼし、いまある地震予知研究所はじめ地震に関する研究機関、体制が作られることにつながった。その意味では松代地震は画期的な体制つくりにも大きな前進をもたらすこととなった。しかし、それはどちらかといえば、国なり、地方公共団体の地震に対する取り組みだけで、肝心の地震予知なり、地震対策については依然として旧態のままにとどまったのも事実である。

 事実、今回判明した液体が断層に入り込んで地震を起こす現象についてはその後、少しも解明が進んでいないことが今回改めて明らかとなった。いまだに南海トラフ地震のような大地震については多くの人が知ってはいるが、松代地震のことはほとんどの人が忘れかけているし、覚えてもいない人がほとんどだろう。今回の能登群発地震はことし1月から震度1以上の地震が300回以上も起きていた、という。なのに今回震度6強の地震が起きて、初めて知った人ばかりである。

 地震大国である日本に住んでいる以上、地震はいつ起きても不思議はない自然現象である。だとしたら、もっと地震について予め知っておいて、まさかの時には対処できるだけの備えをしておくべきではなかろうか。個人としてはできることは限られているし、限界があることも明らかで、ここは国、あるいは地方公共団体で「備え」に必要な知識、装備についての情報提供、さらにはそれにふさわしい体制を構築することが必要ではないだろうか。

 

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55年前へのセンチメンタル・ジャーニーにとんだ結末が待っていて、大いに感激した

2023-05-03 | Weblog

 3日はかみさんを連れて、かねて行こうと思っていた55年前の大学時代に下宿していた東京都中野区江古田の哲学堂あたりを散歩することにした。渋谷から山手線の高田馬場経由の西武新宿線の新井薬師前駅から北へ約1キロ歩いて、新青梅通りを渡って少し行ったところを左折した辺りにあった筈で、午前11時頃にそのあたりに着いた。ところが、駅から哲学堂通りを歩いていくと、すっかり道の両側は一変していて、当時はなかった東亜学園が建っていたり、新築のマンションが立ち並んでいて、まるで新しいところを歩いているような感じがした。

 それでも往時の下宿屋らしきアパートがあった辺りに辿り着き、家主らしき表札をみると、間違いなく当時の大家さんの名札が掛かっていて、かみさんに「玄関すぐの階段を上がった2階に4つ部屋があり、奥の一室に住んでいた」と説明した。大家さんは当時はおばあさんで、同じ姓の苗字の女性の名前があったが、どうやら娘さんらしい。同じ名前を目にして懐かしい気持ちが湧いてきたが、だからといって呼び鈴を押して、「50年以上前にお世話になっていた者です」と名乗るのも見ず知らずのに訪ねられても迷惑だと思われるだろうと思って、思いとどまった。そこまで考えていなかったので、手土産も用意していなかったこともあって、立ち去ることにした。

 で、折角のセンチメンタルジャーニーなので、手前にあった哲学堂公園に足を踏み入れることにして、中に入ってみることにした。哲学堂は東洋大学を創立した井上園了氏が明治39年に造ったもので、各所にはキリスト、老子など世界の4人の哲人を示した四聖堂はじめ、六賢台、三学亭、宇宙館、絶対城など園了翁が定めた独特の施設が配置されているほか、園了翁が所蔵していた図書が図書館として保存されているほか、園了氏の生涯を解説するビデオが流されていたり、園了氏の足跡が一望のもとにうかがえる立派な展示となっていた。55年前にはこうした設備は整っておらず、その後整備された、という。

 哲学堂公園がそんなに整備されたのだ、と感激の面持ちで、新井薬師前駅に戻って、電車に乗ろうとしてポケットを探ったところ、持参していたPASMOカードが見当たらない。上着の胸ポケットに入れていたのだが、途中で暑くなり、脱いで2つ折りにして腕にかけていたので、ポロリと落ちてしまったようだった。電車に乗る前にチャージをしたので、3000円以上の残高があるはずだった。しかも残高が1000円を切るとオートチャージすることになっているため、悪用されると、被害額はどんどん積み上がっていってしまう恐れもあった。

 そこで、探しに戻るにしても、まずは警察に届けようと思って、丁度駅の目の前に交番があったので、紛失届を出すことにした。そこで、書類に記入して、出てきたらよろしく、と言って手続きをしていたら、受けつけていた警官が「ちょっと待って下さい」と言って、「哲学堂公園の近くの交番にPASMOカードを拾ったという届け出があったようです」と言って、しばらく向こうとやり取りをしていて、「PASMOカードのお客さんの名前が記名されているそうです」と言った。それにはびっくりし、そんなことがあるのだ、と正直驚いた。

 早速、届けられた西落合交番に行き、拾われたPASMOカードを受け取った。その後、拾得者にお礼の手紙でも出そう、と思って、交番に拾ってくれた人の名前を聞いたところ、「聞いていない」ということだった。本当に世の中には親切な人がいるものだ、と思った。本当、匿名の拾得者の方には感謝しかない。それにしても届け出たそ場で、失くした筈の遺失物が見つかるとは驚いた。聞けば、警視庁管内の都内の遺失物は届けられたら、即座に一斉にその情報が伝わるようになっている、という。これも55年前にはなかったことで、センチメンタル・ジャーニーは意外な結末となった。

 それでも、この間、新井薬師前駅と哲学堂公園までを2往復し、夕方に家に辿り着いて、かみさんのスマホを見たら、この日はなんと1万6782歩も歩き、12.9キロを歩行し、過去最高を記録した。55年前のセンチメンタル・ジャーニーにとんだ結末が待っていて、大いに感激した。こんなことがあるから、世の中は回っていくのかもしれないし、今度はなにかで世の中にお返ししなくてはいけない、とも思った次第である。

 

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