29日は東京・初台の新国立劇場で「アルゴス坂の白い家」を観賞した。2、3週間前のNHK朝の「この人にトキメキ!」に女優の佐久間良子が出て、この演劇にかける意気込みを熱っぽく語っていたので、さぞかし面白いことだろう、と期待して、開演10分前に中劇場へ赴くと、妙に静かで、いつもの開演前のざわざわした熱気がない。予約した座席は14列だったが、舞台が前8列までせり出していたので、結構前の席だった。責について周りを見渡すと、両側にかなり空席がある。そのまま、開演となり、意外と人気がないことに唖然とした。
その落胆が尾を引いてか、演劇が始まっても舞台に溶け込んでいけない、幕開けはエレクトラ役の小島聖が勇ましい格好で、弟のオレステスを従え、母クリュタイメストラを討つことを宣言する。その後、ギリシャ悲劇「アトレウス家の悲劇」の原作者と称するエウりピデスと現代の作者、島岡が登場して、舞台上でギリシャ悲劇を現代風に焼き直すことに策を凝らす。
現代に置き換えられたアルゴス家の女主人、クリュタイメストラを」演じる佐久間良子が娘らと登場するが、さっと観客席を眺め渡して、左右の席の空きが目立つのを見て、がっくりきているのか、声にいつもの張りがない。主演のはずなのに舞台を引っ張っていくのだ、という気合いも感じられなかった。20日に公演を開始して以来、8回目の公演であり、土日の公演としては3回目にあたる。何回か、この国立中劇場に来ているが、これほど観客の少ない公演は初めてである。
佐久間良子を演劇で見たい、というお客は少ないのか、それとも佐久間良子が演劇の主客層である若い女の子の間では知られていないのか、わからないが、佐久間良子をカバーするには小島聖くらいでは観客を呼べなかった、ということだろう。とにかくまだ7公演残しているこの「アルゴス坂の白い家」は失敗としかいえないだろう。
それでも休憩をはさんだ後半はギリシャ悲劇の現代版らしくテンポよくストーリーが運び、クリュタイメストラとアイギストスとの不倫は単なる疑惑であったり、夫のアガムメノンを殺すふり、そしてエレクトラのクリュタイメストラとアイギストスの殺人のふり、神の降臨がないことなど現代的な解釈ののちに、みんなでシチューを食べるあたり。演劇としては十分に楽しめた。最後にエレクトラがアルゴス家の白い家を訪ね、クリュタイメストラと抱き合うシーンは余分ではあった。
ギルシャ悲劇を現代的に解釈、置き換えるために原作者、現代作家を登場させ、やり取りする複雑な手法をとったことが、わかり難くしたのかもしれない。
フィナーレ後、カーテンコールに2度登場して、中央で手を広げ、拍手に答えていた佐久間良子の笑顔は無念さをかみしめた作り笑いであった。映画と違って、舞台は毎日作っていくもので、その積み重ねが財産にあんっていくのが演劇というものなのだろう。映画女優として数々の実績を上げてきた佐久間良子はいま改めて演劇の難しさを噛みしめていることだろう。
その落胆が尾を引いてか、演劇が始まっても舞台に溶け込んでいけない、幕開けはエレクトラ役の小島聖が勇ましい格好で、弟のオレステスを従え、母クリュタイメストラを討つことを宣言する。その後、ギリシャ悲劇「アトレウス家の悲劇」の原作者と称するエウりピデスと現代の作者、島岡が登場して、舞台上でギリシャ悲劇を現代風に焼き直すことに策を凝らす。
現代に置き換えられたアルゴス家の女主人、クリュタイメストラを」演じる佐久間良子が娘らと登場するが、さっと観客席を眺め渡して、左右の席の空きが目立つのを見て、がっくりきているのか、声にいつもの張りがない。主演のはずなのに舞台を引っ張っていくのだ、という気合いも感じられなかった。20日に公演を開始して以来、8回目の公演であり、土日の公演としては3回目にあたる。何回か、この国立中劇場に来ているが、これほど観客の少ない公演は初めてである。
佐久間良子を演劇で見たい、というお客は少ないのか、それとも佐久間良子が演劇の主客層である若い女の子の間では知られていないのか、わからないが、佐久間良子をカバーするには小島聖くらいでは観客を呼べなかった、ということだろう。とにかくまだ7公演残しているこの「アルゴス坂の白い家」は失敗としかいえないだろう。
それでも休憩をはさんだ後半はギリシャ悲劇の現代版らしくテンポよくストーリーが運び、クリュタイメストラとアイギストスとの不倫は単なる疑惑であったり、夫のアガムメノンを殺すふり、そしてエレクトラのクリュタイメストラとアイギストスの殺人のふり、神の降臨がないことなど現代的な解釈ののちに、みんなでシチューを食べるあたり。演劇としては十分に楽しめた。最後にエレクトラがアルゴス家の白い家を訪ね、クリュタイメストラと抱き合うシーンは余分ではあった。
ギルシャ悲劇を現代的に解釈、置き換えるために原作者、現代作家を登場させ、やり取りする複雑な手法をとったことが、わかり難くしたのかもしれない。
フィナーレ後、カーテンコールに2度登場して、中央で手を広げ、拍手に答えていた佐久間良子の笑顔は無念さをかみしめた作り笑いであった。映画と違って、舞台は毎日作っていくもので、その積み重ねが財産にあんっていくのが演劇というものなのだろう。映画女優として数々の実績を上げてきた佐久間良子はいま改めて演劇の難しさを噛みしめていることだろう。