鈍想愚感

何にでも興味を持つ一介の市井人。40年間をサラリーマンとして過ごしてきた経験を元に身の回りの出来事を勝手気ままに切る

携帯電話を失くして散々な目に遭った一日であった

2009-11-30 | Weblog
 29日は小中学校時代以来の親友であるT君が大腸を摘出する手術をしてめでたく退院したお祝いを兼ねて、T君のお宅を訪問した。JR金山駅を乗ったところで、携帯電話で連絡して、大府駅に迎えに来てもらい、車でお宅に向かった。若干声が枯れているのを除けば予想外に元気なT君の姿を見て安心し、その後のレストランでの食事で手術の状況や現在の心境を伺い、病気何するものぞとの意気を感じた。で、落ち着いたところで、手提げカバンを見たところ、携帯電話がないことに気付き、あたりを探してもない。
 どこへいったのか、と考えているうちに行きのJRの電車内でカバンに入れた積もりが摺り落ちたに違いない、と思い至った。2日前にテレビで見た刑事コロンボの「自縛の紐」で犯人が被害者の靴の紐を逆に蝶々結びをしたことが露見して逮捕となったのを思い出して、かみさんと靴の紐の結び方を実習していて、かがんだところ、携帯電話が座席の上に転がってしまい、それに気がつかず降りてしまったようだった。後で考えて、その前に携帯のメールが送信できなくて、街のどこかにauショップでもあれば相談してみようかな、と携帯が気になって、ついつい手に持ったままでいたこともあって、いつものケースに入れておかなかったのも失敗だった。
 で、JRの大府駅に電話しようと電話帳で電話番号を探したところ、掲載されてない。かろうじて見つかった電話番号は土日は通じない番号であった。仕方なく、104電話番号案内に掛けて聞いても同じ番号しか教えてくれない。インターネットで豊橋駅を探しても同じことで、どうやら外部には駅の電話番号を教えないようなことになっているようだった。
 仕方なく、帰りがけに大府駅で駅員さんに携帯電話の遺失物を行きの電車が豊橋行きだったことを付け加えて聞いてみると、果たしてそれらしき携帯電話が豊橋駅に届いている、という。携帯電話の番号を言うと、間違いないということになり、来れば引き渡しをする、という。ただ、その後高校時代に友人数人と名古屋で待ち合わせがあるので、受取人払いで送ってもらうことにした。
 一件落着と安心して、18時から名古屋の栄のとあるレストランでの会食に向かった。約束の時間の10分前にレストランに着いて、その前で待ったが、時間を過ぎてもそれらしき人は現れない。携帯電話の番号は教えてあったが、肝心の携帯電話は豊橋駅の遺失物センターにあり、鳴っても取れない。しかも相手らの電話番号は一切携帯電話にメモリーしてある。ひょっとして待ち合わせ場所が変更になったのかしら、と思っても手の打ちようがなかった。
 30分くらい待ったが、現れないので、諦めて帰ることにした。1時間ばかり前に先に実家に帰ったかみさんに連絡しようか、とも思ったが、大丈夫だろう、と思って雨の中、帰ったら、かみさんに実家のみんなは食事に出かけてだれもいない。真っ暗な軒先で待つのも寒いので、近くの喫茶店で軽食を摂りながら、待つことにした。1時間半くらい時間をつぶして、連絡しよう、としたら、その喫茶店には公衆電話がない。
 やむなく、もう少し時間をつぶして帰ると、かみさんの家族はご馳走を食べて満足そうな顔をしてくつろいでいた。疲れた表情をしていたのか、事情を聞かれて話したら、大笑いして半ば呆れ、半ば同情された。日ごろ、かみさんには「専業主婦には携帯電話は要らない」と広言していたので、かみさんからは「携帯電話がないと不便でしょう」とか、「なに、公衆電話がなかったって」とかさんざ言われた。
携帯電話は文明の利器であり、現代人にとっていかに必需品であるか、身をもって証明した一日であった。

追記1 高校時代の友人とはついぞ連絡をとれず、翌30日に川崎へ帰ってから、メールを開いたところ、「なにかあったのか」と心配しての問い合わせの連絡が入っていた。よく改めてチェックしたところ、待ち合わせ時間は18時だったが、名古屋地下街の日産ギャラリーと書いてあった。その前のお見舞いのスケジュールが確定していなかったので、時間に間に合うかどうか自信がなかったので、つい落ち合ってから行くレストランの名前と時間だけを手帳に書いてしまい、てっきり18時にそのレストラン集合と思い込んでしまった。すべては携帯電話を失くしたことに端を発する当方のミスであるが、改めて携帯電話の重要性を意識させられることと相成った。

追記2 1日昼になって、待望の携帯電話がJR東海豊橋駅から届いた。当然のことに受取人払いで金740円也を払って受け取り、点検すると、丸2日間、無人の携帯電話に計14本の電話着信の記録が残っていた。このなかには自分でT君の携帯から携帯を拾った人へ連絡してくれるよう頼んだメッセージも含まれていたが、知人のTさんからの留守電もあった。丸1日何の応答もなく不審に思われたことだろう、と早速お詫びの電話を入れて事情を釈明し、事なきを得た。後で判明したのだが高校時代の同窓生との集まりでは4人集まったうち、携帯電話を持っていない奴が3人もいたのは驚きだった。ともあれ、携帯電話に泣かされた2日間だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

51年ぶりのセンチメンタル・ジャーニー

2009-11-30 | Weblog
 28日は51年前に卒業した名古屋市熱田区の旗屋小学校が創立百周年を迎えたのを機に開催された創立百周年記念式典なるものに参加した。東京では創立百周年を迎える小学校はざらにあるといわれているが、名古屋では珍しいだろうと思ったのと、正直わが母校が百周年とはめでたいことだ喜んだからに他ならない。卒業してからまともに小学校を訪れたことがないことも預かって記念式典の参加するのを機会に周辺を散策してみるのもいいかな、とも思った。
 午後2時からの記念式典に行くと講堂はほぼいっぱいで、壇上ではピアノ、チェロ、ヴァイオリンによる室内楽の演奏が行われていた。定刻と同時に始まった記念式典では同窓会会長の挨拶に続き、現役の旗屋小学校校長の挨拶があった。それによると旗屋小学校は明治42年に創立されて以来、この春まで1万2503人の卒業生を送り出している、という。現在は342人が在籍しているが、大正11年には1500人もの生徒がいたこともある、というから昔は栄えていた地域だったようだ。今回の記念式典には昭和61年までに卒業した約1万人を対象に参加をよびかけ、そのうち約300人の参加をみた。
 記念講演は南山大学教授による「夜寒を中心とした歴史と文化」と題する学区内の地域の由緒まつわる話があったほか、地元の音楽家による室内楽演奏や、コーラスグループによる合唱が披露された。最後に全員で旗屋小学校の校歌を斉唱したが、譜面はもちろん歌詞を見ても思い出せなかったのにメロディが流れてきて聞いているうちになんとか思い出してきたのには驚いた。記憶の底に眠っていたのが呼びさまされたのだろう。
 記念式典が終わって、白鳥国際会議場での懇親会まで時間があったので、小学校周辺の虫封じの高座神社や通学路だった坂道をぶらりと散策した。小さい時にお祭りの時によく遊んだ高座神社を正面からお参りしたことなどなかったことを思い出したり、雪が降った時にスキーなどして遊んだ坂道がなだらかなアスファルトの坂になっているのを見て、すっかり変わってしまったことに驚いた。それでも50年前の面影がわずかに残っていることがうかがえた。
 旗屋小学校には百年の歴史を感じさせる「武家屋敷門」とヤマハ第1号ピアノがあり、「武家屋敷門」はいまでも学校の正門として使われており、目にすることができたが、ヤマハ第1号ピアノは倉庫に保管されているとかで、公開されていなかったのが残念なことだった。
 懇親会は全員を収容できるだけの部屋がなくて、二手に分かれての懇親会となり、ややさびしいものとなったが、同期生17人のなかには卒業して以来初めて会う人もいて、懐かしい思い出話にふけり、51年ぶりのセンチメンタル・ジャーニーに色を添えてくれた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする