鈍想愚感

何にでも興味を持つ一介の市井人。40年間をサラリーマンとして過ごしてきた経験を元に身の回りの出来事を勝手気ままに切る

歯がゆいIOCのロシア選手のリオ・オリンピック参加についての協議ぶり。見えたIOCの体質

2016-07-21 | Weblog
 20日、国主導の組織的ドーピングが明らかとなったロシアのリオ・オリンピックへの参加問題について国際オリンピック委員会(IOC)は緊急理事会を持ち回りで開催したものの、結論を出すのを見送った。21日にもスポーツ仲裁裁判所(CAS)の裁定が下るのを待ってということのようだが、来月5日開催が迫っているリオ・オリンピックを前にあまりにも姑息な対応ではなかろうか。4年前からオリンピックを目指して準備してきているロシアはじめ各国の選手の心情を思いやれば、そんな優柔不断な態度をとるのは許しがたいことである。
 
 ロシアの国をあげての組織的ドーピングは世界反ドーピング機関(WADA)の手によって明らかとされ、IOCはとりあえずロシアの陸上選手のリオ・オリンピック参加を認めないことを決めた。しかし、その後違反を犯していないロシア68選手の訴えを受けて、ロシア全選手の参加をも認めないこととするか、違反をしていない選手については参加を認めるか、IOCは緊急理事会を開いて決めることとしていた。とはいえ、一堂に会しての議論ではなく、電話による持ち回りの理事会開催となった。
 
 で、出された結論が「見送り」となったわけで、これでは大方の納得を得るには至らないことだろう。IOCはこれまでもオリンピック開催国を決めるにあたって理事の幾人かが賄賂をもらっているとの疑惑を投げかけられており、その権威に揺らいでいる。オリンピック開催が多くの利権を生んでいる証拠でもあるが、体質的に公明正大なイメージが損なわれている。
 
 IOC自体が公明正大な組織でないとすれば、そこが下す決定についても疑義が生じてくるのは避けられない。今回のロシア選手のドーピングについて結論を出すのを見送ったのは、自らその嫌疑について解明する能力を持っていないことが明らかとなった、と言わざるを得ない。スポーツ仲裁裁判所とIOCの関係がどうなっているものなのか、は定かではないが、近々にCASの裁定が下るので、それを待ってから結論を下すというのは自ら意思決定ができない組織であることを露呈したものということだろう。IOCは間近に迫ったリオ・オリンピックへの参加を目前にしてロシアに限らず派遣選手は一体どんな気持ちでいま臨んでいるのか、考えたことがあるのだろうか。そんな選手の心情を考えればこんな悠長なことはしていられないことは明らかである。利権にまみれたIOCは少なくとも選手のことには重きを置いていないことは明らかである。
 
 いま日本は2020年の東京オリンピックへの準備に余念がなく、いまは5日から始まるリオ・オリンピックもそのための前哨戦といった感じで、すべては東京オリンピックへの助走として受け止められている。しかし、そのオリンピックの招致についても日本から賄賂を贈られたうえでの決定である、とささやかれているし、東京開催を決めたIOCそのものが肝心のことを自ら決められないどうしようもない組織となり果ててしまっている、ということを考えると、もうオリンピックに浮かれているのはやめにしたら、といった気持ちになってくる。

追記 早速21日夕にCASは世界陸連の「ロシア陸上選手のリオ・オリンピック出場を認めない」との決定を支持するとの発表を行った。これを受けてIOCはロシアの陸上以外の選手のリオ・オリンピック出場を認めるかどうかの決定を行うこととなる。しかし、なぜか24日に理事会を開くとしており、ここでも優柔不断ぶりがうかがえる。こんな結論が見えている決定をするのに3日もかかるのか、理解に苦しむ。ロシアが国がらみでドーピングを行ってきた事実はどう見ても有罪で、ここはロシア選手の出場を認めないのが筋といえるが、IOCはとてもそこまでの度量がなく、無様な結論を出すことだろう。
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かぐや姫に新解釈を加えた劇作家、別役実の新作舞台「月・こうこう、風そうそう」はいまひとつ訴えてくるものがなかった

2016-07-16 | Weblog
 16日は東京・初台の新国立劇場で演劇「月・こうこう、風そうそう」を観賞した。「マッチ売りの少女」などで著名な劇作家の別役実が「竹取物語」を新たな視点で作り直したもので、かぐや姫が竹の中から生まれたとの童話をもっとリアルなものとして現代風解釈を加えているのがミソといえそうで、おじいさんおばあさんが悪役風に描かれているのも面白い。ただ、休憩さしの2時間、舞台装置はそのままで同じようなやりとりをしていくのはちょっとしんどい気もしないではなかった。
 
 「月・こうこう、風・そうそう」は冒頭、竹藪の中を彷徨う老婆と老爺の2人連れが出てきて、むしろを敷いて座り込み、「死に場を探しているのだ」と口走る。そこへ追手に追われた姫が「助けて下さい」と駆け込んでくる。事情を聞くと母親に兄との結婚を迫られて、それがいやで逃げ出したのだが、どこへ行く予定もなく、族にでも捕まって殺されてもいい、ととんでもないことを言い出す。老爺たちはとりあえず、姫を匿うこととするが、そこへやってきた琵琶弾きの女が「とんでもない災難に見舞われるよ」と警告する。
 
 さらに竹藪には姫の兄と称する男や旅人に狼藉を働く若者、さらには砦のミカドとその配下の者たちや姫の母親が登場し、老爺と老婆の周りでいろいろと暗躍し、一見善人に見えていた老婆と老爺が実は子どもをお金で斡旋するとんでもない輩であることが判明し、姫もそうしてもらわれていった一人であることがわかる。そんなこととは知らず、姫は若者と意気投合し、契りを結んでしまうこととなり、若者の子を宿してしまう。ただ、若者は砦のミカドから北に位置する敵を倒すことを命じられ、弓矢を手に戦いに出掛けていくが、あえなく敗れて死んでしまう。残された姫は乳飲み子を抱いて途方に暮れて、ついには乳飲み子を残したまま旅立ってしまい、そこで幕となる。

 劇全体が竹藪の中ということもあって暗いせいか、役者の表情があまりよく見えない印象があった。だからか、主演の姫を演じた和音美桜が目立ったくらいで、琵琶弾きを演じた竹下景子もそれほどいいとは思えなかった。「かぐや姫」が竹から生まれた姫という設定だったのを老婆と老爺が斡旋して里親に出していた、という新解釈をしたのが新味なのだろう。それと休憩なしの2時間ぶっ続けの舞台はやはりしんどい感じがして、やや中だるみの感もあったのは否めなかった。

 鈍想愚感子は演劇好きではあるが、それほど多くの演劇を見ているわけではなく、いつもは出演者の顔ぶれを見て主に新国立劇場での演目を中心に観ているに過ぎない。だから、そんな口はばったいことを言えるわけではないものの、この「月・こうこう、風そうそう」は作家の別役実があまりにも高いレベルにいるのを出演者らが遠慮して恐る恐る演じているような感じがして、いまひとつ観客の胸に迫ってくるものがなかった。出演者のなかで重きをなすのはミカドを演じた瑳川哲朗あたりだろうが、出演シーンがそれほど多くなく、全員のムードを引き上げるリーダーたりえなかったのだろう。全体にこの舞台を引っ張っていく役割りをしている人がいなかったような感想を持った。折角のいい脚本が生きなかったのはそのせいだろう。
 
 
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天皇陛下の生前退位の意向報道で、改めて加藤周一氏の論文「天皇制について」を読んだ

2016-07-14 | Weblog
14日付けの新聞各紙には「天皇陛下の生前退位の意向」の見出しが大きく踊っているが、それに関して思い出されるのが評論家の加藤周一が終戦直後の1946年3月21日に荒井作之助のペンネームで東大新聞に「天皇制を論ず」と題して、「天皇制はやめなければならない」と断じたことである。加藤氏はその理由として天皇制は戦争の原因であったし、やめなければまた戦争の原因となるかもしれないからである」として、「問題は天皇制であって、天皇ではない」と論じた。まだ、東京裁判も始まっておらず、天皇制をどうしていくかも定まっていなかったその時期に誠に勇気ある発言である。こんなことを言えば、右翼が大騒ぎして大変なこととなったのは容易に想像できる。だから加藤氏はあえてペンネームで論文を発表したのだろう。

 加藤氏はこの論文で天皇制をやめなければならない理由は対外的理由と対内的理由の2つあるとして、対外的理由はばかげた侵略戦争を世界中に仕掛けた以上、日本は世界に対してその責任を取らなければならない、天皇制と封建主義とが日本を好戦的にした根本的理由であるならば、そのい理由を除き、天皇制を排し、封建的残滓を洗い、っ再び好戦的になり得ないことを実行をもって世界にしめさなければならない、としている。

 また、国内的理由は進行するインフレーションを防がなければならず、それには支配階級の利益と財産を犠牲にしなければならず、その犠牲の実行を支配階級自体に期待することは荒唐無稽でるとすれば、要するに封建的支配階級は更迭しなければならない。したがって天皇制を廃し、その中心を切り崩すことは目下の急務である、とした。

 加藤氏はその後も2回にわたって天皇制を論じているが、最初の論文で封建的といった表現については不正確な部分があったことを認めているが、一貫して天皇制を維持することで自らの利権を拡張しようと目論む勢力が存在することを指摘し、天皇制がそうした勢力の隠れ蓑や、温床となっていることを鋭く糾弾している。
 
 今回の天皇陛下の生前退位の意向が今後どのような推移をたどって、どんな方向へ導かれていくのか定かではないが、天皇制を維持して、その陰で自らの勢力の拡張を図ろうとする輩が次から次へと出てくるであろうことは容易に想像できる。今回の新聞各紙の一斉の報道が何を画策してのものなのか、まだよくわからないが、そうした折りにこの加藤氏の論文を再度読んで、真実はどこにあるのかをじっくりと考えていくのも必要なことだ、と思った次第。
 
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参院地方区では立候補者が一同に会して公開討論会を開くべきだ、比例区も同種のことを行え

2016-07-11 | Weblog

 注目の参院選は大方の予想通り自公などの改憲勢力が参院の3分の2を占める結果となり、安倍首相は参院選ポスターのキャッチフレーズの「この道」をまっしぐら改憲への道を進むことになりそうだ。昨夜は開票後1時間あまりテレビ各局の開票速報を見ていたが、野党議員の票の伸びが思わしくなく、これでは自公勢力がますますのさばる極めて不本意なことになりそうなので、さっさと寝についた。翌朝起きて、早速テレビに見入ると、予想外に野党勢力は善戦していたのに気をよくした。8時からのフジテレビの「とくだね!」にコメンテーターとして出演していた政治評論家の田崎史郎氏が「自公が1人区で重点選挙区と位置ずけ、安倍首相以下幹部が応援にかけつけていた12選挙区のうち11選挙区で与党候補が落選となり、野党四党の選挙協力が効を奏した」と言っていたようなことがあったせいである。それでも改憲勢力が決定権を得る3分の2を確保したことに変わりはなく、ますます日本は右傾化していることを裏付けた。

 テレビ各局の開票速報番組ではテレビ東京の池上彰をキャスターに据えた報道が光っていた。当落を報じる中身はテレビ東京らしいお粗末さがあったが、それよりも池上キャスターが各党幹部や当選議員に縦横無尽に切り込んでいくさまは見事なもので、いままでにない切り口を見せてくれた。たとえば、井上義久公明党幹事長に公明党の改憲へのスタンスを質問した場面では、「公明党の公約では改憲について一切触れていないのはなぜか」と切り込んで、井上幹事長をしどろもどろにさせた。

 また、自民党の神奈川地方区でトップ当選した三原じゅん子議員が神武天皇以来の憲法をと謳っているのをとらえ、「いまの憲法を明治憲法に戻したいのか」と聞いたり、「神武天皇を実在の天皇だと思っているのか」と歴史観を問いただしたりして、三原じゅん子の改憲への考えを問い質した。さらに自民党の比例区で当選を決めた今井絵理子には「子育てもいいが、出身地である沖縄の問題をどう考えるのか」と問い、今井絵理子が沖縄の基地問題に何も触れていないことを問題にしたりしていた。

 池上氏はこの他にも次々と画面に登場する政治家に歯に衣きせぬ鋭い質問を浴びせ、時には政治家が返答に困るようなやりとりを随所に見せてくれた。田原総一朗のような政治評論家は取材源でもある政治家に対し、遠慮したモノの言い方しかしないが、池上氏は日頃は政治評論家のような活動をしていないので、独自の観点から自由にモノが言えるのだろう。このところの選挙開票番組でテレビ東京が一番の視聴率を取っているのは池上氏を起用していることが理由といえることがよく理解できた。

 それにしても参院選は島根・鳥取、高知・徳島の合区や比例区のあり方など問題の多い選挙を行っている。比例区では全国でわずか数万票を獲得するだけで国会議員になれるのはおかしなことである。しかも名前を挙げることは憚られるが、碌に政治感覚のない議員が大挙当選している。党の幹部にしてみれば単に人数稼ぎにしか思っていないのだろう。でも冷静に考えれば、大した政治的知識も経験もない人に向こう6年間にわたって税金で賄われる歳費を与え、国の行く末を決める決定に関与させるのだから、もっと吟味したうえで決めてもらいたいものだ。

 衆参の国政選挙の始まりにはいつも政党党首の討論会が開かれるが、少なくとも地方区、および選挙区ごとの候補者はどこかで立候補者が一同に集まって政策に対する考えを戦わせる場を公開で開くべきだろう。参院の比例区についてもテレビで演説をするだけでなく、公開の場で議論を戦わせる場を設けるべきだ、と思う。でないと日本の政治はさらに劣化していくことだろう。池上氏の鋭い切り込みを見てそう思った。

 

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違和感のあるノーネクタイ姿、ワイシャツの第一ボタンを外すだけでは失礼なのではないだろうか

2016-07-09 | Weblog

 梅雨明け宣言はまだ出ていないが、もう夏が来たのではないかと思わせるような陽気となってきて、思うのは夏のサラリーマンの服装についての疑問である。というのはいつのころからか省エネルギーもあって、省エネルック、クールビズなる言葉がもてはやされ、男性のノーネクタイ姿が当たり前となってきた。それを強調するかのように特に役所でカラフルなアロハシャツや沖縄のかりゆしを着て事務を執るような姿がテレビで映されるようなこともあった。先日の舛添東京都知事が都議会で散々叩かれていた際に議場を出てきた舛添知事が周りにガードマンらを従えていずれもがノーネクタイ姿で進んでいくシーンを何度も目にして、なにか違和感を感じた。

都議会の議場内でも知事はじめ議員、職員のいずれもが申し合わせたかのようにノーネクタイ姿で質疑をし、事務を執っていた。だから、退場する際も同じノーネクタイ姿で闊歩していくのは仕方ないのかもしれないが、舛添知事の表情が険しいうえに屈強なガードマンが肩をいからせて進んでいくさまはなにかやくざの集団が進んでいくような印象を与えた。同じ日にテレビのニュースで安倍首相らがなにかの諮問委員会で同じくノーネクタイ姿で部屋に入ってきて、着席する姿を映していたが、これもなにか違和感を感じさせるようなムードであった。

 見ていtるこちらがネクタイを締めた姿が正式なものという思い込みがあるせいもあるが、よくよく考えてみると、都議会の傍聴にきている都民のなかにはネクタイを締めている人もいたり、職員のなかにもネクタイ姿の人もいる。首相官邸での諮問委員会の委員のなかにはネクタイ、スーツでびしっと決めている人もいる。都知事、首相は青その場でのトップに位置つけられる人だから、その人自らがノーネクタイ姿であるのは失礼にはあたらないのかもしれないが、テレビにそうした姿が映るのを見た視聴者がどう思うかはまた別の問題である。その場にいる人だけでなく、テレビに映るようなことがあればそうした局面にも配慮すべきだろう。

 ただ、ノーネクタイ姿といってもスーツの下に着ているシャツがネクタイを締めるためのワイシャツのままで、単に一番上の第一ボタンを外しているだけであるというのは却って失礼にあたるのではないだろうか。だから、ノーネクタイの場合はネクタイを一切着用できないポロシャツか、もしくはかりゆしのようなカラフルな装いにしてしまうのがはっきりしていい、と思われる。いつでもネクタイを着用できるような中途半端なワイシャツを着ているから印象がよくないのだ、と思われる。

 鈍想愚感子は学生時代に東京・大手町のビル内でアルバイトをしていたことがあり、その時にアルバイト先に銀行マンが訪問してきたことがあり、真夏にも拘わらずスーツにネクタイを締めた出で立ちをしており、銀行マンは大変だな、という印象を持ったことがある。その後、社会人となって真夏にその時の銀行マンと同じようにスーツにネクタイ姿をしていたのだから、いまとなっては世の中のことをよく知らなかったとしか言えない笑い話である。

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バングラディシュでの無差別テロを見て思うことーー何事も参院選へのパーフォーマンスに

2016-07-06 | Weblog

 バングラディシュのイスラム国のテロには驚かされた。事件発生から鎮圧のための突入へ至るスピードと犠牲者20人の中に7人もの日本人が含めれていたことにも衝撃を受けた。これまで海外で起きるテロ事件ではまず日本人被害者が出なかったのに一挙に7人も死亡して、政府関係者はイスラムをはじめとする海外での無差別テロへの対処を迫られることとなりそうである。犠牲となった日本人のいずれもがJICA(国際協力機構)のもとで派遣されていた国際協力隊員ともいうべきいわゆるボランティアの方たちで、恩を仇で返された形となったようなものである。

 バングラディッシュは日本の国土の3分の1の広さに日本の1億3千万人を上回る1億6千万人が住んでいるという。6日午後の民放テレビが報じていたが、首都のダッカの高級住宅地に位置する日本大使館の近くにあるイスラムのIS部隊によって襲撃されたレストランは地元の住民がおよそ寄りつくことのない地域にあり、一般市民がたむろする街中とは隔絶されたところにあるといっていい。事件後報道されたテロ犯人5人はいずれもダッカに住居を構え、高等教育を受けた若者ばかりだ、という。マスコミは事件の背後にイスラム国があるとしているが、貧富の激しい国を憂えた若者が引き起こした無差別テロの要素も少なからずありそうである。

 今回にテロ事件の報に接し、安倍首相は当初、「痛恨の極みである」と表現し、テロへの憎しみを露わにしたが、痛恨の極みとの表現には違和感を覚えた。ことが起きるのを想定し、事態の進展にあらゆる手段を講じているにも拘わらず、最悪の事態を招いたのならともかく、何もせずにただ事態の進むのを見ていただけなのにいかにもいろいろ手を打っていたのにというニュアンスをこめてか、痛恨の極みを使ったとしか思えないのである。事件を聞いた当初は安倍首相と菅官房長菅は首相官邸にいたが、まもなく菅官房長官は富山へ参院選の応援演説のため、首相官邸を後にして、夜半に戻ってきたものの、レストラン突入のあとで、なすすべもなく7人もの犠牲者を出すこととなった。

 あと日本政府は今回の犠牲者7人の遺族に対し、弔慰金を出すことを決めた。その詳細は明らかとなっていないが、最近の海外での無差別テロで犠牲となった人を弔うために遺族に弔慰金を出すことを近く決めるkとにしており、それに先駆けて今回支出することにしたという。ただ、昨年はじめにイスラム国に拉致され、無残にも殺害されたジャーナリスト2人に対しては一切このようなことをしなかったのに今回は政府機関のJICAから派遣されていたということから支給されることに得心のいかに関係者もいることと思う。

 勘繰っていえば、いまは参院選で、少しでも自公政権にプラスになるようなことなら、なんでもするといった感じがするのは鈍想愚感子だけだろうか。事件の起きた翌日には安倍首相がいかにも政府はできる限りのことをしたといわんばかりに事件への対処ぶりをマイクを通じて話していた。いまは何事も選挙がらみでパーフォーマンスをしている印象がどうしても避けがたいようである。

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