鈍想愚感

何にでも興味を持つ一介の市井人。40年間をサラリーマンとして過ごしてきた経験を元に身の回りの出来事を勝手気ままに切る

数々の偶然がもたらした「第一幸福丸」の奇跡の生還

2009-10-30 | Weblog
 30日朝、フジテレビの「とくダネ!」を見ていたら、先日八丈島沖で転覆漁船から救出された船内の実寸の模型を公開していたが、ほんの半畳程度の板の間でよくぞこんなスペースで丸3日半もじっと我慢していたものだ、と驚嘆させられた。奇跡の生還を果たした3人はまだ会見していないので、心境など詳細はわからないが生死を分けたものが何だったのか、興味は尽きないが、海をよく知る人にとっても今回の生還は考えられない偶然の産物だったようだ。
 佐賀県唐津市の鎮西町漁協所属のキンメダイ漁船「第一幸福丸」(8人乗り、19トン)が下田港を出港したのは20日で、折りからの台風20号の直撃を受けて、24日午後8時に転覆してしまい、当時操舵室にいた牧山新吾船長はは救命いかだに乗って脱出したが、残る7人の船員は後部のある居住区である船室に閉じ込められた。ところが、海水が床下から迫ってきており、7人のうち4人は順次か、同時にかわからないが、海水を潜って船外へ脱出を試みて、残った3人が居住区にとどまった。
 もちろん、居住区とはいえ、明かりも灯らず真っ暗のなか、食料も水も満足になく、海水も迫ってきて、ただひたすらいつ来るかわからない救助を待つのみの時間を過ごすこととなった。水らしきものはペットボトルが海水に浮いていて、少し飲んだところ、味がおかしかったので、捨ててしまった、という。スペースはとても3人が横になれるほどもなく、代わりばんこに眠るのがせいぜいだったようだ。
 幸運だったのは海水の温度が摂氏25度と比較的高く、体力の消耗を防いでくれたことと、呼吸して吐き出す2酸化炭素が海水に溶け込み、海水からは酸素を供給されて、窒息しなくて済んだ、ということだ。海に浮かんでいれば、風にさらされて体力が消耗してしまうが、密室のなかで風が吹くこともなく、エネルギーの消耗もなかったわけだ。
 で、丸3日半経った28日午前10時半ごろ、八丈島の北北東約55キロの海域で転覆している「第一幸福丸」を海上自衛隊機が発見し、その後海面に出た船底を叩いたところ、中から反応があり、奇跡の生還となった。生還した3人のなかには初めて漁船に乗り組んだ人がいたて、海難の際の対処や海の怖さを全く知らずに何も考えずに無心に残ったことが運命の分かれ道となったようだ。
 1人救命イカダに乗り込んだ牧山船長はその3時間前に八丈島の北約20キロの海域で漂流しているのを発見され、死んでいるのが確認された。また、船室から先に脱出した4人の生存は確認されていない。
 過去、転覆した漁船から救出された例はあるが、丸3日半も生存していたケースは聞いたことがない。71年11月に北海道・稚内で漁船が転覆し、1人救出されたが、この時は転覆してから25時間経っていたのが最長である。船室に残っていたのが4人だったら、酸素の供給が追い付かなかったかもしれないし、数々の偶然が重なったことが生還となったようだ。
 3日半もの間、救助が必ず見つけてくれる、との信念を持っていたのだろうか。水も食料もない暗闇のなかで、何を考えていたのか、ドキュメンタリー小説の一本でも書けるようなドラマがあったのは確かなことだろう。

追記 31日午後1時から静岡県下田市の伊豆漁協で会見した3人は奇跡の3日半の状況を語ったが、居住区でなく船底のエンジンとスクリューを結ぶキールと呼ばれるスペースに横たわっていたことが判明した。しかも、自らの意思で残ったのではなく、逃げ遅れ、調理室の冷蔵庫にふさがれて脱出できなくなったことも判明し、運命の岐路が偶然だったことを物語っている。3人のなかで一番生きることに執念を見せたのは最年長のベテランで、残る2人は諦めていたこともわかった。一番若い船員は途中、脱出を図ろうとして、2人に止められた、ともいう。漁船は海洋ブイなる装置を積んでいないのだろうか、気になるが、こんな事態を想定しての対策が果たして立てられるのだろうか、わからないが、ぜひ今後に生かす教訓を見つけてほしいものだ。
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意気やよし、鳩山首相の宣言「無血の平成維新」

2009-10-30 | Weblog
 26日から第173回臨時国会が召集され、鳩山民主党政権が国会デビューを果たした。冒頭の鳩山首相の就任後初の所信表明演説のなかで注目されたのはむすびのところで表明した「無血の平成維新」という言葉だった。141年前の1868年の明治維新になぞらえて表明したもので、戦後55年続いた自民党の官僚依存政治から脱却して国民のための政治主導に切り替える、との意気込みが伝わってくる清新な印象を与えた。
 鳩山首相は8月末の総選挙の時から繰り返し表明している、「政治と行政に対する国民の信頼を回復する」ことを真っ先に掲げ、政治主導・国民主導の新しい政治への転換を行うことを高らかに謳う。具体的には戦後行政の大掃除を行うとして、政府のすべての予算や事務・事業、さらには規制のあり方を見直し、税金の無駄遣いを徹底して排除するとともに行政内部の密約や省庁間の覚書も公表していく、と語った。
 そして最後のむすびで明治維新を引き合いに出し、いま行おうとしていることはいわば「無血の平成維新」と高らかに宣言した。官僚依存から国民への大政奉還であり、中央集権から地域・現場主義へ、島国から開かれた海洋国家への国のかたちへの、国のかたちの変革の試みだ、と語った。
 新聞、テレビなどマスコミは鳩山首相の所信表明演説を「新味がない」と酷評しているとこおrが多いが、就任してわずか40日で新味が出せるわけがない。会社の社長もそうだが、自らの経営哲学を機会あるごとに繰り返し社員に対して訴えることが大事なのである。経営哲学が話す度に変わるようではまたおかしいことになる。政治家である以上、政治家としての信条、考え方がそんなにクルクル変わることなんてあり得ないことである。
 ここは総選挙以来語ってきた鳩山首相の政治信念を聞く場として、冷静に聞くべきだろう。その限りで、平成維新と高らかに宣言したことはその志の高さをもとお評価すべきだろう。
 確かに発足したばかりの鳩山内閣の一挙手一投足は危ない面がなきにしもあらずである。沖縄の嘉手納の米軍基地の移転問題は岡田克也外相、北沢俊美防衛相、それに肝心の鳩山首相3者の間で若干の祖語が見られるし、日本郵政の社長に官僚OBを起用するなどやや期待を裏切るようなところが散見されるが、もとはといえば自公政権のツケを払わされている、という面も無視できない。
 明治維新の時ですら、維新の騎士、大久保利通と西郷隆盛との間で行き違いがあったり、立ち上がり数年は政権の体をなしていなかった面があった、という。1968年10月23日に明治維新となった時にはそんな表現はなされず、その後になってからか、もしくは後世の人が明治維新なる名をつけたのだろう、と思われる。いささか早い気もしないでもないが、意気やよしである、ここはどっしりと構えて、事の落ち着く先を見据えるべきだろう。
 数年、もしくは数十年経ってから、平成維新なる言葉が定着することだけは間違いないことだろう。
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立ち直り難しい、見るも無残な第41回東京モーターショー

2009-10-29 | Weblog
 28日は千葉・幕張メッセで24日から開かれている第41回東京モーターショー2009に出かけた。GMなど海外メーカーの出展取り止めで大幅な縮小となったとはいえ、日本最大の展示会だったというイメージは消え去らないので、その実情を具に見てみたい、と思ったのだ。昼ごろに海浜幕張駅に着いたが、平日のせいか、かつてのような熱気が伝わってこない。わずかにビラ配りの若者が数人いる程度で、通常の産業展示会と変わらぬ感じである。
 かつては京葉線の線路に沿ったデッキを11ホールの方に誘導していたのに、それもない。WBCビルの間を抜けて9-11ホールへの誘導をしているが、どうやら中央入口へいくだけで、展示は1-8ホールだけのようだ。1300円也の入場料を払って、中へ入ると、コンコースには出版ブースとオフィシャルグッズのショップくらいしか見当たらない。端っこの1ホールから順番に見ていくと、まず、ドイツの自動車部品メーカー、ボッシュのブースで人の形にくり抜いたボードに女性の姿を写した映像を流し、商品説明をしているシーンにぶつかった。不況でコンパニオンの数が減っているとは聞いていたが、説明員がロボットにとって代わられるまで来ている、とは思いもしなかった。この同じことをダイハツも行っていたことがあとで判明した。
 トヨタ、日産、ホンダなど完成車メーカーはいずれも一番奥に陣取って、エコカー、ハイブリッドカーなど最新の車を展示して、競っていたが、やはりGM、フォード、ベンツ、フォルクスワーゲンなど名だたる海外メーカーがこぞって出展を取りやめているので、さびしい感は否めなかった。モーターショーにつきものだった派手な衣装でアピールするコンパニオンの姿もほんのわずかで、華やかさもいまひとつだった。
 出展社も前回の241社から119社と半分以下となったことから、1-8ホールを使っているとはいえ、通路は広く、過去の日本カー・オブ・ザ・イヤーを展示するコーナーや、幼児の描いた車の絵の展示コーナー、サテライトスタジオなど主催者展示がやたらと多かった。イベントホールも使っていなかったし、会場のテレビ機器を使ってのアピールもなく、これといって来場者に訴えるものがなかったのも残念だった。
 トヨタ自動車がブース内でレクサス・アートギャラリーなるものを設け、ガラスのボデイに機器を組み込んだ作品を展示していたのと、日本カー・オブ・ザ・イヤーが61人の選考委員と5人の評議員の投票で決まることも初めて知ったくらいが目についた程度だった。
 東京モーターショーはかつてはで最大200万人(1991年)もの来場者を集めた最大の展示会で、東京・晴海や幕張メッセの会場をフルに利用した展示会として記憶に新しい。その展示会が見るも無残な体たらくとなってしまったことはいかに世界の自動車産業の中心が中国へ移ってしまったとはいえ、さびしい限りである。ことし4月に中国・上海で行われた上海モーターショーは欧米のい自動車メーカーがこぞって出展し、出展者数、規模とも東京モーターショーを上回った。世界の自動車関係者の目は東京ではなく中国に向いている。それだけ中国国内の自動車需要が強いだけに如何ともしがたい。
 もともと、日本のモータリゼーションの波に乗って展示会の規模を大きくしてきただけのものなので、いまさら来場者に訴えるものをもっと前面に出すべきだといっても無いものねだりというものだろう。東京モーターショーが今後とも世界の市場のなかでローカルな存在のものに埋没していってしまうのか、次回以降の東京モーターショーがどう変えていくのか、主催者に突き付けられた課題は大きいものがある。 

追記 11月4日に閉幕した東京モーターショーの来場者数は61万4400人で前回(2007年)比56.9%減となった。前回より4日間、開催期間が短かったとはいえ、ほぼ半減したのは否定できない。ピーク時のほぼ4分の1である。日ごろ見られない海外メーカーの車のない車ショーは魅力がないということだろう。日本市場のローカル化、中国偏重への加速化の流れは最早変えられないだろう。
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天才ニュウニュウに押されていた読響演奏会を小菅優が盛り返してくれた

2009-10-28 | Weblog
 先日、雨の中、東京・赤坂のサントリーホールへ読響の名曲シリーズ演奏会に出かけた。つい2日前に天才少年ピアニストのニュウニュウのコンサートが超満員だったのに比べ。定刻になってもまだ空席が目立つのはいかに天候のせいとはいえ、大勢の大人が束になっても1人の少年に負かされたようで、いかにもさびしい感じがした。特にこの日の指揮者は贔屓にしている下野竜也氏だったので、余計にそう感じた。
 この日はメンデルスゾーンの生誕200年を記念してのプログラムで、前半はメンデルスゾーンの「交響曲第1番ハ短調作品11」が演奏された。哲学者の祖父と銀行家の父のもとに育ったメンデルスゾーンがその豊かな才能を開花させ、15歳の時に書かれた作品だ、というから驚く。当時モーツアルトと並ぶ神童と評されたメンデルスゾーンにとって作曲するということはごく普通のことだった、ともいうが、とても15歳の少年が書いた曲とは思えなかった。ピアノひとつ満足に弾けない者のとって想像を超えることである、のはいうまでもない。
 後半の最初は同じくメンデルスゾーンの「ピアノ協奏曲第1番ト短調作品25」で、ピアニストとして小菅優が登場した。小菅優は5、6年前に新進気鋭のピアニストとして「題名のない音楽会」にゲスト出演した際に演奏を聴いたことがあり、その素晴らしい演奏に惚れてその場で練習曲を集めたCDを購入したことがある。当時ははにかみ少女らしい、初々しい感じを持ったが、この日はグリーンのドレスをまとって俄然女らしくなっていたのに驚いた。
 演奏も力強いもので、華麗なタッチで、聴く者を楽しませてくれた。演奏が終わって、外人演奏者がよくやるように自ら指揮者に抱きついていったのにはびっくりさせられた。カーテンコールを3回ばかりした後、オーケストラが待っているなか、やおらアンコール曲としてメンデルスゾーンの無言歌集第3番op.380第6番「デュエット」を演奏し出した。以前にN響演奏会でゲスト演奏者の外人のヴァイオリニストがアンコール演奏したのを見たことがあったが、日本人ゲストがアンコール演奏したのは初めてのことで、指揮者との抱擁も含め小菅優の積極的な姿勢が印象に残った。
 で、後半のプログラムに入るのにピアノはどうするのか、と思って見ていたら、舞台の段となっている装置がピアノを通すスペースだけ沈むようになっているようで、係員数人で運んでいるうちに沈んで、すぐに元に戻るようで一生懸命見ていたのだが、ほとんど気がつかないうちに作業は終了していた。
 最後のメンデルスゾーンの「交響曲第5番ニ短調作品107宗教改革」はタイトル通りの大教会の荘厳な雰囲気を感じさせる曲だった。
 家に帰って、早速小菅優のCDを聴いたが、小菅優も9歳から演奏活動している天才少女で、ニュウニュウに負けないくらいの活動をしていたのだ、と納得した。
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酒井法子が一生背負っていかなければならない十字架を見逃した

2009-10-27 | Weblog
 26日は東京・霞が関の東京地裁へ裁判の傍聴へ出かけた。注目のタレント、酒井法子の覚せい剤取締法違反事件の初公判が行われ、日比谷公園で傍聴券が配布されると聞いていたので、雨の降りしきるなか午前8時40分頃に地下鉄霞が関駅の地上出口に降り立ったところ、それほどの人の列らしきものも見えない。どちらかな、と思いながら、公園の中へ進むと、白いビニールの雨合羽を羽織った整備員らしき人がいたので、「傍聴券はこちらですか」と聞くと、「そうだ」と言うので、その方向へ進むと、要所要所にガードマンらしき人が立っている。
 我ながらミーちゃん、ハーちゃんだな、と自嘲しながら行くと、前方に人の列が見えてきて、5列に並んでいた。右手にはテレビの撮影クルーらしきグループがいくつか見え、盛んにフラッシュを焚いていた。しばらく待つと列が進み出し、係員がテント張りの机の上に置かれた箱の中から白いリストバンドを順番に巻いていっていた。
 巻かれたリストバンドを見ると、「東京地方裁判所 整理券」と印刷してあり、632の番号がふられていた。はずすと無効になると注意書きもあった。一緒に渡された案内書をみると、午前11時に交付を締め切り、11時30分にこの場所に当選番号を掲示し、12時30分から裁判所前で当選者に傍聴券と引き換える、となっていた。
 午前9時に締め切る、と思い込んでいたのか、と思いながら佇んでいると、30歳くらいの男性記者が「週刊女性ですが」と言って寄ってきて、「今日は酒井法子の応援ですか」と言うので、「逆です」と答えると、「どうして来たのですか」と聞いてきた。「たまたま空いていたので」と言うと、「よく傍聴に来られるのですか」と言うので、「そうだ」というと、「見通しはどうですか」と聞いてきたので、「覚せい剤の入手先まで突き止められるわけでもないので、どうせ求刑1年6カ月で、執行猶予がついて終わりです、セレモニーみたいなものです」と言うと、記者は苦笑していた。行こうとすると、振り返って年齢を聞いてきたので、正直に答えた。
 で、午前中は2つばかりの民事裁判を傍聴して、12時半頃に整理券配布場所へ来ると、テントの中のホワイトボードに20の当選番号が掲出されていて、当然のようにはずれていた。1000番までに当選したのは2つしかなく、最後は6000番台だったので、300倍以上の倍率だったことがうかがえた。
 裁判所へ戻って、エレベーターのところに台車を引いた係員がいて、傍聴者が何人並んだのか聞いたら、6615人とのことだった。なんと330.75倍と96年4月24日のオウム真理教の麻原彰晃の時の250倍を超えて過去最高の倍率だった。ことになる。天気がよければさらに倍率があがったことだろう。
 夕刻になって携帯電話のニュース速報を見ると、「酒井法子 罪を認める」と出ていた。駅のスタンドでの夕刊紙の見出しには裁判を伝えるのと並んで、「北野たけしが酒井法子 極妻を予言」といった見出しが踊っていた。なるほど覚せい剤使用でイメ-ジダウンした酒井法子に極道の妻を演じるのはうってつけかもしれない、と思いながら、帰途に就いた。
 27日の朝刊をみると、果たして、予言通り、求刑1年6カ月だった、来月9日の判決で執行猶予3年ということになるのはほぼ確実だろう。
 酒井法子の覚せい剤狂騒劇は一体いつまで続くのだろうか。この26日の出来事は酒井法子にとって一生背負っていかなければならない十字架のような気がする。
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どこへいったのか住民コード統一化構想

2009-10-25 | Weblog
 過日、パスポートの更新に行ったが、手渡されたパスポートの番号がまるっきり変わっていてあれっと思った。今回も10年有効のパスポートとしたが、新規に発行するのになぜ以前の番号を引き継がないのか、不思議なことである。海外渡航歴が消えてしまうことはなんら問題ないが、海外でなんらかの犯罪を犯した凶悪犯やテロリストも新規にパスポートを申請すればすんなりと交付されてしまうことにならないか、懸念される。
 今回のパスポート申請では前回と同じく高津の写真屋でパスポート用の写真を撮ったところ、やけに顔の大きい写真が出来上がってきたので文句を言おうとしたら、かみさんに「改正されてそうなった」と聞いてやめたことがあった。さらに川崎市駅前にパスポートセンターが出来た、と聞いて勝手に東口だろうと思いこんで、雨の中東口から東海道線の高架下を通って川崎ソリッドスクエアまで大回りしてたどり着いた、という思わぬ事態に遭遇した。
 それで、一週間して再度、パスポートを取りに行き、出来上がったパスポートを見て、改めてまるっきり番号が変わってしまっていることに驚いた。冒頭の2ケタのアルファベットも頭だけが前と同じで、変わっており、7ケタの番号もまるで変わってしまっている。パスポートの管理にどんなコンピュータシステムを使っているのか聞いたことはないが、明らかに番号が変われば別人として再登録することになり、更新するごとに管理するデータが増えていくことになり、システムがきわめて非効率になることは疑いない。試みに10年以上前の5年間有効のパスポートの番号と照合してみたが、当然のことながらまた違うものだった。
 自動車の運転免許証の番号は最初に免許を取得した40年以上前からずっと同じである。免許証を持っている限り、過去にどんな交通違反をしたか、交通事故についてもが一目瞭然とわかる仕組みとなっている。警察庁のコンピュータシステムと外務省のそれが違うといえば、それまでだが、官庁でどうしてこうも違うのか不思議でならない。
 10数年以上前に国民一人一人に住民コードなるものが割り振られ、各家庭に家族員の住民コード番号について通知が来たことがあった。その時は行政上、必要な手続きには住民コードが必要になるような触れ込みだったが、以来、一回としてその住民コードを活用したことがない。免許証は相変わらず昔の番号のままだし、パスポート番号も更新の度に変わるので、住民コードの出番は全くない。そして、いまや住民コードなるものがあったことすら全く忘れ去られてしまっている。
 住民コードは当時の自治省か、いまでいう総務省の所轄なのだろうが、国民全員にコードを振ったのだから、相当な費用をつぎ込んだのは間違いないし、それが全くの無駄となったのも間違いないところだろう。導入当時には考えもしなかった個人情報保護の動きが出てきて、一気に萎んでしまったかもしれないが、さぞかし巨額な投資が行われたことだろう。
 行政の縄張り争いは昔から激しいものがあったのは容易に想像でき、そのなかで住民コードは埋没してしまったのだろうが、いまこそ行政の無駄遣いが指摘されているので、いま一度官庁のい進めているシステムの効率性を見直してほしいものだ。
 
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6回もアンコール曲を演奏した天才ピアニスト、ニュウニュウ

2009-10-25 | Weblog
 24日は東京・赤坂のサントリーホールへ中国人天才少年ピアニスト、ニュウニュウのコンサートを聴きに行った。3カ月くらい前に題名のない音楽会にニュウニュウが出演した際にその音色に聴き惚れて、その場で日本デビューのコンサートのチケットを買い求めた。生憎の雨のなか、開演の1時間くらい前にサントリーホールへ向かうとそれほどの人の列がなく、天才少年といっても一部のファンしか知らないのか、と思っていたら、どうしてどうして開演の午後7時にはほぼ満席となってしまったのには驚いた。
 舞台中央に置かれたピアノの前に現れた燕尾服姿のニュウニュウは前と後ろの観客席に向かってお辞儀をして、ピアノの前の椅子に座って演奏を始めた。演目は入り口で渡されたプログラムに沿って、まずモーツアルトの「ピアノ・ソナタ第16番」から始まった。続いて同じモーツアルトの「幻想曲ハ短調K.396」、「ロンド ニ短調K.485」と演奏され、流れるようなピアノタッチのなかで、時に力強い旋律があり、時には抒情豊かな旋律がある。とても12歳のピアニストが弾いているとは思えない音色が会場に広がってくる。
 ヒョロリとしたスリムな身体つきであるが、ピアノの前に座って弾いている姿を眺めていると、まるで成人男子が弾いているのではないか、と思えてくるほど堂々としている。しかも最後まで一切、楽譜を用意せずに空で演奏したのも驚きだった。普通、12歳の天才少年というと12歳という尺度をもって演奏を聴くが、ことニュウニュウについてはそれを遥かに超えたところにある。「12歳にしては」という形容詞が不要なほど、ミュウジシャンとして完成された域にまで達している、と思う。
 ベートーヴェンの「ピアノ・ソナタ第23番ハ短調 熱情」を弾き終わって、休憩となったが、ロビーには子供連れの家族はもちろん、幅広い聴衆が来ている感じがした。いつもの読響の定期演奏会と違って気取ったところもなく、ニュウニュウの人気をうかがわせた。
 後半はモーツアルトの「きらきら星変奏曲」から始まって、ショパンの12の練習曲、ドビッシーの前奏曲集、リストの「ハンガリー狂詩曲第2番嬰ハ短調」を弾いたが、いずれも見事な演奏ぶりだった。曲が終わるごとに前と後ろの観客席に向かって丁寧にお辞儀をするのは見ていて、初々しい感じがして好感が持てた。
 最後の曲を弾き終わって、ざっと2時間弾き続けたことになる。1日4~5時間は練習するニュウニュウにとって、なんということのないことなのだろう、と思っていると、男性の場内整備人に案内されて、観客が入ってきて前の方の席に座った。もう終わって聴くこともないのにと思っていると、あまり帰る人がいない。ということはこれからアンコール演奏があることをみんな知っているのだろうか、と思っていると、ニュニュウは大勢の観客がつめかけ、よほどうれしかったのだろう、カーテンコールに応えて、なんとアンコールを6回も行ったのにはまたまた驚いた。最初はカンパネラ、そしてミツバチのマーチ、3曲目は中国の曲を演奏し、最後の6曲目は日本の童謡「サクラ」をアレンジして演奏する大サービスぶりだった。ピアノのソロコンサートとはいえ、6回もアンコール曲を演奏するのは聞いたことがない。デビューコンサートが成功裡に終わったことで、感極まったのか、ここでもいかにもデビュー仕立ての初々しさがううかがえた。
 ニュウニュウは最後は周りの観客に四方拝する形で頭を下げて、楽屋に引っ込み、幕となった。で、最後まで一切、司会もなければ、曲目の紹介もない、言葉を発することのない、純粋にピアノ演奏だけを楽しむニュウニュウの独演会であった。
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民主党政権は子ども手当の段階的実施を即提案せよ

2009-10-24 | Weblog
 来年度予算の規模が市場最大規模となる見通しとなってきた。景気の先行きがおもわしくないため、内需新興への対策が欠かせないのと先の衆院総選挙で公約したマニュフェストに盛り込まれている子ども手当や高校授業料の完全無償化など新規の施策のために歳出増が避けられないためであるが、問題は景気低迷で税収が落ち込み、税収を上回る規模の国債の発行をしなければならないことだ。しかも国債の利払い費も相当な規模で膨らんでおり、このままいけば国家財政の破綻を引き起こしかねない。
 先週まとまった各省庁の2010年度概算要求の総額は前年度比6兆4901億円(7.3%)増の95兆381億円と過去最大の予算であった04年度の89兆1494億円を相当な規模で上回った。もちろん、麻生前政権時代のものをそのまま積み上げたのに、民主党政権となって子ども手当などを新規に織り込んだために野放図に膨れ上がった。民主党政権となって、従来の官僚主導から政治主導へ方向転換を図ることを言明しており、その最初のあかしともいうべきものが今回の予算編成で、どこまで民主党政権の意向が反映したものになるのか、と注目されていた。
 ところが、ふたを開けてみれば単に従来事業を積み上げたものに、民主党の新たな施策を付け加えただけの超ふくらみ予算となっただけで、民主党政権のお手並み拝見とばかりに官僚が瀬踏みしているものにとどまった。麻生内閣時代のツケを引きずったものといってもいい。
 仙石由人行政刷新相は「92兆円程度には抑制したい」と言明しているが、その程度ではとても国家財政は成り立っていかない。というのは景気低迷で、企業業績は伸びず、頼みの来年度税収が40兆円を下回りそうな見通しとなっており、となると税収を大幅に上回る国債を発行せざるを得なくなるからである。かつて2011年にはプライマリーバランス(基礎的財政収支)を実現する、といっていたのがはるかに遠い話となってしまう。
 24日付けの日本経済新聞によると、2009年度の国債の利払い費が8年ぶりに9兆円台に乗り、税収に対する国債の利払い費の比率が10年ぶりに20%を超える見通しとなった。一度、赤字体質となると、国家財政はとめどなく赤字のどろ沼に突っ込んでいくのは米国の例をみるまでもない。
 鳩山首相はかねて「予算を組み替えれば、国債を増発しなくても財源は捻出できる。借金は増やさない」と繰り返し言明してきたが、それを果たすためには92兆円に抑えるどころでなく、さらに大幅な予算カットをしないと追いつかない。ここは月に1人2万6千円の子ども手当や高校授業料の完全無償化などマニュフェストに織り込んだ公約を税収不足を理由に半減するようなことを提言してもいいだろう。国家財政をこれ以上悪化させるようなことは避けてほしい。
 子ども手当実施のための予算は2兆2554億円、高校授業料の完全無償化のたものそれは4501億円とされており、半減としても1兆3000億円程度に過ぎないが、民主党政権の象徴であるだけに心理的な効果は絶大だろう。実施にあたっては鳩山首相以下が、景気が好転したらマニュフェストの完全実施をする、と節を尽くして説明すれば納得が得られることだろう。
 
 
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母子の愛情を高らかに謳った感動の中国映画「追憶の切符」

2009-10-23 | Weblog
 NHK衛星放送で20日放送された中国の2008年のジェイコブ・チャン監督の映画「追憶の切符」を観賞した。NHKアジアフィルム・フェスティバルと銘打って、アジア各国の表彰作品を順次放映していたのをビデオに録ってみたもので、いまの中国社会の抱える貧富の格差のなかで、脈々と流れる家族の愛情を謳った格調高い作品で、中国映画のレベルの高さをうかがわせた秀作であった。母の子を思うシーンには思わず涙ぐんだほどで、韓国映画に次いで中国映画ブームの到来を予見させた。
 「追憶の切符」は北京でテレビのレポーターを務める主人公のスートンが難病をおして赤ちゃんを産もうとする女性をカメラで追うシーンから始まる。命をかけて子供を産もうとする夫婦を産院まで追い懸けて、夫から「いい加減にしてくれ」と拒絶され、深夜、撮影クルーと待合室で佇むところに田舎から携帯電話に「母が危篤だ」と連絡が入る。
 北京から遠い山の中にある実家へ戻ると、彼氏が出迎え、母親は余命いくばくもない状態で、ほどなく亡くなる。その寸前に主人公が母親の奉仕する修道院の玄関に捨てられた子であり、包まれていた産着に本当の実家である鉄道とバスの切符が入れてあった、と伝える。切符はいつか本当の実家を訪ねてほしい、との暗示であり、尋ねるといい、と母親は言い残して逝ったが、スートンはなかなかその気になれない。
 自分を捨てた親を怨む一方で、実の父母に会いたい、という気持ちで揺れ動き、彼氏に相談すると、「行った方が後悔しなくていい」という。それでも見つける方法が思いつかない、というと警察なり、役場に尋ねればわかるのでは、と言われ、やっとその気になり、2人でさらに遠い切符の行き先に向かう。2日かけて、その土地に降り立った2人は警察に行き、捨てられた当時に周辺で子供が失踪、もしくはいなくなった、と届け出のあった家の所在を尋ねる。1日経って、3軒が該当することが判明する。
 案内人を雇い、順番に回ることになる。最初の家では「実は病気で亡くなった」ことがわかり、次いで尋ねた家は大きな川を1人づつロープ伝いに渡る難所に住んでいる夫婦がそうだが、夫は病気で亡くなっており、奥さんだけが1人で住んでいる、という。空き家を訪れた2人は粗末な家の中を探し回るが収穫もなく、立ち去ろうとすると、入口の戸の上に差し込んである布が産着と同じであることを発見し、改めて写真立てを見る。
 その奥さんは小学校に泊まり込みで務めていることがわかり、そこへ行くとそれらしく女性がいるのがわかる。が、スートンは足がすくんで進まず、いまひとつその気になれず、車に戻ってしまう。ここまで来て引き返すのか、と怒った彼氏も車に乗り込む。それを見た案内人が当の奥さんを連れてきて、スートンは意を決して名乗りでる。ところが、意外や、母親と思われた女性は上司にあたる校長先生で、母親は「つい先日亡くなったばかりだ」と告げられる。
 校長先生から母親の遺品を渡され、点検しているうちに切符の束が転がりおち、いずれもがスートンの住む修道院までの往復切符であることがわかった。日付けをみると、修道院の年に1回の収穫祭の日で、集合写真まであった。そこになんとスートンのうしろに隠れて実の母親が写っていた。さらにスートンが大学を卒業した日には北京までの往復切符まであった。
 やむを得ぬ事情でスートンを捨てざるを得なかったものの、毎年1回はこうして我が子を見に遠い道のりをおしてきていたのだ。ところが、最初に修道院へ来た際の帰りの切符がなくて、どうやら歩いて帰ったことも判明した。画面は女性が山道を歩いている姿を感動的に映し出していた。
 で、終わればいいのに、最後に冒頭の産院のお母さんのシーンや男の親子連れが地下鉄ではぐれて再会するシーンを映し出していたのが余計だった。彼氏の実の父母に会いにいくシーンで使った自動車がトヨタ車だったのもあれっと思った。
 数年前に韓国の映画に感動した記憶があるが、この映画にもそれに似た感じを持った。
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日本郵政新社長に元官僚を据えざるを得なかった理由

2009-10-22 | Weblog
 21日は東京・地裁へ裁判の傍聴に行き、裁判所前に異常に多くの人がいて何事かと思ったら、酒井法子の旦那の高相祐一被告の覚せい剤取締法違反事件の裁判の傍聴券を求めての人の列だった。夕刻家に帰って、郵便ポストにある夕刊を見て、驚いた。各紙に注目の日本郵政の社長に斎藤次郎元大蔵次官を起用する、との見出しが踊っていたからだ。民主党政権が発足して1カ月強、「官僚依存から政治主導へ」をキャッチフレーズに55年の自民党政治の抜本的改革に乗り出しているのに、肝心の日本郵政の社長に官僚の象徴ともいえる元大蔵省の事務次官をもってくるのは逆行したものと受け止められても仕方ない、と思えたからで、折角民主党の実現をを支持してきたのに裏切られた気持ちは否定できなかった。
 もともと自民党寄りの日本経済新聞は「産業構造改革進まない恐れ」(白川浩道クレディ・スイス証券チーフ・エコノミスト)など識者のコメントからすべて批判的な記事でうめつくされ、毎日新聞も「昨年の日銀総裁人事のときに『財務省出身だからダメ』といっていて、一貫性がない」との大森理森自民党幹事長の談話を掲載しており、午後9時のNHKニュースも竹中平蔵元総務相の「わたりの元官僚をトップに据えるのは論外」とのコメントを流すなど総じて評判がよくない。
 民主党政権が先月16日に発足して1カ月余、八ツ場ダム建設計画の廃止や補正予算の約3兆円の執行停止、岡田外相の電撃的アフガン訪問など矢継ぎ早に成果を出してきており、世論調査でも鳩山内閣の支持率は依然として高率を保っている。なにせ55年もの長い間、自民党政権の温床にぬくぬくと育ってきた官僚依存の体質から政治家自らが考え、指揮する政治主導の体制をつくりあげよう、というのだから、おいそれとはいかない。
 政権交代が日常茶飯事に起きる米国のオバマ大統領ですら今年1月に就任して以来、100日はハネムーン期間として国民から見守られてきた。戦後初めてといっていいくらいの政権交代で、人によっては明治維新になぞらえる人もいるくらいの大改革が行われようといsているのだから、150日、もしくは半年くらいは猶予期間が与えられても然るべきだ、と思う。
 ただ、それも案件によるのかもしれない。自民党が小泉政権以来、旗頭にしてきた郵政民営化の路線を一大転換する日本郵政の社長人事となると民主党政権の根幹に関わる人事といってもいいだろう。西川善文前社長の後任に民間人をもってこよう、と複数名の候補者に打診したが、いずれも断られたようで、火中の栗を拾う人はいなかったようだ。どうやら鳩山首相と亀井静香郵政担当大臣との間で「本当に官僚OBで大丈夫か」と突っ込んだ議論が戦わされたようであるが、最後は亀井大臣が押し切って、斎藤社長が決まったようだ。
 元大蔵省を退いてから15年経っており、本人も「元官僚の意識はない」と言明しているものの、官僚OBであることは事実である。官僚の天下りはまかりならんと主張しているのに、15年経っているからといって日本郵政の社長に起用するのではいかにも説得力がない。亀井大臣が言うように郵政事業の改革を進めるのに最適の人物かもしれないが、いくらそう言われても元官僚のイメージは消えるわけではない。
 斎藤氏を副社長にして、日本郵政内部から社長へ昇格させる手もあったのでは、と思うが、いまとなってはもう遅い。とにかく西川前社長を更迭することから始まった今回の騒動はこうした形でしか収束するしかなかったとも思われる。半分は前自公政権時代のツケとでもいうしかないだろう。
 それにしても官僚の元ボスを起用した説明はすべきだろう。脱官僚といってもすべての官僚、官僚OBを排除しての政治は成り立たないだろう。とすると、政治家主導のもとに官僚、官僚OBを従えるということになるのだが、そのことをどういう形で理論構築し、国民に納得できるような説明をする、アカウンタビリティを果たさなければならないだろう。今回の人事についてもそうしたことをして、理解を得ることが必要だろう。
 あとは斎藤新社長に手腕を発揮してもらい、日本郵政をガラス張りの経営にして、改革を推し進めていってもらいたい、と祈るばかりだ。
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