鈍想愚感

何にでも興味を持つ一介の市井人。40年間をサラリーマンとして過ごしてきた経験を元に身の回りの出来事を勝手気ままに切る

千畳の總持寺本堂での迫力ある法戦式に参加して感激した

2009-11-18 | Weblog
 17日は横浜市鶴見の總持寺で行われた首座法戦式なるものに参加した。お世話になっている川崎市宮前区のお寺、長尾寺の見習い僧が首座に選抜され、僧になるための正式な儀式で、末端の檀家として招待されたようだった。總持寺でも1年に1、2回しか行われないもので、めったに見られない行事とあって、野次馬気分の参列した。雨の中、午前9時に大本山總持寺番積台に行くと、お寺の名前が張り出した受付台があり、名前を告げると待合室のような部屋に通され、30分ほど経ってから、本堂に案内され、法戦式なる儀式が始まった。
 93歳の禅師が登場し、一同3拝し、千畳という広い本堂の左手に座った首座となる若い見習い僧の後ろと前に控える約150人くらいの僧侶から、禅問答のようなものが丁々発止と繰り出され、これに対し首座は間髪を入れずに答えていく。問答の具体的な内容はよく聞き取れないが、どうやら悟りなり、身の処し方についてのやりとりのようで、淀みないやりとりで見る者に迫力は十分に伝わってきた。
 約30分にわたった問答は全部で25問で、どこから飛んでくるか、は分からないし、問答そのものは模範解答のようなものがることはあるが、その場にならないとどんな問いがだされるかは一切分からず、模範解答通りの答えではなく、自分なりの解釈を加えて回答しなければならず、それなりに緊張する、と終わった後に首座を語っていた。
 終わってから本堂を背景に僧侶一同が記念写真を撮り、その後に檀家が一同で記念写真を撮った。また、引見の間で、改めて禅師と檀家が対面し、ご苦労さんと言葉を交わし、さらには別室で僧侶と檀家一同がそろって精進料理を囲んでのお祝いの会が行われるに及んで、法戦式なるものが大変なことなのだ、ということがわかってきた。
 最初は興味だけで参加した法戦式が曹洞宗なり、仏教の世界でどのように位置つけられているか、何も知らないで参加したのだが、法戦式に臨むということがお寺なり、見習い僧にとって大変名誉なことであるか、ということがよくわかった。
 長尾寺との付き合いは15年くらい前に亡くなった母親の23回忌の法事を行わなくてはいけない、と思い、電話帳で近くの曹洞宗のお寺を探して、飛び込みで位牌を持ち込んで法要をしてもらったのが最初だった。それから数年して一緒に法要してもらった父親が亡くなって、葬式でお世話になって以来、法要のお経をお願いして、ずっと檀家の末端に加えてもらっている。
 だから、こんな派手なお祝いの会にまで加えていただいて、当初は面映ゆくて仕方なかった。法戦式に参加した他の檀家はお寺の住職と親しそうに話しているが、こちらはにわか檀家で、そんなに熱心な信者でもないので、小さくなっていた。
 受付でもらった紙袋のなかに紅白饅頭のほかに白檀のキーホルダー、それに長尾寺の名が刺繍してある檀家の襟掛けがあり、その襟掛けをつけるとなにやられっきとした長尾寺の檀家のような気分になってくる。これまで数年に1回程度の付き合いしかなかったが、これを機会にもっと檀家らしい活動もしなくてはいけないような気持ちになってきた。
 全部の行事を終えて、せっかくの機会だからと、別の若い僧の案内で總持寺の内部をひとわたり拝観した。通常なら入れないお釈迦さまを祭ってある佛殿に入ったり、初めて座禅を組む衆寮なる施設をみることができて、法戦式に参加できたことも含め意義ある一日だった。
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