最後のささげもの

 「すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか。」と言って互いに議論し合った。
 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
 これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」(ヨハネ6:52-58)

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 「彼ら」の疑問それ自体は、しごくもっともである。
 「どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか」。
 だが私たちは、確かなところイエスの肉を食らい、またイエスの血を飲んで、そうしてこんにちがある。

 イエスの血肉。
 それは、神にささげられた子羊や山羊が、その小さな相似形である。
 少し長くなるのだが、以下に引用する。

 「イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。もし家族が羊一頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。
 あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。
……
 そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。その夜、その肉を食べる。それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。
 あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。……これは主への過越のいけにえである。」(出12:3-11抄)

 ヨハネ6章は、過越の祭りを間近に控えている時のことを書いているので、この箇所を引用してみた。
 子羊や山羊は、いけにえ。
 神にささげるものだから、傷一つあってはならない。
 焼いたときに出る煙が神の分で、肉そのものはささげた人の取り分になる。
 しかも「食べなければならない」。

 肉をまとったイエスは、肉を持つにもかかわらず、ただの一度も罪を犯したことのないお方である。
 つまり、傷が全くない。
 そのイエスが、十字架という形でいけにえになられた。
 傷のあるいけにえは、神が受け入れなさらない。
 だから、世の罪を贖ういけにえは、イエスしかいない(参/ヘブル9:14)。

 だから、いけにえとなったイエスの肉を食らい血を飲め、そうイエス御自身が仰っている。
 それらを飲み食いしない限りは、その人はイエスとはまったくの無関係だ。
 そして、「飲み食い」ということば自体は抽象的なのだが、十字架がはっきりと見えてそこにたどり着いたとき、確かにそこにある「天から下ってきたパン」たるイエスの血肉を「飲み食い」することで、私たちは生き返って「いのち」を得ることができる(参/ヘブル7:23-25)。
 これは、「食べなければならない」ものだ。
 イエスはそのためにこそ、十字架に架かられた。
 子羊や山羊では、何度やっても無理だった(cf:ヘブル7:23-25)。

 だからイエスの十字架は、神から与えられた最後のいけにえである。
 この十字架を、はるか遠くから眺め見ても意味はない。
 すぐそばに寄って、その十字架に預かる必要がある。
 それはイエスの血肉を食らい、罪赦されて「いのち」を得るためだ。

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[付記]
 本日の記事は、2008年2月3日の記事をリファインしたものです。
 デフラグ作業も、あと少しです。

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