ことばにできない喜び

 「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。
……
 ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(1ペテロ1:8-9,18-19)

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 引き続きペテロの手紙第一から。

 「先祖から伝わったむなしい生き方」というのが、アダム以来の「死んでいる状態」。
 この状態から抜け出して「たましいの救い」を得させてくれるものは、お金や地位、肩書きというものでは、ない。
 単に「キリストの、尊い血」が注がれて洗われることによる。
 「単に」と書いた。確かに「単に」なのだが、求めて「はいよ」とすぐに得ることのできる類のものでもない。
 この「尊い血」は「傷もなく汚れもない」方のもの、すなわち、罪なき人があえて重罪人となって十字架で流した清い血を指す。
 たとえば私がメッタ斬りに遭って大量出血したとしても、そんな血は誰かの「たましいの救い」とは全く関係がない。
 罪にまみれすぎているからで、そのことはどの人も全く変わらない。

 罪にまみれすぎていたこの私が「ことばにできない喜び」に満ちあふれているということ。
 「うれしい」とか「たのしい」とか、……そういうように言語化できないもの。
 ただ、表面上喜んでいないようで、非常に喜んでいる。
 なんといっても、死んでいたのがよみがえったのだ。
 よみがえらせてくれた血を流してくださったキリストを、もちろん愛しているし、信じている。
 というより、ペテロによれば「信仰の結果」だという。
 個人的に思うことは、信仰というものは、献金の額とか奉仕の活発さとは、全く関係がない。
(ただ、教会に所属しているのであれば、これらの事々は義務だ。そして、義務以上のものではない。)
 いまや最後の望みが絶たれるというときですらキリストにだけ頼みを置くこと、これが信仰だ。
 そのときに、試される。

 「死んでいる状態」の最終局面である絶望は、「単に」清めの血に洗われることによって「ことばにできない喜び」に転じる。
 もちろんこれは、「いのち」をいただいた結果だ。
 この一連の流れ福音だと思う。
 イエスは度々仰る。「耳のある者は聞きなさい。」(マタイ11:15)


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