イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
イエスの愛
「イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
……
イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。
あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。
それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」(ヨハネ13:3-5,12-15)
---
イエスが師であり、ここにいる人たちはイエスの弟子だ。
主従関係は、イエス-弟子。弟子たちが、イエスに従いイエスから学ぶ存在である。
ところが、そのイエスが弟子たちの足を洗い始める。
人の足を洗うというのは、奴隷のする実に卑しい仕事だ。
そうすると、師であるイエスが弟子たちの奴隷になられたということになる。
イエスの愛とは、本来は神であられるのにもかかわらず、その地位をかなぐり捨てて奴隷として弟子に仕えることだった。
これが神の愛なのかと思う。
そしてイエスは仰る。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです」。
明日職場に行ったらさっそく左隣の奴の足を洗ってさしあげろとか、そんなとんちんかんな話をしているのではない。これでは「おともだちごっこ」だ。
自分のプライドをかなぐり捨ててでも、他者のために何かを行うこと。
これが神の愛、その小さな相似形だろう。
プライドをかなぐり捨てること自体は、比較的容易だ。もっぱら自分のためにならば。
他者のためにかなぐり捨てる、このことが難しい。
そしてこのことを為すことができるチャンスは、限られている。
(なにしろ神の愛なのだ。)
イエスは、公生涯を閉じる前日に、それをなされた。
神の愛を、存分に示された。
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それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
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あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。
それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」(ヨハネ13:3-5,12-15)
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イエスが師であり、ここにいる人たちはイエスの弟子だ。
主従関係は、イエス-弟子。弟子たちが、イエスに従いイエスから学ぶ存在である。
ところが、そのイエスが弟子たちの足を洗い始める。
人の足を洗うというのは、奴隷のする実に卑しい仕事だ。
そうすると、師であるイエスが弟子たちの奴隷になられたということになる。
イエスの愛とは、本来は神であられるのにもかかわらず、その地位をかなぐり捨てて奴隷として弟子に仕えることだった。
これが神の愛なのかと思う。
そしてイエスは仰る。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです」。
明日職場に行ったらさっそく左隣の奴の足を洗ってさしあげろとか、そんなとんちんかんな話をしているのではない。これでは「おともだちごっこ」だ。
自分のプライドをかなぐり捨ててでも、他者のために何かを行うこと。
これが神の愛、その小さな相似形だろう。
プライドをかなぐり捨てること自体は、比較的容易だ。もっぱら自分のためにならば。
他者のためにかなぐり捨てる、このことが難しい。
そしてこのことを為すことができるチャンスは、限られている。
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イエスは、公生涯を閉じる前日に、それをなされた。
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