羊はイエスを知る

 「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。」(ヨハネ10:14-15)

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 「わたしのものは、わたしを知っています」。
 イエスの囲いに属する者は、イエスを知っている。
 どのように知っているかというと、「わたしが父を知っているのと同様」だという。神の子イエスが神を知っている、というのと同様に、その人はイエスを知っている、といったあたりなのだろうか。
 「その人」とは「イエスの子」と、言ってもよいかも知れない。

 ただ、その人ははじめからそうと分かっていたわけではない。
 洗礼というものを受ければ分かる、というものでもない。
 まず、「わたしはわたしのものを知っています」とある。
 次に、「イエスの子」といつ気付くか、ということがある。
 このことに気付いたことを、何と呼んでも良い。「回心」、「新生」、「いのち」、「救い」……。
 「気付く」という言葉遣いは、誤りだ。
 「気付かされる」。
 つまり、ことこのことがらに関しては、人は、どこまでも受け身だ。
 どこから来てどこへゆくのか全く予想だにできない「風」次第だ(ヨハネ3:8)。

 イエスは密かにあなたをご存じに違いない。


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パウロの回心記録

 「そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ7:21-25)

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 ロマ書7章、ここを私はどれほど親しんだことか。
 なんといっても、「律法? そんなの守れっこないよな!」と「開き直る」ための理論武装として「悪用する」には恰好の箇所なのだから。
 ところで、昔日私が教会に入り浸っていた頃、「聖書の中でどこが一番好きか?」というお題での「分かち合い」なる名のミーティングが持たれたことを思い出した。
 私がロマ書7章だ、と言うと、ある人が「…暗いところが好きなんですね」と言っていたのが、今も印象深い。
 私は、ロマ書全体を俯瞰してはいない。だから、「ロマ書全体の中での7章の位置づけ」については、語る資格を全く有していない。
 それでもこれを書くのは、まさしく「ロマ書7章」のその「暗さ」故である。

 昔親しんだロマ書7章を、しかし昔とは全く異なる読み方をもって読んでみた。
 そう、確かに昔日ある人が言ったように、「暗い」箇所だ。
 そして、暗くて当たり前なのだ。
 この箇所は、パウロの「ざんげ録」、その類のように読み取れるのだが、いかがであろうか。
 「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」、かつてのパウロは、本当に心からそう叫んだであろう、そう勝手に想像している。
 そして、下の記事・ヨブ記と全く同様に、パウロも「ある一点」を、「ここ」で迎える。
 「そこ」について、パウロはこのロマ書7章で「沈黙」という手法を用いて、雄弁に語っているように思える。
 そして突然、全く唐突に「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」という、あふれんばかりの感謝の念の表明に切り替わる。
 文章として単に読み進めてゆくと、ここは「文脈」としては、ものの見事に、全くつながっていない。
 このこと自体については、前は全く分からなかった。

 「究極の苦悩の叫び」。
 「語られない沈黙の一点」。
 「歓びわきあがる、感謝の念の表明」

 そのように綴り上げたのではなかろうか、そう想像する「パウロの回心記録」、その論拠は、ロマ書7章の中でも、上に挙げた聖書箇所だけで十分かと、今は思う。

[おことわり]
 本日の記事は、昨年9月17日の第二の記事に修正を施したものです。
 今日からしばらく、旅に出るので不在です。


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律法は良いもの

 「私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。
 しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。
 それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。
 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。それは、戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。
 ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。」(ローマ7:5-12)

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 「律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう」とあるが、「むさぼりを知」ったのはパウロが律法を受け入れたことによる結果だ。
 受け入れなければ、その人はそもそも律法とは無関係であり、それはとりもなおさず神とも天とも無縁と言い切っていい。
 私は、日本人も含めて世界のほとんどの人々が、多かれ少なかれ、部分的にでも律法を受け入れていると思っている。
(ただ、「律法」という名称を知らないだけで。)

 そして、「戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました」。
(「戒めによって私を殺した」は同じ意味なので、以降は上の聖句を用いる。)
 律法が引き起こした罪は、その人を死に至らしめる。
 ここに言う「罪」、「死」は、メタファーなどではない。
 逮捕され死刑執行とも違うのだが、相当に直接的な比喩だ。
 罪( sin )に死ぬ、といおうか。
 死ななくては、どうしても生きないのだ。
 ここが事の焦点に当たる。
 それで、幾度も「死」とか「殺」といった本来忌むべき漢字が、引用箇所には頻出する。この局面では非常に大切な概念を表す漢字群だ。

 そうして、「私は死」ぬと、「新しい御霊によって仕え」るようになる。
 いいかえると、「いのち」が与えられる。
 目が見えるようになる。
 古い文字からのとらわれが、なくなる。
(古い文字が消えてなくなるのではない。)
 だから、「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いもの」なのだ。
 加えて、イエスが山上の説教で仰ったように、不滅だ(マタイ5:18)。
 そうすると律法とは、罪を罪であると受け入れさせ、その罪の中で古い自分が死に絶えてゆく、そのために与えられた神の聖なる文字といったあたりだろうか。
 そうであるから、パウロ同様、私も律法を「良いもの」と思っている。


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イエスが触れる

 「イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
 彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。
 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(ヨハネ9:35-41)

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 イエスが「シロアムの盲人」の目を見えるようにした箇所の終わりの方。

 ここしばらく、「目が見える」ということを書き続けている。
 今日聖書を開き上の箇所にさしかかると、なんだここにきれいに書かれてあるじゃないかと、ずっこけた。
 引用だけでおしまい、でもいいくらいだ。

 「目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるため」にイエスが来られたのだと仰る。
 「見える者が盲目」は、まあ文章の修飾上で対比表現をもってきただけだ。
 「見える者」などいなかったからこそ、キリスト・イエスが地上に来られた。
(「見える」と言っているだけの人は、上のパリサイ人をはじめ大勢だ。)

 手にしているこの聖書を何度読んでも、見えないものは見えないものだ。
 だがあるとき、見える。
 それは、「シロアムの盲人」に対してそうであったように、イエスが触れたときだ。
 生まれつきの盲人に、イエスが触れられた。
 「盲人が触れた」のではない。それでは、神と人との順位が逆だ。
 ましてや荒技や力づくでは、どうにもならない。
 イエスが触れられるのを、ただ祈り求めよう(マタイ7:7)。


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目から鱗

 「彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。
 彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。
 サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。
……
 そこでアナニヤは出かけて行って、その家にはいり、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中でお現われになった主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」
 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。
 そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。」(使9:4-9,17-20)

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 昨日記事を書いていて、ふと「目から鱗が……」と書き連ねていったら、それをそのまま書けばいいじゃないかと思いついた。
 「そのまま」が、上の引用箇所。全部だと長いので、大幅に省いた。
 慣用的に用いられている「目から鱗」は、この箇所、18節に由来する。
 ただ、その慣用的な用法の意味と上の引用箇所が意味するところとは、全く異なる。

 パリサイ人・サウロ(のちのパウロ)はイエスを信じる者達を迫害していた。
 彼の権限と迫害ぶりは、ますます増大する。
 そのサウロに、イエスが顕れる。
 というよりか、そこにいた人々と違って、サウロだけイエスが見えた。
 そして、やはり人々と違って、目が見えなくなる。

 その目が見えるようになったのは、アナニヤの祈りによる。
 すると、「目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった」。
 そしてサウロは今までの主義などかなぐり捨てて、「イエスは神の子であると宣べ伝え始め」る。
 サウロは正真正銘、目が見えるようになったのだ。

 このサウロのケースは、非常に稀で特殊なケースだろう。
 というより、この「サウロのケース」というのは「サウロにのみあり得るケース」だと思う。
 人それぞれ、「目から鱗が落ちる」ケースというのは異なるものだ。
 アウグスティヌスにしろ内村鑑三にしろ、やはりそれぞれ独自のケースだ。

 ただ、上に挙げた三者とも共通しているのは、目が開かれる直前まで、大きな悩み苦しみをとことん味わうことだ。
 サウロは、「三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった」。
 アウグスティヌスは著書「告白」に、内村鑑三は著書「余は如何にして基督教徒となりし乎」に、それぞれ直接当たって欲しい。
(1行2行で要約することは失礼だし、第一無理難題だ。)

 たくさんの人が、悩み苦しみつくしたその果てに、「いのち」を得て目が見えるようになった。ひとりひとり、ルートは異なる。
 こうして書いているこの時分にも、世界のどこかで、まさに鱗が取れようとしている人がいるに違いない。


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真理について

 「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」
 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。
 奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。
 ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」(ヨハネ8:31-36)

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 「自由」、この言葉もはき違えやすい。というか、様々な意味合いや解釈がある。
 だから、「奴隷」との対置ということを考えて、ここでは「主人から解放された状態」くらいにしておこう。

 ところで私は三遊亭圓歌さんの落語CDを持っている。その中でしばしば「お客さん、ここで笑ってくれないってのは、落語が分かってないってことなんですけど」というフレーズが出てくる。

 上の引用箇所に戻ってイエスは仰る。あなたがたは罪の奴隷だ、と。
 ここで「分からない」というのは、聖書がちっとも分かっていないということだ。
 けれど、失望したりへそを曲げたりする必要なんか全くない。
 「今は」という留保(ペンディング)が付いているから。
 最初から分かる人がいるとも、思えない。
 100回分からなくて、101回目に目から鱗が落ちればそれでよい。
 ともかく、あなたがたは罪の奴隷だ。

 しかし、真理がその罪の状態からあなたを自由にする。
 子が、つまりイエスが、あなたを自由にする。
 ここで「分からない」のは、やはり聖書がちっとも分かっていないということだ。
 ここも同様、「101回目の目から鱗」で、一向に差し支えない。じっさい、101回目に目を見開かせてくださるのは、イエスなのだ。
 主人から解放されて、「家」をでることが出来る。その家には、罪の大元であるサタンがとどまり続けるだけだ。そいつは追っても来ない。
 これが「自由」ということだ。
 良心の咎めのなさ、というと卑近だろうか(…やはりちょっと違うのだ)。

 101回目に目から鱗が落ちると、見えてくる。
 真理とはすなわちイエスそのものであることが。
(「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」ヨハネ14:6)
 だから真理というものは、辞書の一項目のようには書き表しようがない。
 それで、にわかにこう書き表してみても、「そうか!」と納得できる人というのもいないはずだ。
 総督ピラトがイエスに問うた「真理とは何ですか。」(ヨハネ16:38)が、どれだけ間の抜けたものかがお分かり頂ければと思う。
(真理に対して真理か? と問うている。)

 真理によって罪の奴隷状態から解放されたら、続いて「真理の奴隷」となる。
 「イエスの奴隷」だ。
(ローマ6:22には「神の奴隷」という聖句がある。)
 これはいわば、ことばあそびだ。
 全くの自主独立などという状態はあり得ず、確かにキリストの下に生きる。
 キリストのもとに生きるのだが、そのくびきは実に負いやすい(マタイ11:28-30)。「あの主人」の下でこき使われていたのとは、大違いだ。
 多分、この在り方を「真理の下にいる」と称するのだろうと思う。

 ただ、それにしても「真理」という日本語が当てはめられているが、もっとよい言葉がなかったのだろうかと思う。
 蓮の上で悟った物事のようなニュアンスがあり、それとこれとは全然異なる。


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十字架につけられたキリスト

 「知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(1コリント1:20-25)

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 信じるために、「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求」したのだそうだ。
 これは現在では、たとえば「アメリカ人はしるし、ドイツ人は知恵……」というよりか、「しるしタイプ」、「知恵タイプ」が全世界に混在している、というような感じだと思う。
 どちらにしても、「ほんとうのもの」を求めては、いない。
 もとより、「ほんとうのもの」がごろごろしているとも思えないので、無理もない。

 パウロははっきり書いている。
 「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝える」。
 特に初耳のギリシヤ人にとっては、「十字架につけられたキリスト」というのは、にわかには相手にできない話(しかも作り話かも知れない)という色彩が強いものだったろう。

 しかし、「十字架につけられたキリスト」が救いの全てだ。
 神が十字架(最高刑)に処せられて死に、三日後に復活する。
 これによって、救いの道が拓かれた。
 だからこそ、イエスはキリスト(救世主)なのだ。

 これ以上でもこれ以下でもない。
 愚かに見えようが何だろうが、これ以外には全く何もない。

 このキリストの十字架というのは、知恵ではない。
 学問でもない。
 ましてや話し合って生み出される類のものではない。
 「神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか」とあるが、特に十字架については、知恵をはるかに越えてしまっている。
 知恵では決して到達できやしない。
 学問? 何のために??
 こと救いということについては、「神は、この世の知恵を愚かなものにされた」のだ。

 「にわかには相手に出来ない話」を聞いて出来ることは、何か。
 それを信じて祈ることだけだ。
 十字架の救いを祈り続けて、待つ。ひたすら。
 それこそ愚かに見えるだろうが、これが救われるための神の知恵だ。
 そして、御心に適った祈りが聞き届けられるということについて、神を見くびる必要は、全くない。
 「救われる」ことは、明らかに神の御心に適っている。そうでなければイエスをこの世にお送りにならなかった。


 引用箇所の関係で「救い」ということばを用いたが、「復活」でも「いのち」でも、「回心」でも「新生」でも、言葉はなんでもよい。
(個人的には「いのち」が一番しっくりくる。ただ、残念なことに「いのち」というものをうまく書けないでいる。)


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偶像礼拝

 「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。
 神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。
 むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。
 ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。」(1コリント10:13-14)

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 天災が起こるとか、身近な人を失うとか、そのような深い悲しみ、苦しみに襲われるということは、ある。
 そういうときにしばしば聞くのが「神も仏もいないのか!」というものだが、気持ちは分かるが、「順序」があべこべだ。
 全ては神が造られ神の摂理の下に運行されているのだから。
 全ては、神の主権の下にある。
 すると、上に書いた天災や喪失というのすら、神が与えたもの、ということだ。

 「神はいないのか!」というのは、神は自分がこさえた道具であって、この存在は何でも自分の思い通りにしてくれる、というトーンが強い。
 これをこそ、偶像礼拝という。
 仏壇があることや、ましてや雛人形を飾る事というのは、偶像礼拝とは何の関係もない。そんなのは偶像でもなんでもない。
(非常に馬鹿らしい事例をたくさん見聞きしたので、思い出せばまだまだ出てくるはずだ。)
 「神を何でも自分の思い通りに……」が、偶像礼拝だ。
 「思い通りに」という気持ちで仏像に接するならば、それは確かに偶像礼拝だろう。
 同様に、「思い通りに」という気持ちで十字形状オブジェを仰ぐならば、これもまた、正真正銘の偶像礼拝だ。

 さて、試練は、神が下さるものだ。
 試練のなかった人というのは、いないか、神から全く見捨て去られた人だ。
 ともかく、全ての主権を有する神が下さるのが、試練だ。
 神の与えられるその試練は、耐えられないほどのものではない
 ヨブも耐えた。
 その試練が私たちを鍛錬するためであることは、聖書の何箇所かに書かれている。
(例えばヤコブ1:2-3。)
 神は更に二つのものを下さる。
 「試練」という炉の中で成長させ純化させるのに必要な時間。
 そして、その時間の先にある「脱出の道」。
 しばらくは炉の中であっても、その炉の中からは、抜け出るのだ。
 ただ、抜け出るのがいつなのか、これもまた神の主権である。
 自力でじたばたして、炉の中から無理矢理に出ることができるというのではない。
 だからこそ、「ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。」と続いている。

 この13節と14節とのつながりというのは、前は全く分からなかった。
 特に「ですから」という接続詞がついていることは、不可解さに拍車を掛けた。
 偶像礼拝を例えば仏像を見ることの意と解すると、依然として不可解だ。
 そうではなく、「試練はある、脱出の道も備えてくださる、だけどあなたの思い通りになるのとは全く違う」、この2節を一行で乱暴にまとめると、こういう意味になると思う。
 そしてこれは、神の主権を徹底的に認めるということを求められているように思う。

 「神を自分の思い通りに」という偶像礼拝については、個人的にはこれを自分の内にはっきり認めていること自体がもうけものだと、今の時点では思っている。
(なぜ「もうけもの」なのかが分かってくれる人がいらっしゃれば、更にもうけものだ。)

 最後に、タイトルを「神の主権」とどちらにしようか最後まで迷ったことを付記する(どちらでもよいと思う)。


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イエスなんかだいっきらいだった

 「イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」
 するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
  するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
 イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊をしかって言われた。「おしとつんぼの霊。わたしが、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度と、はいってはいけない。」(マルコ9:21-25)

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 今日は、私のきわめて個人的な話を書こうと思う。

 1999年、私は生まれて初めて教会というところに行き、そしてややして聖書を手にした。
 一神教としての「神」は、すぐに理解がいった。
 「聖霊」というのも、なんとなく分かったような気がした。
(今はかえって、分からないことにしている。)
 ところが、聖書の中で最も重要なイエス、このお方が「何なのか」さっぱりわからなかった。
 ずっと分からなかった。

 私は三位一体について書こうとしているのではない。
(そんなもん、書けない。)
 聖書を読んでいっても、イエスに対する共感や崇拝、同情の念の類を、どうしても抱くことができなかったのだ。
 このイエスという人は、人々を癒したり悪霊を追い出したりしているうちに十字架に架かって復活した、それがなんだというのだ、というのが正直なところだった。
 だから、ビデオや映画の類を見るとなおさら気持ちが離れていった。

 そのうち、だんだん、イエスが嫌いにすらなっていった。
 上の聖書箇所が、そのきっかけだ。
 「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」、この言い方が気に入らない。
 「イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると」、お前、ただの目立ちたがり屋じゃないか。

 ヨハネ福音書の中にも、イエスの言動にヒステリックさを感じ取ってしまい、ほとほと嫌気が差していた。

 大体にして聖書を読んでいてイエスが嫌では、まずいだろう。
 そういう思いがあったので、この嫌悪感は長年私を苦しませた。
 だが苦しもうが、嫌なものは嫌なのだ。

 さて今の私の内には、そのような感情は微塵も残っていない。
 私は今、イエスを心の底から愛し、つき従っている。
 「人」になられて使わされたのは、あくまでこのイエスなのだ(「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」ヨハネ1:14)。
 上記した聖書箇所は、次のように把握している。
 イエスは、どこまでもすがりつくような信心をお求めになる。
 たとえばツロ・フェニキアの女(マルコ7:25-30)のように。このような話は、随所に出てくる。
 また、しるしは大勢の人に見てもらうためにするものだ。1人よりは10人、10人よりは100人。
 その中から、1人でも救われる者が出るために。見えるようになるために。


 去年の今頃までは、私はまだ何一つ分かっていなかった。
 何も見えていなかった。

 イエスは、当時の最高刑・十字架に架かって死に、三日後に復活する。
 それと同じように、人が「見える」ようになるためには、自ら担いだ自分の十字架 -それは生涯の内で最も重たいものかも知れない- に「死ぬ」ことが、どうしても必要なのだと思う。
 見えなかったものが、(神がお造りなったそのままに)見えるようになること、これが復活ではないかという気がしている。
 それで今までも、イエスの十字架がこの道を切り開いてくれた、とたびたび書いた。

 渓流で遊んでいるところを想像して欲しい。
 ある地点では、ぽちゃぽちゃとお気楽にやっている。
 だが、突然流れの急な箇所にさしかかってしまい、もはや自分の身で自分を制御することが不可能となり、滝が流れ落ちるところまで行き着き、そして、落ちる。
 落ちてどうなるのかというと、一巻の終わり、なのではなく、そこは静かで涼しげだ。
 そこで、見えるようになる…。
 「自分の十字架」とは、このようなものだと思う。
(この話はイメージなので、実際に滝に落ちようとはしないように。)

 本ブログを私は昨年5月から始めているが、昨年9月を境に記事の内容は大きく様変わりし、また、大きな出来事等がなければ毎日書き連ねてきた。不思議と毎日、何かしら書くことは見つかった。
 象徴的な2つの記事をリンクしておこうと思う。

・自分の十字架に架かっている頃の記事……こちら
・聖書の見方が全く変わった最初の記事……こちら


 第二のリンク先でも書いたが、私にとってとどめは「私はいのちのパンです」(ヨハネ6:48)だ。
 このとき初めて、イエスが分かった。
 ぴちゃぴちゃやってた頃は、何度読んでも全く分からなかったものだ。
 そして第一のリンク先での記事は、まだ「滝に落ちる」よりも手前の記事だ。
(その証拠に、ブログを書けるだけの余力がある。聖書の引用にも、目を覆うものがある。)

 私は思う、かつてイエスをきらいであって良かったと。
 そうであったからこそ、イエスを見いだしたときの喜びが一層きらめいたのだから。
 イエスというのは私にとって、「私はいのちのパンです」という名のお方だ。
 だから私は、このお方なしには生きることができない。
 いったんできたイエスとの関係は、何しろイエスが不変なので、強固だ。
 かつて、訳が分かったふりなんかせずに、イエスなんかだいっきらいだと素直に思っていて、心底よかったと今は思う。
(ただ、そのことは誰にも言えなかったが。)

 イエスは、誰にとっても見いだされたがっている。
 だいっきらいで、一向に差し支えない。


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 「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」(マタイ6:22-23)

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 律法学者やパリサイ人のような「目の見えない人」のことを、少し前に書いた。
 また、まれには「目が見える人」もいたということを、十字架への道を歩むイエスに高価な油を注いだ女性を例に出して、やはり少し前に書いた。

 だから、「からだのあかりは目」なのだと思う。
 この「目」こそ、生命線だ。
 「健全」(開いている)ならば「全身が明る」く、「不健全」(目が閉じている)ならば「全身が暗い」。

 最初から目が健全な人は、いない。
 だから、はじめから全身の明るさを知っている人も、いない。
 ただ、自分の体の暗さに気付いた人というのは、いる。
 例えばニコデモ(ヨハネ福音書3章)が、そうだ。
 ふと気付いたとき、自分の体のそのあまりの暗さに、足がすくんでしまうのではなかろうか。

 上のニコデモに対し、イエスは次のように仰っている。

 「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3:8)

 風というのは、見えない。
 見えないのだが、確かにあることが分かる。
 確かにあるには違いないが、その由来すら分からない…。

 目が見えるようになること(私は「いのち」ともっぱら言っているし、「御霊」でもなんだっていい)、これは正にこの風と同じだ。
 どれだけうちわで扇いだって、やってこない。
 そのくせ、莫大な恵みがあって風に預かる。
 目が見え、体が明るくなる。
 そのためにイエスは、目薬まで用意してくださっている(「また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい」(黙示3:18))。

 ともかく、聖書の世界というのは、目が見えてからが始まりだと思う。


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