罪に気付く

 「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」(1ヨハネ1:6-10)

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 「私は罪など犯したことはない!」
 「ああ主よ、私は罪人の頭です」。
 どちらも極端だ。
 それに、罪、ということについて、的はずれだ。

 「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません」、これは全くもってそのとおりで、どの人も均等に罪がある。
 なぜなら皆、アダムの子孫なのだから。
 このことについては、こうある。
 「すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」(1コリント15:22)
 すべての人はアダムであるが故に死んでいる、これが「罪人」ということだ。

 アダムは、単に神からの命令を破ったというだけではない。
 「善悪の知識の木」の実を食してしまったのだ。
 それまで知らなかった善悪という概念を、知ってしまう。
 そういうわけで、人は善悪それ自体は知っている。
 完全な善というのは、神が示した律法群が照射する。
 もし善悪ということを知らなかったならば、私たちに罪はなかったろう。
(これは、盲人であれば罪はなかったろうがあなたは目が見えると言っているので、そのあなたには罪がある、とイエスが仰ったのと同じことだ。)
 だから、どの人にも均等に罪がある。
 「罪はない」、そんな人はいない。
ただ、気付くかどうかとは、また別だ。そして気付くところが「狭き門」への入り口にあたる。

 「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」。
 十字架の上で流されたキリストの血だけが、この罪をチャラにして下さる。
 罪それ自体はなくならないが、罪赦される。
 その「赦された」ということが心底分かって、深い安堵の息をする。
 上の1コリントの聖句だと「キリストによってすべての人が生かされるからです」が、この罪の赦しに当たる。

 「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
 そうかそれで……、と思うのだが、「罪を言い表す」という行為については大きく考えが隔たると思う。
 「主よ、悔い改めます」というのは、「罪を言い表す」というのとは全く違うというのが私の考えだ。
 そんなに簡単に言語化できるものは、「罪( sin )」ではない。
 この罪( sin )に気付き(このことは上に書いた)、罪を罪と認めることができた(具象化することができた)ときに、あの門は開くように思う。「言い表す」というのは、そういうことのような気がしてならない。

 では、どうすれば「罪」に気付くというのだろう。
 どの人の指導に与ればよいとか、誰それの本を読めばよい、というのは、ない。
 このことはあくまで神が主導権を握っている「恵み」なのだろう。
 だから、ただ祈り求め続けて、そしてもう忘れかけていた頃に「気付く」時が来る、そういう類のもののように思う。

 赦されるということに、人間の側から操作できる方程式や、ましてや必勝パターンは存在しない。
 神だけがご存じの道だ。どこまでも神に主権がある。
 その道の入り口、それは、罪に気付くことだ。
 「罪に気付くこと」は「当たり前のこと」からは程遠い。


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