イエスが触れる

 「イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
 彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。
 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(ヨハネ9:35-41)

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 イエスが「シロアムの盲人」の目を見えるようにした箇所の終わりの方。

 ここしばらく、「目が見える」ということを書き続けている。
 今日聖書を開き上の箇所にさしかかると、なんだここにきれいに書かれてあるじゃないかと、ずっこけた。
 引用だけでおしまい、でもいいくらいだ。

 「目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるため」にイエスが来られたのだと仰る。
 「見える者が盲目」は、まあ文章の修飾上で対比表現をもってきただけだ。
 「見える者」などいなかったからこそ、キリスト・イエスが地上に来られた。
(「見える」と言っているだけの人は、上のパリサイ人をはじめ大勢だ。)

 手にしているこの聖書を何度読んでも、見えないものは見えないものだ。
 だがあるとき、見える。
 それは、「シロアムの盲人」に対してそうであったように、イエスが触れたときだ。
 生まれつきの盲人に、イエスが触れられた。
 「盲人が触れた」のではない。それでは、神と人との順位が逆だ。
 ましてや荒技や力づくでは、どうにもならない。
 イエスが触れられるのを、ただ祈り求めよう(マタイ7:7)。


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