律法は良いもの

 「私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。
 しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。
 それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。
 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。それは、戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。
 ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。」(ローマ7:5-12)

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 「律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう」とあるが、「むさぼりを知」ったのはパウロが律法を受け入れたことによる結果だ。
 受け入れなければ、その人はそもそも律法とは無関係であり、それはとりもなおさず神とも天とも無縁と言い切っていい。
 私は、日本人も含めて世界のほとんどの人々が、多かれ少なかれ、部分的にでも律法を受け入れていると思っている。
(ただ、「律法」という名称を知らないだけで。)

 そして、「戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました」。
(「戒めによって私を殺した」は同じ意味なので、以降は上の聖句を用いる。)
 律法が引き起こした罪は、その人を死に至らしめる。
 ここに言う「罪」、「死」は、メタファーなどではない。
 逮捕され死刑執行とも違うのだが、相当に直接的な比喩だ。
 罪( sin )に死ぬ、といおうか。
 死ななくては、どうしても生きないのだ。
 ここが事の焦点に当たる。
 それで、幾度も「死」とか「殺」といった本来忌むべき漢字が、引用箇所には頻出する。この局面では非常に大切な概念を表す漢字群だ。

 そうして、「私は死」ぬと、「新しい御霊によって仕え」るようになる。
 いいかえると、「いのち」が与えられる。
 目が見えるようになる。
 古い文字からのとらわれが、なくなる。
(古い文字が消えてなくなるのではない。)
 だから、「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いもの」なのだ。
 加えて、イエスが山上の説教で仰ったように、不滅だ(マタイ5:18)。
 そうすると律法とは、罪を罪であると受け入れさせ、その罪の中で古い自分が死に絶えてゆく、そのために与えられた神の聖なる文字といったあたりだろうか。
 そうであるから、パウロ同様、私も律法を「良いもの」と思っている。


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