神の慈愛

 「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。
 そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。
 それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。
 ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。」(ローマ2:1-5)

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 私が2番目に行った教会には、私が密かに「悪口王」と陰口を叩いていた女性がいた。
 なにしろ「悪口王」なので、影で人の悪口ばっかり言っている。
 だが、私が彼女に「悪口王」とレッテルを貼るのだって、裁く行為には違いない。
 「さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。」は、このようなことを指す。
 私たちは、人を裁いてばっかりだ。

 しかしそんな人間とは対照的に、神は「豊かな慈愛と忍耐と寛容」をお持ちだ。
 「神の慈愛があなたを悔い改めに導く」ほどにまで、豊かな慈愛に富んでおられる。
 人を悔い改めへと至らせるのは、さばきではなく神の慈愛だ。
 悔い改めにまで導かれ、そして、人は救われる。
 「いのち」が与えられる。

 このことは、おそらく恵みなのだろう。
 というのは、続いて「かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、……」と続くからだ。
 この人は、未だ悔い改めに導かれていない。
 導かれないままなのか、いつか、やはりただ恵みによって導かれるのか、それは私には分からない。

 人が人を全く裁かない、ということがあり得るのだろうか。
 救われている人は?
 私には甚だ疑問だ。
 ただ、「悪口王」からは、これは意識して卒業しよう。
 聞いてて不快なのだ。
 イエスも仰る。
 「口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。これらは、人を汚すものです。」(マタイ15:18-20)


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