罪とは

 「私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。
 罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。
 キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。
 だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。」(1ヨハネ3:1-6)

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 罪( sin )とは何か、今まで全く書けないでいた。
 上の引用箇所には、「罪とは律法に逆らうこと」と明記されている。

 律法ということばを知る者は少なくとも、どの人の心にも、律法が刻み込まれている。
 神から直接授かった、完全な善の調和の世界だ。
 それに逆らったって、無論生きてゆくことはできる。それも、大手を振って堂々と。
(それは昔の私がそうであった。)

 ところが律法に全く逆らうことなく、律法通りにやってゆこうとすればするほど、その人は破綻してしまう。
 このことは、数回ロマ書7章について書いた。
 私は個人的に、律法とは、遙か彼方にあこがれを込めて仰ぎ見るしかないものだと思っている。
 つまり、どの人も律法に逆らい、結果、例外なく罪にまみれているのだ。

 この状態から逃れる道はない、そう思っていたら、「キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています」とある。
 キリストの、いけにえの十字架だ。
 キリストだけが唯一、この罪( sin )を取り除くことがおできになる。
 字義通り、その人に「キリストが現われた」時、キリストがほんとうに分かったときに、罪は取り除かれる。
 そして「私たちは、今すでに神の子ども」にさせていただける。
 アダムの違反からの解放! - 神はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことであろうか。

 罪( sin )それ自体については、依然としてまったくうまく書けない。
 少しずつでも、うまくゆくようになるといいのだが。


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