目から鱗

 「彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。
 彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。
 サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。
……
 そこでアナニヤは出かけて行って、その家にはいり、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中でお現われになった主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」
 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。
 そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。」(使9:4-9,17-20)

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 昨日記事を書いていて、ふと「目から鱗が……」と書き連ねていったら、それをそのまま書けばいいじゃないかと思いついた。
 「そのまま」が、上の引用箇所。全部だと長いので、大幅に省いた。
 慣用的に用いられている「目から鱗」は、この箇所、18節に由来する。
 ただ、その慣用的な用法の意味と上の引用箇所が意味するところとは、全く異なる。

 パリサイ人・サウロ(のちのパウロ)はイエスを信じる者達を迫害していた。
 彼の権限と迫害ぶりは、ますます増大する。
 そのサウロに、イエスが顕れる。
 というよりか、そこにいた人々と違って、サウロだけイエスが見えた。
 そして、やはり人々と違って、目が見えなくなる。

 その目が見えるようになったのは、アナニヤの祈りによる。
 すると、「目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった」。
 そしてサウロは今までの主義などかなぐり捨てて、「イエスは神の子であると宣べ伝え始め」る。
 サウロは正真正銘、目が見えるようになったのだ。

 このサウロのケースは、非常に稀で特殊なケースだろう。
 というより、この「サウロのケース」というのは「サウロにのみあり得るケース」だと思う。
 人それぞれ、「目から鱗が落ちる」ケースというのは異なるものだ。
 アウグスティヌスにしろ内村鑑三にしろ、やはりそれぞれ独自のケースだ。

 ただ、上に挙げた三者とも共通しているのは、目が開かれる直前まで、大きな悩み苦しみをとことん味わうことだ。
 サウロは、「三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった」。
 アウグスティヌスは著書「告白」に、内村鑑三は著書「余は如何にして基督教徒となりし乎」に、それぞれ直接当たって欲しい。
(1行2行で要約することは失礼だし、第一無理難題だ。)

 たくさんの人が、悩み苦しみつくしたその果てに、「いのち」を得て目が見えるようになった。ひとりひとり、ルートは異なる。
 こうして書いているこの時分にも、世界のどこかで、まさに鱗が取れようとしている人がいるに違いない。


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