真理について

 「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」
 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。
 奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。
 ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」(ヨハネ8:31-36)

---

 「自由」、この言葉もはき違えやすい。というか、様々な意味合いや解釈がある。
 だから、「奴隷」との対置ということを考えて、ここでは「主人から解放された状態」くらいにしておこう。

 ところで私は三遊亭圓歌さんの落語CDを持っている。その中でしばしば「お客さん、ここで笑ってくれないってのは、落語が分かってないってことなんですけど」というフレーズが出てくる。

 上の引用箇所に戻ってイエスは仰る。あなたがたは罪の奴隷だ、と。
 ここで「分からない」というのは、聖書がちっとも分かっていないということだ。
 けれど、失望したりへそを曲げたりする必要なんか全くない。
 「今は」という留保(ペンディング)が付いているから。
 最初から分かる人がいるとも、思えない。
 100回分からなくて、101回目に目から鱗が落ちればそれでよい。
 ともかく、あなたがたは罪の奴隷だ。

 しかし、真理がその罪の状態からあなたを自由にする。
 子が、つまりイエスが、あなたを自由にする。
 ここで「分からない」のは、やはり聖書がちっとも分かっていないということだ。
 ここも同様、「101回目の目から鱗」で、一向に差し支えない。じっさい、101回目に目を見開かせてくださるのは、イエスなのだ。
 主人から解放されて、「家」をでることが出来る。その家には、罪の大元であるサタンがとどまり続けるだけだ。そいつは追っても来ない。
 これが「自由」ということだ。
 良心の咎めのなさ、というと卑近だろうか(…やはりちょっと違うのだ)。

 101回目に目から鱗が落ちると、見えてくる。
 真理とはすなわちイエスそのものであることが。
(「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」ヨハネ14:6)
 だから真理というものは、辞書の一項目のようには書き表しようがない。
 それで、にわかにこう書き表してみても、「そうか!」と納得できる人というのもいないはずだ。
 総督ピラトがイエスに問うた「真理とは何ですか。」(ヨハネ16:38)が、どれだけ間の抜けたものかがお分かり頂ければと思う。
(真理に対して真理か? と問うている。)

 真理によって罪の奴隷状態から解放されたら、続いて「真理の奴隷」となる。
 「イエスの奴隷」だ。
(ローマ6:22には「神の奴隷」という聖句がある。)
 これはいわば、ことばあそびだ。
 全くの自主独立などという状態はあり得ず、確かにキリストの下に生きる。
 キリストのもとに生きるのだが、そのくびきは実に負いやすい(マタイ11:28-30)。「あの主人」の下でこき使われていたのとは、大違いだ。
 多分、この在り方を「真理の下にいる」と称するのだろうと思う。

 ただ、それにしても「真理」という日本語が当てはめられているが、もっとよい言葉がなかったのだろうかと思う。
 蓮の上で悟った物事のようなニュアンスがあり、それとこれとは全然異なる。


---
 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )