十字架につけられたキリスト

 「知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(1コリント1:20-25)

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 信じるために、「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求」したのだそうだ。
 これは現在では、たとえば「アメリカ人はしるし、ドイツ人は知恵……」というよりか、「しるしタイプ」、「知恵タイプ」が全世界に混在している、というような感じだと思う。
 どちらにしても、「ほんとうのもの」を求めては、いない。
 もとより、「ほんとうのもの」がごろごろしているとも思えないので、無理もない。

 パウロははっきり書いている。
 「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝える」。
 特に初耳のギリシヤ人にとっては、「十字架につけられたキリスト」というのは、にわかには相手にできない話(しかも作り話かも知れない)という色彩が強いものだったろう。

 しかし、「十字架につけられたキリスト」が救いの全てだ。
 神が十字架(最高刑)に処せられて死に、三日後に復活する。
 これによって、救いの道が拓かれた。
 だからこそ、イエスはキリスト(救世主)なのだ。

 これ以上でもこれ以下でもない。
 愚かに見えようが何だろうが、これ以外には全く何もない。

 このキリストの十字架というのは、知恵ではない。
 学問でもない。
 ましてや話し合って生み出される類のものではない。
 「神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか」とあるが、特に十字架については、知恵をはるかに越えてしまっている。
 知恵では決して到達できやしない。
 学問? 何のために??
 こと救いということについては、「神は、この世の知恵を愚かなものにされた」のだ。

 「にわかには相手に出来ない話」を聞いて出来ることは、何か。
 それを信じて祈ることだけだ。
 十字架の救いを祈り続けて、待つ。ひたすら。
 それこそ愚かに見えるだろうが、これが救われるための神の知恵だ。
 そして、御心に適った祈りが聞き届けられるということについて、神を見くびる必要は、全くない。
 「救われる」ことは、明らかに神の御心に適っている。そうでなければイエスをこの世にお送りにならなかった。


 引用箇所の関係で「救い」ということばを用いたが、「復活」でも「いのち」でも、「回心」でも「新生」でも、言葉はなんでもよい。
(個人的には「いのち」が一番しっくりくる。ただ、残念なことに「いのち」というものをうまく書けないでいる。)


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