羊はイエスを知る

 「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。」(ヨハネ10:14-15)

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 「わたしのものは、わたしを知っています」。
 イエスの囲いに属する者は、イエスを知っている。
 どのように知っているかというと、「わたしが父を知っているのと同様」だという。神の子イエスが神を知っている、というのと同様に、その人はイエスを知っている、といったあたりなのだろうか。
 「その人」とは「イエスの子」と、言ってもよいかも知れない。

 ただ、その人ははじめからそうと分かっていたわけではない。
 洗礼というものを受ければ分かる、というものでもない。
 まず、「わたしはわたしのものを知っています」とある。
 次に、「イエスの子」といつ気付くか、ということがある。
 このことに気付いたことを、何と呼んでも良い。「回心」、「新生」、「いのち」、「救い」……。
 「気付く」という言葉遣いは、誤りだ。
 「気付かされる」。
 つまり、ことこのことがらに関しては、人は、どこまでも受け身だ。
 どこから来てどこへゆくのか全く予想だにできない「風」次第だ(ヨハネ3:8)。

 イエスは密かにあなたをご存じに違いない。


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