信じて祈る

 「イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。
 あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」(マタイ21:21-22)

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 タイトルを「信じて祈る」とした。
 これは、「信じますから、祈ります。願いを叶えてください。」という意味で付けたタイトルでは、ない。

 ついこの前、ブルドックソースへの敵対的TOBが失敗したというニュースがあった。
(”TOB”というのがなんなのか、さっぱりわからないのだが。)
 だがらこの話でたとえを作れば、「神よ! ブルドックソースの株券百万株を私の手中に与えてください」という内容の「祈り」なんて、断食しようが砂漠に行こうが、届きすらしない。
 「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます」。
 「信じて祈り求める」のならば、その祈りの主は「信じて」いるわけだから、そもそもブルドックソースの株券というものを欲しい、会社を無理矢理にでも買収したいという発想自体、出てこない。

 つまり、信仰に基づく祈りというのは、おのずと「種類」が限られてくる。
 「信じますから、祈ります。願いを叶えてください。」というのは、全く信じていないからそういう口上になってしまう。
 限られてくる「種類」とは、「御心に叶った祈り」というやつだ。
(この言葉は好きではないが、便利なので嫌々使った。)
 御心に叶った祈りであるなら、山は海に入るだろう。
 そうなることが御心だからだ。
 だから祈ろう。
 そこには、神とのつながりがある(参/ヨハネ15:7)
 だから、祈ることほど大切なことはない。生命線と言っていい。


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