イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
Do you know …… ?
「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」
ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。」(ヨハネ14:6-9)
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ピリポがとんちんかんな問いを、イエスに投げかけている。
いや、ピリポの気持ちは良く分かる。
前は私だって、ピリポの発言の方に頷いていた。
イエスは仰る。
ピリポ、長い間一緒にいたあなたも、私を知らなかったのですか、と。
間近に見ているからイエスを知っている、ということでは、全くない。
それは例えば、美空ひばりさんのファンだからといって彼女を「知っている」ことからは程遠いということと同じだ。
美空ひばりのCDや映画を何度観たって、「美空ひばりを知る」ことはできない。
イエスも同じだ。聖書を何度読んでも、讃美歌をどれだけ美しく歌おうとも、断食祈祷に挑んでも、これらのこと自体によってイエスを「知る」ということは、ない。
ところが、美空ひばりと違って、「イエスを知る」ことは、できてしまう。
イエス御自身がその道であり、その道を通ってイエスに至りイエスを知る。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」とあるのは、ほんとうだ。
狭き門より入るこの道を見いだすことができるならば、幸いだ。「いのち」を得る唯一の道だ。この道を見いだすための準備として、ひごろ聖書を読み讃美するというもののような気もする。
ただ、この道の入り口を通過することは、今まで体験したことがないほどに苦しいはずだ。
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あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」
ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。」(ヨハネ14:6-9)
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ピリポがとんちんかんな問いを、イエスに投げかけている。
いや、ピリポの気持ちは良く分かる。
前は私だって、ピリポの発言の方に頷いていた。
イエスは仰る。
ピリポ、長い間一緒にいたあなたも、私を知らなかったのですか、と。
間近に見ているからイエスを知っている、ということでは、全くない。
それは例えば、美空ひばりさんのファンだからといって彼女を「知っている」ことからは程遠いということと同じだ。
美空ひばりのCDや映画を何度観たって、「美空ひばりを知る」ことはできない。
イエスも同じだ。聖書を何度読んでも、讃美歌をどれだけ美しく歌おうとも、断食祈祷に挑んでも、これらのこと自体によってイエスを「知る」ということは、ない。
ところが、美空ひばりと違って、「イエスを知る」ことは、できてしまう。
イエス御自身がその道であり、その道を通ってイエスに至りイエスを知る。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」とあるのは、ほんとうだ。
狭き門より入るこの道を見いだすことができるならば、幸いだ。「いのち」を得る唯一の道だ。この道を見いだすための準備として、ひごろ聖書を読み讃美するというもののような気もする。
ただ、この道の入り口を通過することは、今まで体験したことがないほどに苦しいはずだ。
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