『偉い』という物差し

 「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」
 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、言われた。
 「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。
  だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」(マタイ18:1-4)

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 「子どものように自分を低くする者」。
 自分を低くする、とは、どういう意味だろう?
 謙遜な子どもというのは、もしいたら、かえって気持ちが悪い。
 そもそも「子ども」というのは何歳あたりの子を指すのであろうか。

 それにしても弟子というのは、ひどい連中ばかりだと思う。
 誰が一番偉いかなんてことばかり、言い合っている(ほかにも例えばマルコ9:34)。
 「偉い」というのは、その、どーでもいいことなんじゃないのか……。
 しかも「一番偉い」と、妙なことで比較して競い合っている。

 何歳の子どもを想像すればよいものやら分からないのだが、まず確実に言えることは、大人よりも無知で未熟で無力な存在ということだ。
 子ども同士でならば、そういったことでいさかいもあるだろう。
 しかし、百人の子どもがかかっても一人の大人には到底勝てない。
 それくらいに子どもは無力だ。このことは、概ね妥当だろう。
 そして子どもは案外、自分の無力さを知っている。
 駄々をこねて泣くしかない存在であることを、密かに知っている。
 「子どものように自分を低くする者」、それは、この子どものように自分の無力さを分かっている者ではないだろうか。
 神の御前には、どだい何人も無力なのだ。

 神の御前に全く無力であることを認めたとき、「偉い」という物差しに意味は全くなくなる。
 神とその他大勢の人々、その他大勢の中の自分、このような位置付けになろうか。
 イエスは弟子に合わせて「自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人」と仰っているが、「偉い」という物差しを放擲した状態を「よし」としているだけだと思う。
 「よし」とは、「天の御国」の物差しに合うということだ。

 「偉い」を放擲することは、恐らく自力ではできないのではないかと思う。
 大人が子どもに戻ることは、非常に難しいことだ。
 しかし、「神にはどんなことでもでき」る(マタイ19:26)ものだ。

 ちなみに、「低い」というのは「謙遜」という意味ではないような気がする。
 少なくとも福音書には、この言葉は全く使用されていない。
(新約聖書全体でも、6箇所だけだ。)
 思うに、「低い」というのは「神-人」の関係性で用いられる一方、「謙遜」は「人-人」の関係性で用いられるところからして、意味合いとして大きく異なってくるのではないかと思う。


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