手入れ

 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」(ヨハネ15:1-2新共同訳)

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 この聖書箇所は、ちょっと残酷だ。
 だが、残酷であろうがなんだろうが、その通りだ。

 2つのことを、イエスは仰る。
 ひとつ、イエスにつながっているかどうか。
 ふたつ、つながっていて実を結んでいるかどうか。

 では、「実」とは何なのだろう。
 それは私には、分からない。
 有形の(あるいは表面上の)振る舞いなのかも知れない。
 無形の(あるいは内面最奥部の)何かなのかも知れない。
 この「実」というのもまた、神が判断なされ、神がお喜びになる類のものなのだろう。
 神は、「実」のない「枝」を切り取ってしまう。
 そして「実」を結んでいる「枝」に、神は「手入れ」をなさる。さらに多くの実を結ぶためだ。
 必要なところには更に養分を回し、養分を無駄食いする箇所はこそげ落とす。

 「手入れ」は、新改訳では「刈り込み」となっている。つまり、剪定作業だ。
 すると、「手入れ」されている「枝」というのは、実は痛みの類を感じるはずだ。
 その「痛み」の感覚は、しいていえば、「手入れ」していただいていることの証拠、切り取られないことの証拠なのだろう。

 そうはいっても、まずはイエスにつながることだ。
 これは、とりもなおさずイエスと人格的に出会うということを意味する。
 その上で、「痛み」の類があるかどうか。
 イエスを信じればハッピーでサクセスなんてことは、聖書には1行たりとも書いていない。
 逆に、たとえばこうある。「そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。」(マタイ24:9)
 ところが、これらにはるか勝るものを、イエスにつながることによってイエスは下さる。
 「いのち」だ。
 これこそ、「実」かも知れない。
 少々の痛みを伴っても、更に豊かに「実」を結ぶ。


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