信仰と行い

 「ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。
 私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。
 あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
 人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。
 同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められたではありませんか。
 たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。」(ヤコブ2:21-26)

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 「信仰による義」、「行いによる義」。
 上のヤコブ書の引用箇所中、ヤコブは「義」の根拠を「イサクをささげたこと」に置いている。
 一方でパウロは、老齢のアブラハムとサラであっても子を授かるという神の約束を信じたことを「義」の根拠にしている(ローマ3:19-22)。
 根拠が全く違うから、言っていることもおのずと全く異なる。
 ロマ書3章によって救われたルターは、ヤコブ書を「藁の書」と呼んだほどだ。

 だが、アブラハムがイサクをささげたというのは、「行い」だろうか?
 どこまでも神を信じたという「信仰」、その結果ではあるまいか。
 すると、子が生まれることを信じることも「信仰」だろう。
 遊女ラハブのしたこと(ヨシュア記2章)は、「親切」以上の何だというのだ?

 ところで「義」と認めるのは、神だ。
 周囲の人ではない。
 たとえ教会という組織の中であっても、それは同じだ。
 神のみが「義」と認めてくださる。
 そしてそのことは、本人にしか分からない。
 このこともまた、「救い」でも「いのち」でも「回心」でも、ラベルは何でもいい。
 いままでの死んでいた信仰は、ひそやかに本物の信仰へと変容する。

 その人の行いは、一見何も変わらないだろう。
 周囲の人からは、行動上の変化は見いだされない。
(というより、その人は行動を隠す。マタイ6:3-4。)
 ただ、神はその人の行いの変化をお喜びになられる。
 その人は次々と豊かな実を付けてゆく。
 この実も、周囲の人は気付きもしない。
 神がお喜びになる実だ。
 このように、信じればおのずと、人知れず行いにつながる。

 アブラハムがイサクをささげたとき、周囲に誰かがいたであろうか。
 信仰は、どこまでも神-人の関係(信頼関係とまで言っていいと思う。)であるから、周囲の視線や思惑などどうでもいいのだ。
 だから「人知れた行い」は、行いでも何でもない。
 上に書いたマタイ6:3-4には、こうある。
 「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」


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