イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
私の敵
「主よ。私はあなたをあがめます。
あなたが私を引き上げ、
私の敵を喜ばせることはされなかったからです。
私の神、主よ。
私があなたに叫び求めると、
あなたは私を、いやされました。
主よ。あなたは私のたましいをよみから引き上げ、
私が穴に下って行かないように、
私を生かしておかれました。
聖徒たちよ。主をほめ歌え。
その聖なる御名に感謝せよ。
まことに、御怒りはつかの間、
いのちは恩寵のうちにある。
夕暮れには涙が宿っても、
朝明けには喜びの叫びがある。
私が栄えたときに、私はこう言った。
「私は決してゆるがされない。」(詩30:1-6)
---
6節まで入れるかどうか、随分迷った。
もともと私には、詩を読む趣味は全くなかった。
最初に行った教会の主任牧師が妙に人を見る目を持っていて、「君は詩篇を読むといい」とご指導を賜り、それでいやいや「150の詩」を読み始めた。
読み終えて思ったことは、第一に、あーやれやれ二度と読むものか、ということ、第二に、それにしてもダビデって人は敵だ味方だって気性が激しいな、ということだった。
(ダビデの物語自体を知らなかった頃のことだ。)
私は根が真面目なので、「150の詩」は、いやいやではあっても、何度読んだか分からないほど読んだものだ。
今ではすっかり詩篇に親しむようになった。
とりわけダビデの詩には不思議な慰めを覚えるのだから、不思議なものだ。 詩篇を引用する日は、前夜、寝付けなくて詩篇を開いていたということが多い。
夕べは、上の30篇がたまたまめくれた。
「私の敵」というのは、ダビデは戦いにつぐ戦いの人生を送ったから、例えばサウル王といった具体的な人(人々)について詠っているのだろう。
ところがこの「私の敵」を「死」とか「よみ」とか、まあ詳しいことは分からないのだが、黙示録に言う「第二の死」(黙21:8)のようなものではないか、そう考えてみたら、すとんと腑に落ちた。
「死」と「いのち」とが、対置されて読まれている。
これはやはり、十字架の約束を詠っている詩ではないか、というように思えてくる。
「死」を通り越して頂いた約束の「いのち」は、確かにゆるがされることがない。
この約束が無効になったりはしないのだから。
神は「私が穴に下って行かないように」してくださる。
そこまで下らない程度には、「よみに置かれたり」、「御怒りが下ったり」する。
これらは十字架での死のメタファーだ。
6節の「私は決してゆるがされない」というのは、いかにも旧約的なフレーズだ。
それをそのまま「繁栄がゆるがない」とは取らずに、「頂いたいのち」がゆるがない、と捉えるならば、意味自体としても、十字架の原理としてもすんなりとつながる。
それで6節を外すのは実にもったいことだと、入れることにした。
---
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どうもランキングに振り回されて、というか、期待に応えようという、持たなくてもいい類のプレッシャーを感じてしまうので、まあこれからは、今まで通り、思ったこと気付いたことを淡々と書いていこうと思っています。
あなたが私を引き上げ、
私の敵を喜ばせることはされなかったからです。
私の神、主よ。
私があなたに叫び求めると、
あなたは私を、いやされました。
主よ。あなたは私のたましいをよみから引き上げ、
私が穴に下って行かないように、
私を生かしておかれました。
聖徒たちよ。主をほめ歌え。
その聖なる御名に感謝せよ。
まことに、御怒りはつかの間、
いのちは恩寵のうちにある。
夕暮れには涙が宿っても、
朝明けには喜びの叫びがある。
私が栄えたときに、私はこう言った。
「私は決してゆるがされない。」(詩30:1-6)
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6節まで入れるかどうか、随分迷った。
もともと私には、詩を読む趣味は全くなかった。
最初に行った教会の主任牧師が妙に人を見る目を持っていて、「君は詩篇を読むといい」とご指導を賜り、それでいやいや「150の詩」を読み始めた。
読み終えて思ったことは、第一に、あーやれやれ二度と読むものか、ということ、第二に、それにしてもダビデって人は敵だ味方だって気性が激しいな、ということだった。
(ダビデの物語自体を知らなかった頃のことだ。)
私は根が真面目なので、「150の詩」は、いやいやではあっても、何度読んだか分からないほど読んだものだ。
今ではすっかり詩篇に親しむようになった。
とりわけダビデの詩には不思議な慰めを覚えるのだから、不思議なものだ。 詩篇を引用する日は、前夜、寝付けなくて詩篇を開いていたということが多い。
夕べは、上の30篇がたまたまめくれた。
「私の敵」というのは、ダビデは戦いにつぐ戦いの人生を送ったから、例えばサウル王といった具体的な人(人々)について詠っているのだろう。
ところがこの「私の敵」を「死」とか「よみ」とか、まあ詳しいことは分からないのだが、黙示録に言う「第二の死」(黙21:8)のようなものではないか、そう考えてみたら、すとんと腑に落ちた。
「死」と「いのち」とが、対置されて読まれている。
これはやはり、十字架の約束を詠っている詩ではないか、というように思えてくる。
「死」を通り越して頂いた約束の「いのち」は、確かにゆるがされることがない。
この約束が無効になったりはしないのだから。
神は「私が穴に下って行かないように」してくださる。
そこまで下らない程度には、「よみに置かれたり」、「御怒りが下ったり」する。
これらは十字架での死のメタファーだ。
6節の「私は決してゆるがされない」というのは、いかにも旧約的なフレーズだ。
それをそのまま「繁栄がゆるがない」とは取らずに、「頂いたいのち」がゆるがない、と捉えるならば、意味自体としても、十字架の原理としてもすんなりとつながる。
それで6節を外すのは実にもったいことだと、入れることにした。
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どうもランキングに振り回されて、というか、期待に応えようという、持たなくてもいい類のプレッシャーを感じてしまうので、まあこれからは、今まで通り、思ったこと気付いたことを淡々と書いていこうと思っています。
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