富と物質と快楽の果て

 「私は事業を拡張し、邸宅を建て、ぶどう畑を設け、庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。木の茂った森を潤すために池も造った。
 私は男女の奴隷を得た。私には家で生まれた奴隷があった。私には、私より先にエルサレムにいただれよりも多くの牛や羊もあった。
 私はまた、銀や金、それに王たちや諸州の宝も集めた。私は男女の歌うたいをつくり、人の子らの快楽である多くのそばめを手に入れた。
……
 私は、私より先にエルサレムにいただれよりも偉大な者となった。しかも、私の知恵は私から離れなかった。
 私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。
 しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」(伝2:4-11)

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 この伝道者の書(コヘレトの言葉)の作者は、ソロモンだろう。 「エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。」(伝1:1)を、私はほぼ額面通りに受け入れている。
 彼は、知恵のある人だった。
 知恵によって国を興隆させ、「ソロモンの栄華」(マタイ6:29)にまで至った。
 だが、そこでおぼれてしまい、妻700人、そばめも300人という王様に堕してしまう。
 さくじつ「マモニズム」という語句を用いたが、聖書の中でソロモンほどマモニズムを地で行った人もいないだろう。
 そしてソロモン没後、栄華を極めたはずのイスラエル王国は、あっという間に瓦解して南北に分裂する。
 これらのことは、史書に記されている。

 「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。」(伝12:1)

 この箇所に至っては、老ソロモンの絶望感に満ちた叫びという感すらある。
 ソロモンはダビデと違って、神に頼まずもっぱら自らの知恵に頼って成功しまった。そこでおぼれてしまって、あれこれマテリアルでこころ満たそうとするのだが、やはりどこにも満足など見いだはせず、遂に神を見いだすことが叶わなかった老いた自らに思い至る。
 彼は自分の父ダビデが神を見いだして幸いだったのを見てきているから、「あなたの創造者を覚えよ」という言は、より切実なだろう。
 「俺のようにだけはなるな! お前は神を見いだせ、それもできるだけ早く!!」、そのような絶叫のように聞こえるのは、私だけだろうか。

 ダビデはなにしろ、あれだけ波瀾万丈の人生、その一生を、神と共に歩んだ。
 というよりか、幾度も裏切りに会うダビデは、神に頼るほかなかった。そして神を見いだしたダビデ。
 対して天下太平、繁栄の浮き世の中でマモニズムに身をやつし、気付くと神をついに見出せず、絶望的に叫ばざるを得なくなったソロモン。
 裏切りに次ぐ裏切り、周り中皆が敵、そのさなかにあって孤独から程遠かったであろうダビデ。
 対して、1000人の女、あまたの部下、子どもたちの中に囲まれ、孤独の極みを痛感したであろうソロモン。
 「何の喜びもない」、このことばは、ずしりと重い。

 この「伝道者の書」(コヘレトの言葉)というのは、マモニズムに首をつっこんでもそこには見事に何もない、ということがはっきりと分かったならば「ご卒業」、そういう類の書物だと思う。
 そして「卒業」できるかどうか、これは、とても大きい分水嶺ではなかろうか。


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 ほんじつの記事は、昨年9月16日の第一の記事に大幅な修正を施したものです。


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栄華

 「恐れるな。人が富を得ても、
 その人の家の栄誉が増し加わっても。
 人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、
 その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。
 彼が生きている間、自分を祝福できても、
 また、あなたが幸いな暮らしをしているために、
 人々があなたをほめたたえても。
 あなたは、自分の先祖の世代に行き、
 彼らは決して光を見ないであろう。
 人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、
 滅びうせる獣に等しい。」(詩49:16-20)

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 「栄華」というのは、マテリアルな世界、マモニズムの世界。
(「富」をアラム語で「マモン」という。)

 「悟り」があると、今まで「栄華」だと思っていたものが、ちりあくたにすぎないことが実感できるはずだ。
 最晩年のパウロをして、次のように言わしめた。
 「私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」(ピリピ3:8)

 人の富や栄誉、さらには自分自身の「幸いな暮らし」も、「悟り」がないならば意味も味わいもない。
 「悟り」、それは「気付き」だ。
 もちろん、罪への気付き。
 そして、その罪からの解放、これのみが、本質的にはたったひとつ、大切なものだ。
 罪から解放されて、富や栄誉はどうでもよく、自分の暮らしぶりすら副次的なものとなってゆく - そんなところに「いのち」はないから。

 「また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」(マタイ13:45-46)

 この聖句のとおりだ。


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取税人のように扱え

 「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。
 それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」(マタイ18:15-17)

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 罪人に、その罪を責め立てよ。
 彼が聞き入れないならば、ひとりふたり連れてきてなお責め立てよ。
 それでも聞き入れないならば、教会に告げよ。
 その教会の言うことさえ聞き入れないならば、「彼を異邦人か取税人のように扱いなさい」。

 かくして罪人は村八分される。
 嫌悪され、無視され続ける。
 この罪人はその最果てに、自らの罪をまじまじと見つめることとなる。
 だから、イエスの仰った「彼を異邦人か取税人のように扱いなさい」というのには、とても大きな神の愛を感じる。
 人は、この類の追いつめられ方(しかも神が追いつめるのであり自分では選択できない)でしか、罪( sin )に触れることはできないのだから。

 この道を切り開いた人が、イエスだ。
 イエスの十字架への道、人々から忌み嫌われ、つばきをかけられる。
 最高刑・十字架に死んで、そして復活する。
 罪( sin )への気付きと回心への唯一の道、そのひな形がこの十字架の道だ。


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迷子の自覚

 「あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
 そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。」(マタイ18:12-13)

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 迷った一匹の羊は、無事見いだされた。
 大きな喜びが沸き起こる。

 この羊は、自分が迷子だということを自覚していただろう。
 迷っているが故に、さらに袋小路にはまってしまっていた。
 そのどんづまりのところまで来て、ここで救出される。

 残りの九十九匹というのは、「迷わなかった」のだろうか。
 あるいは、迷っているにもかかわらずそのことにまだ気付いていないだけなのかも知れない。
 座標の原点は、イエスだ。ここに旗がはためいている。
 九十九匹の目に、その旗はきちんと見えているだろうか。
 一匹は旗が見えなくて困り果てていたことが、異なる点だ。


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失って得る

 「アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。
 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」(創22:6-12)

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 齢百歳にして生まれたかわいい我が子、イサク。
 神はアブラハムに、このイサクをささげよ、と仰る。
 そして、今日の聖書箇所のようになった。

 アブラハムはイサクを失ったのだ。
 しかし、得た。
 たいせつなものというのは、失って、そして得るもののような気がする。
 しがみついて離さないでいると、だめになってしまう。
 失うと、得る。
 これはイエスが死んで復活したのと同じではないか。

 「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

 失って、得る。
 私たち自身についても、まったく同様なのだ。

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笛を聴いて踊る

 「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」(マタイ4:23)

 「この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』
 ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」
 それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。
 「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。
 カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。」(マタイ11:16-23)

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 バステスマのヨハネやイエスが、福音を携えて、宣べ伝えた。
 だが人々はヨハネをあげつらい、イエスをもあげつらう。
 この人々は「笛を吹いても踊らない」人々だ。

 マタイ福音書でのイエスは人間味にあふれていて、「笛を吹いても踊らない」人々への怒りを発する。
 イエス御自身が福音伝道と数ある奇跡を行われたガリラヤの街々を、責める。
 ガリラヤの街々は、有史以来初めてのものを見聞きした。
 それにもかかわらず「踊らない」。
 カペナウムよりも、あの姦淫の街ソドムのほうが、まだずっとましで、その日にはまだ罪が軽い、という。
 ソドムはイエスを知らなかったが、カペナウムはイエスをよく知っていた。
 その上で、カペナウムは「踊らなかった」。

 イエスを知ったならば、それにつられて「踊る」必要がある。
 というより、自然と「踊る」はずだ。
 イエスを知らないので「踊らない」人々というのは、たくさんいる。
 本人は知っていると思っているから厄介だ。
 そのような人々の中には、飲酒の根拠として上の引用箇所中の19節だけをもってきて、「イエスが大酒飲みと言われているのだから、自分も酒を飲んでよい」とやる(これは何人も知っている)。
 飲酒は全くもって自由だと思うが(天の基準は知らない)、そんな読み方ではイエスを知ることなどできようがない。

 まずはイエスを知ることからだ。
 ガリラヤの人々も、これだけ間近にイエスを見ていて、まるでイエスを知ることがなかった。かえってあげつらう始末だ。
 今のこの時代にも、細々と聖書が遺されている。イエスを知ることは、神のあわれみがあるならかんたんだ。

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主を愛せよ

 「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」
 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」
 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」(マタイ4:1-10)

---

 イエスがサタンの誘惑に遭う箇所。
 イエスが仰った3つのお言葉がいずれも申命記からだということは、あっちに置いておこう。

 「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」
 人はパンだけでは、生きることができない。
 今日のパンもない人というのが日本も含めた世界中におおぜいいて、その人々にとっては、まずはパンだ。
 ただ、では彼らがパンに満ち足りるとハッピーになるかといったら、残念ながら全くそうではない。次を求め出すからだ。
 その証拠に、大部分の日本人はハッピーだろうか? アメリカ人は?

 イエスがここで仰るには「神の口から出る一つ一つのことば」、これこそが真に満たしてくれるものなのだろう。
 私たちには、それが凝縮されて一冊の書物となった聖書が与えられている。
 この聖書に接すると、世の中の事象(散歩のさなかでもテレビをみながらでも何でもよい)が「聖書の角度」から視ることができるようになる。
 「世の中に、神の口から出る一つ一つのことばがきらきらしている」、とでも言おうか。
 神がこの世をお造りになり、そしてこの世を愛されているのだから、当たり前といえば当たり前だ。

 そして、「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」。
 「主にだけ仕えよ」。
 主人や上司がいてはいけないとか、そんな意味などではない。
 彼らに体は仕えつつ、心はいつも主に仕えている、そういう意味だろう。
 「心がいつも主に仕えている」ということは、説明不要だろうが、似て非なる言葉として、「良心に従う」というのがある。

 もうひとつ、「主を試みてはならない」、これは端的に不信だ。

 そうすると、サタンの誘惑の中でイエスが表明し続けたことというのは、神の口から出る一つ一つのことばをもっぱら大切にし、主を拝み仕え、その主を試みない、つまり、このマタイ福音書の後半で出てくる「主を愛せよ」(マタイ22:37)ということだけだ。
 イエスは、「主を愛せよ」の完徹によってサタンを退けた。

 私たちにイエスのような誘惑がくることは、まずない。
 だがイエスは率先して「主を愛せよ、だけ」という基本姿勢を教えてくれた。
 さあ、姿勢を正して街中に出よう。


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パウロの回心記録

 「そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ7:21-25)

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 ロマ書7章、ここを僕はどれほど親しんだことか。
 なんといっても、「律法? そんなの守れるはずがないじゃないか」、そう開き直るための理論武装として悪用するには恰好の箇所なのだから。
 昔日私が教会に入り浸っていた頃に、「聖書の中でどこが一番好きか?」というお題での「分かち合い」なる名のミーティングが持たれ、そのとき私はロマ書7章だ、と言った。
 するとある人が「…暗いところが好きなんですね」と言っていたのは、今も不思議とよく覚えている。

 ところで、私の性格の最大の難点は完璧主義である。
 これは治らない。「馬鹿は死んでも治らない」の謂いと全く同様である。
 「完璧な世界」を、どこまでも追い求め続けていった。
 そして実に、「完璧な世界」、その究極こそ「神の律法」である、そう気付いたのは、やはりつい最近のことであり(こちらを参照)、これを前にすると、ただただ叩きのめされるしかない「いと小さき醜き我」を嫌と言うほど味わい続けるのみであり、それでもやはり律法にあこがれ続けては、また打ちのめされ、……それを繰り返し続けつつもなお、「完璧さをあこがれては打ちのめされ続ける醜い自分」と親しくお付き合いして日々やってゆくのだろうと、今はそう思っている。

 …パウロも、あるいはそうであったのではあるまいか?
 そう仮説を立ててのち、昔親しんだロマ書7章を、しかし昔とは全く異なる読み方をもって斜め読みした。
 確かに昔日ある人が言ったように、「暗い」箇所だ。
 暗くて当たり前とも思う。
 この箇所は、パウロの「ざんげ録」、その類のように読み取れるのだが、いかがであろうか。
 「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」、かつてのパウロは、本当に心からそう叫んだであろう、そう勝手に想像している。
 そして、下の記事・ヨブ記と全く同様に、パウロも「ある一点」を、「ここ」で迎える。
 「そこ」については、パウロは「沈黙」という手法を用いて、雄弁に語っているように思える。
 そして、突然、全く唐突に「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」という、あふれんばかりの感謝の念の表明に切り替わる。

 文章として単に読み進めてゆくと、ここは実に、「文脈」など、ものの見事に、全くつながっていない。
 このこと自体については、前々からやはり謎ではあったが、その「謎解きもできた」、そう思うのは、いささかはやりすぎかとも、また思う。
 「つきつめた苦悩の叫び」。
 「沈黙の一点」。
 「歓びわきあがる、感謝の念」

 そのように綴り上げたのではなかろうか、そう想像する「パウロの回心記録」、その論拠は、ロマ書7章の中でも、上に挙げた聖書箇所だけで十分かと、今は思う。
 「一点」すなわち回心は、イエスに付き従ってさえいれば、誰にでもあることだ。しかも、遠い未来の約束というわけでもない。

 「回心」と「新生」のどちらの用語を用いようか、それは考えて、……だが考えることを放擲して、「サイコロで半と出たので」、「回心」の方を採ってみたにすぎないことを付記しておく。


[お断り]
 本日の記事は、昨年9月17日の第二の記事に大きく修正を施したものです。
 「編集作業」も、これで終わりました。
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ヨブ記のすごみ

 「あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。
 あなたには神のような腕があるのか。神のような声で雷鳴をとどろき渡らせるのか。」(ヨブ40:8-9)

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 あれやこれやと「頭の中の整理作業」をしていったさなか、きらめきが一層まばゆいほどだった旧約の書物、それはなじみの詩篇ではなくヨブ記だった。
 それで少し前に、ヨブ記を斜め読みしていた。

 ヨブ記。
 この大部作を何度読んでも、もののみごとにさっぱり訳が分からない。
 何人もの人物が登場するのだが、ヨブも含めてどの人の言っていることにも一理あるように思えて、するとこの書物は何を言いたいのか、ますますさっぱり分からなくなってしまった。

 さてここで、ヨブ記のプロットを、ここに記そうと思う。

 1章:幕開け
 2-31章:四人の友とヨブとの「とんちんかんなやりとり」
 32-37章:エリフ乱入、滔々とヨブに「説教」
 38-41章:神が孤独なヨブを容赦なく「メッタ斬り」
 42章:ヨブの「真の悔い改め」、そして幕引き

 冒頭の聖句は、上に書いた神の「メッタ斬り」、その中でも、これが際だって情け容赦ない! そう私が感じた箇所だ。
 この厳父・神と対峙して、一体誰が耐えられようか。

 そしてヨブは「一点」、そこで、「真の悔い改め」に至る。
 この「一点」までの、その長いこと長いこと。
 もっぱらそのことを綴った書物、それがヨブ記であり、一言一言の解釈それ自体というのはどうでもよい、今の私はそう理解している。
 「たったひとつのこと」を説明するがための大部作、それがヨブ記だ。

 四人の友と「とんちんかんなやりとり」をやっている頃のヨブは、言われるとかえってかたくなになってしまう。
 一箇所だけ取り上げて例証するならば、「ヨブはまた、自分の格言を取り上げて言った。」(27:1)。
 「自分の格言」。
 しかしヨブは、ここを通り抜け「一点」を迎えて、生まれ変わった。

 振り返って、主な登場人物。
 ヒーロー:ヨブ。
 脇役:四人の友、エリフ。
 ヒロイン?:厳父・神
 どーでもいい人:ヨブの妻(2:9)。

 このヨブ記を丹念に読むということは、今後私はしないだろう。
 だが、今の私はヨブ記を最も身近なパートナーだと位置づけている。


[お断り]
 本日の記事は、昨年9月17日の第一の記事に大きく修正を施したものです。
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内村鑑三に見る回心

(1)
 「しかし余の回心は多くの回心者のそれよりももっと頑固なものであった。エクスタシー、突如たる霊的イルミネーションの瞬間は皆無ではなかったけれども、余の回心は遅々として暫時に進行した。余は一日で回心しなかったのである。
(内村鑑三著、鈴木俊郎訳、「余は如何にして基督教徒となりし乎」、岩波文庫版の p.7 、「序」)

(2)
「 ……
 第二章 基督教に接す
 第三章 初期の教会
 ……
 第五章 新教会と感傷的基督教
 第六章 基督教国の第一印象
 第七章 基督教国にて - 慈善家の間にて
 第八章 基督教国にて - ニュー・イングランドのカレッジ生活
 ……」
(同本、目次から)

(3)
 「4月5日 復活日の日曜、美しき日。霊は力を与えられ、余の生涯において初めて、天と不死とをかいま見た! ああ、その歓喜は測り難い! このような聖なる歓喜の一瞬間は、この世が与え得るあらゆる歓喜の数年分に値する。……。」
(同本第七章 p.145 において引用された日記)

(4)
 「3月8日……「キリスト」は余の全ての負債をお支払い下さり、余を堕落以前の最初の人の清浄と潔白とにお返し給うことを可能にされた。」
(同本第八章 p.163 において引用された日記)

(5)
 「余はそこで、故国で洗礼を受けてから約十年の後に、本当に回心させられた、すなわち向きかえさせられた、のであると信ずる。」
(同本第八章 p.179 )

(6)
 「9月20日 A(註:アマースト・カレッジ)における最後の日。- 非常に印象的な日。余は過去2年間ここにおいて遭遇した多くの闘争と誘惑を思った。余はまた神の御助けによって余の罪と弱点を克服し得た多くの意気揚々なる勝利と、彼より来りし多くの輝かしき啓示とを思った。実に、余の全生涯は新しい方向に向けられ、そこにおいて余は今や希望と勇気とをもって進むことができるのである。」
(同本第八章 p.181 において引用された日記)

---

 まず始めにお断りしておきたい。日記部分は、文語体を私が翻訳している。そもそも翻訳すべきであったかどうかも疑わしいし、また、翻訳者としての資質を欠いていることをお詫びする(一箇所、全く自信のない箇所がある)。
 それでも暴挙を承知で口語訳化を試みたのは、わかりやすさが欲しかったからだ。


 さて、回心を扱ったこの本の中で、顕著に回心を認めることのできる最初の記述は(3)、アマースト・カレッジに入学するより前の「4月5日」でのことである。
 ある人格者の医者の元で働いていた内村鑑三は、労働のためでもなく、対人関係のためでもなく、ただ罪の問題に憔悴しきってしまい、その医者の勧めで職を辞した(カレッジへの紹介も、この医者の厚意ではなかったかもしれないが、うろ覚えだ)。
 この「4月5日」の記述は、それ以前とは顕著な相違が認められる。
 なにしろ歓び(それも突出して大きな)が綴られているのだから。

 この日以来、「回心的記述」(?)は増加し、その傾向は第八章(カレッジでの生活)でクライマックスを迎える。しかし上の引用では、三箇所だけに絞った。

 (4)は、コロサイ2:14 「規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。」(新共同訳)が念頭にあっての記述だろう。だが、聖句を字面で眺めるのと「心底実感」するのとでは全く違う。
 また「3月8日付」の日記であるから、(3)の約1年後に記載されたことになる。

 (5)は、「洗礼を受けてから約十年の後に、本当に回心させられた」という下りに、大きな意義を見いだす。また、(1)にあるように、「余は一日で回心しなかったのである」。
 さて、わざわざ(2)の目次を引用したのは、鑑三は札幌で洗礼を受け国内教会活動に尽力していた時期があったことを傍証したかったからである。
 回心から程遠かったがそれを心から願った時期と言えばよいのであろうか。
 渡米の理由も、回心、ただその一点に尽きる。

 「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)

 まさに求めれば与えられる。鑑三もそのように、求め続けて歩んだ。
 そして、「ほんとうに欲しいもの」によって、彼の場合は徐々に満たされてゆく。

 最後にカレッジ卒業の日、その日の日記が(6)である。
 「戦いの収束」、この一言で済むかと思う。
 鑑三の回心には数年を要した。(6)の日記文は、その「期間の終結」についての確信のように思える。
 鑑三は以前から割合に子細な日記を記していたので、このように「期間を計測」することができた。
 それよりも、鑑三の慎重さに目を向けたい。
 例えばカレッジ前の(3)、「4月5日 復活日の日曜、美しき日。霊は力を与えられ、余の生涯において初めて、天と不死とをかいま見た! ……」の体験のみをもって、自分はすっかり回心した、そう自認したとしても、なんらおかしくはないからだ。

 以上、「余は如何にして基督教徒となりし乎」から、内村鑑三の回心について、幾つかの事柄について書いてきた。
 もう一つ、かねがね思っていることがある。
 ここは重複を厭わずに、再び引用する、

(4)「3月8日……「キリスト」は余の全ての負債をお支払い下さり、余を堕落以前の最初の人の清浄と潔白とにお返し給うことを可能にされた。」
(5)「余はそこで、故国で洗礼を受けてから約十年の後に、本当に回心させられた、すなわち向きかえさせられた、のであると信ずる。」

 「回心」と大仰に称されているものは、「向きかえさせられた」、すなわち「堕落以前の最初の人の清浄と潔白」へと向きが変わるということだ。
 言い換えると「罪の赦し、その『深い実感』」が「回心」だ。
 なるほど、この罪の問題を解決した「回心者」は、偉大なことを為しやすいだろう。
 「こころの中の邪魔者」がないから。
 ルター、アウグスティヌス、内村鑑三……。
 しかし、「偉大なことなど」する必要などないといえば、またそうであるはずだ。
 ひとり神のそば近く生きる、やはり「こころの中の邪魔者」なき回心者、この人は無名のまま、実に静かな生活を送り続け、そして天に召される。
 おそらくは初代教会以来、両者比して前者よりも後者の方が遙かに多かったに違いないことは、想像に難くない。
 「回心の未来」をこのように二分して考えることは、少しく有益と思う。
 そして偉大な人物たることを全く望まずとも、回心を心の底から求めることは、その人に決定的な影響、即ち芯からの罪の赦しを与えるに違いない(上述マタイ7:7)。

 大切なこと、それは、芯からの罪の赦しそれ自体である。


[お断り]
 本日の記事は、去年12月23日の記事に少々修正を施したものです。
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