原点

 「イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。
 それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。
 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」
 イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:14-17)

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 何年前だろう、この聖書箇所が理屈をはるか超えて「入ってきた」のは。
 そのとき以来、私は Levi を名乗り続けている。
 マタイでもザアカイでもなく、なぜか私には「レビ」が入ってきた。
 この聖書箇所はそういうわけで、いわば私の原点だ。

 レビたちは、「こういう人たち」という種別をされている。
 「こういう人たち」は、イエスにつき従っていた。
 そのイエスは、彼らと食卓を共にする。
 律法学者たちは、そんなイエスを責める。
 律法学者らは、「こういう人たち」と共に食事をすること自体が、信じがたい行為だと思っている。

 律法学者たちは社会的マジョリティーで、「こういう人たち」というのは社会的に非常にマイナーな存在だ。
 しかし、イエスは次のように仰っている。

 「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」(マタイ21:31-32)

 メジャーかマイナーかは、全く問題ではない。
 問題なのは、自身の罪、その自覚の有無だけだ。
 そして自身の罪ゆえにイエスに癒してもらう必要のある病人であると認め、そうしてイエスのもとに行く。
 レビのように。
 マタイやザアカイのように。

 その自覚が、「信じる」ということの大きな部分を占めていると思っている。


[お断り]
 本日の記事は、今年5月29日の記事に少なからぬ修正を施したものです。
  「編集作業」もおおかた片付きました。もう少しです。
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