パウロの回心記録

 「そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ7:21-25)

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 ロマ書7章、ここを僕はどれほど親しんだことか。
 なんといっても、「律法? そんなの守れるはずがないじゃないか」、そう開き直るための理論武装として悪用するには恰好の箇所なのだから。
 昔日私が教会に入り浸っていた頃に、「聖書の中でどこが一番好きか?」というお題での「分かち合い」なる名のミーティングが持たれ、そのとき私はロマ書7章だ、と言った。
 するとある人が「…暗いところが好きなんですね」と言っていたのは、今も不思議とよく覚えている。

 ところで、私の性格の最大の難点は完璧主義である。
 これは治らない。「馬鹿は死んでも治らない」の謂いと全く同様である。
 「完璧な世界」を、どこまでも追い求め続けていった。
 そして実に、「完璧な世界」、その究極こそ「神の律法」である、そう気付いたのは、やはりつい最近のことであり(こちらを参照)、これを前にすると、ただただ叩きのめされるしかない「いと小さき醜き我」を嫌と言うほど味わい続けるのみであり、それでもやはり律法にあこがれ続けては、また打ちのめされ、……それを繰り返し続けつつもなお、「完璧さをあこがれては打ちのめされ続ける醜い自分」と親しくお付き合いして日々やってゆくのだろうと、今はそう思っている。

 …パウロも、あるいはそうであったのではあるまいか?
 そう仮説を立ててのち、昔親しんだロマ書7章を、しかし昔とは全く異なる読み方をもって斜め読みした。
 確かに昔日ある人が言ったように、「暗い」箇所だ。
 暗くて当たり前とも思う。
 この箇所は、パウロの「ざんげ録」、その類のように読み取れるのだが、いかがであろうか。
 「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」、かつてのパウロは、本当に心からそう叫んだであろう、そう勝手に想像している。
 そして、下の記事・ヨブ記と全く同様に、パウロも「ある一点」を、「ここ」で迎える。
 「そこ」については、パウロは「沈黙」という手法を用いて、雄弁に語っているように思える。
 そして、突然、全く唐突に「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」という、あふれんばかりの感謝の念の表明に切り替わる。

 文章として単に読み進めてゆくと、ここは実に、「文脈」など、ものの見事に、全くつながっていない。
 このこと自体については、前々からやはり謎ではあったが、その「謎解きもできた」、そう思うのは、いささかはやりすぎかとも、また思う。
 「つきつめた苦悩の叫び」。
 「沈黙の一点」。
 「歓びわきあがる、感謝の念」

 そのように綴り上げたのではなかろうか、そう想像する「パウロの回心記録」、その論拠は、ロマ書7章の中でも、上に挙げた聖書箇所だけで十分かと、今は思う。
 「一点」すなわち回心は、イエスに付き従ってさえいれば、誰にでもあることだ。しかも、遠い未来の約束というわけでもない。

 「回心」と「新生」のどちらの用語を用いようか、それは考えて、……だが考えることを放擲して、「サイコロで半と出たので」、「回心」の方を採ってみたにすぎないことを付記しておく。


[お断り]
 本日の記事は、昨年9月17日の第二の記事に大きく修正を施したものです。
 「編集作業」も、これで終わりました。
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