約束のもの

 「イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。
……
 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
……
 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 」
 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。
……
 そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」(ヨハネ4:6-7,13-14,17-19,42)

---

 先日、新聞で小さい仏像の宣伝を見た。
 またこの手か、と思いつつ眺めていると、この仏像には開運なんとか商売繁盛云々かんぬん、あわせて十の御利益がございます、というものであった。
 聖書は、この類の御利益を、ものの見事に全く約束していない。
(キリスト教系には、病気の治癒(いやし)を表看板に出す一群が存在するが、この表看板には警戒すること。)

 新約が約束するもの、それはひとこと、「いのち」だ。
 そしてこの「いのち」は、あるいはあすにでも授かることがかなう類のものだ。
 そのことを思い、上にヨハネ第4章「サマリアの女」の骨格を抜き出した。

 この女の前歴、それは「夫が五人あった」。
 すなわち、とっかえひっかえ、5人の男と結婚しては離婚してを繰り返して、しかし満足を得られず、そうして今は「6人目の男」と同居中、そういう、正に「底なし沼の欲望女」なのである。
 それでもどうにも満ち足りない。
 この状態をこそ「死んでいる状態」だ。

 しかしこの女は、イエスに出会う。
 話は飛んで最後、人々の方からこの女に、「この方がほんとうに世の救い主だと知っている」と話しかけてくる。もちろん、喜びの表情で。
 サマリアの女は、「渇かない水」(いのち)を得た。

 イエスが約束するものは、実に、この「いのち」である。
 「御利益」ではない。
 むしろ「御利益」とは逆のものかも知れない。
 「御利益」、それは、人を「いのち」から遠ざけてしまうものだから。

 サマリアの女は、男を何人も取り替えていたのだから、ある意味「モてた」のかもしれない。
 だが彼女は「モてた」から、さいわいだったか? 心満たされていたか?
 取税人レビ(マルコ2:14)は、イエスの招きに応じて、すぐさま全てを捨てて従った。
 取税人の頭で金持ちのザアカイ(ルカ19:2)、彼がイエスを求めるさまは、こっけいですらある。それほどまでに、イエスによるさいわいを求めていた。
 カネもまた、心満たす何物も有していない。
 彼らはみな、多大な「御利益」にあずかっていた人々だ。そして皆、「死んでいる」状態にあった。

 ほかの何物によっても埋めようのないもの。
 そして、それがあれば、もうなにも必要ないもの。
(参/マタイ13:44-46)
 それが、「いのち」、イエスが下さり聖書が約束するものだ。
 イエスはもっぱら、「死んでいる状態」の人間に「永遠のいのち」をの約束を与えるがために来られた。
 しかも、気が遠くなるほどかなたの約束というわけでもない。
 サマリアの女は、すぐ約束のものにあずかった。
 レビもザアカイも、約束のものにあずかった。


[お断り]
 本日の記事は、昨年9月21日の記事と今年1月29日の記事を元に、書き改めたものです。
 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

原点

 「イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。
 それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。
 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」
 イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:14-17)

---

 何年前だろう、この聖書箇所が理屈をはるか超えて「入ってきた」のは。
 そのとき以来、私は Levi を名乗り続けている。
 マタイでもザアカイでもなく、なぜか私には「レビ」が入ってきた。
 この聖書箇所はそういうわけで、いわば私の原点だ。

 レビたちは、「こういう人たち」という種別をされている。
 「こういう人たち」は、イエスにつき従っていた。
 そのイエスは、彼らと食卓を共にする。
 律法学者たちは、そんなイエスを責める。
 律法学者らは、「こういう人たち」と共に食事をすること自体が、信じがたい行為だと思っている。

 律法学者たちは社会的マジョリティーで、「こういう人たち」というのは社会的に非常にマイナーな存在だ。
 しかし、イエスは次のように仰っている。

 「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」(マタイ21:31-32)

 メジャーかマイナーかは、全く問題ではない。
 問題なのは、自身の罪、その自覚の有無だけだ。
 そして自身の罪ゆえにイエスに癒してもらう必要のある病人であると認め、そうしてイエスのもとに行く。
 レビのように。
 マタイやザアカイのように。

 その自覚が、「信じる」ということの大きな部分を占めていると思っている。


[お断り]
 本日の記事は、今年5月29日の記事に少なからぬ修正を施したものです。
  「編集作業」もおおかた片付きました。もう少しです。
 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

あがない

 「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。」(ローマ3:21-25)

---

 創世記、ノアの洪水が収まったあとの箇所に、こうある。

 「ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。
 主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。」(創8:20-21)

 「人の心の思い計ることは、初めから悪」。
 ノアがささげた全焼のいけにえのかおりをかがれた神は、「すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい」と思い直す。

 人は悪いことばかり考えていて、しかしうしろめたくて、事ごとにいけにえをささげ続けたのだろうか。
(いけにえの規定は、特にレビ記に細かく記載されている。)
 ところが神であるイエス御自身が、「十字架」という形でいういけにえになられた。
 「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました」。
 イエスは「なだめの供え物」となられた。
 そうして「キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められる」。

 たぶん相変わらず、人は悪いことばかり考えている。私だって、そうだ。
 だが、「価なしに義と認められ」ているので、もう「全焼のいけにえ」をささげる必要は、全くない。
 いけにえをささげ続けることからの解放。
 いけにえをささげて赦してもらおうとする儀式からの解放。
 ある種のうしろめたさからの解放。
 そのことを指して「贖い」というのかも知れない。


[お断り]
 本日の記事は、今年6月5日の記事に少なからぬ修正を施したものです。
 
 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

罪と恵み

 「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。
 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」(ローマ5:20-21)

---

 「恵み」。
 私はこの言葉が指し示す概念が分からなかった。
 それでこの語句を用いることを、意識して避けていた。
 今だって、はっきり分かったなどとは全く思っていない。
 うっすらと見えかけてきた、というところだろうか。

 ところであれは何年前のことになるだろうか。
 日光(鬼怒川?)にあるキリスト教施設?? そこの常駐牧師がこう言った。
 「ここは『たまり漬け』が名物ですが、いやあ、正に『恵み漬け』で……」。
 これだけアホな発言だったから、今でもはっきりと覚えている。
(その牧師の顔は全く覚えていない。)
 思ったものだ。「それって、心地よかったとか、充実していたとか、爽やかだったとかいうのと、いったい何が違うというのだ…」。
 この「牧師発言」が、私の「『恵み』って何さ?」ということの原点になった。
 それで「恵み」という言葉は分からない、と、やり続けた。

 その……なんだかんだとあってぐちぐち言ったり感情の起伏が大きかったり云々かんぬんしていても、そのさなか、ふと、しんからほっと一息つける。
 これは、「恵み」と言っていいのだろう。

 「満ちあふれている」かどうか、それは知らない。
 ここに量りはない。

 そして、これはそうだと思うのは、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」という箇所。
 罪の自覚が累積してゆくと、あるところで神の恵みを受けることができる(または、恵みに与りやすい)。
 罪、それは律法に照らし合わせて自覚される。
 声を大にして言いたいが、自分自身が判断主体だ。
(そのために、主は聖書を下さっておられる。)
 というよりか、自分自身で気付かざるを得なくなる。
 十字架が大きく大きく迫ってくる瞬間だ。
 だから、罪と恵みとが対置される。
 更に言えば、罪と恵みとは、「イエスの十字架」という接着剤によってはじめて対置される。
 「罪が死によって支配したように」とあるように、罪は「死」を武器としてその人に働くから、その人は十字架のイエスと共に、死ぬ。
 そして、復活し、恵みのうちにその人は生きる(参/ローマ6:4-5)。


[お断り]
 本日の記事は、今年5月28日の記事に少なからぬ修正を施したものです。
  「編集作業」も、峠は越えています。
 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

主を畏れる

 「主は御自分の民に贖いを送り
 契約をとこしえのものと定められた。
 御名は畏れ敬うべき聖なる御名。
 主を畏れることは知恵の初め。
 これを行う人はすぐれた思慮を得る。
 主の賛美は永遠に続く。

 ハレルヤ。いかに幸いなことか
 主を畏れる人
 主の戒めを深く愛する人は。」(詩111:9-112:1新共同訳)

---

 上の聖書箇所は、ぱらっとめくれた箇所。
(違う詩をまたがって引用するのも、どうかと思うが。)
 どちらの詩にも「主を畏れる」とある。

 「主を畏れる人」、それは行いの人ではない。
 行わないことを恐れることは、「畏れる」とは似て非なるものだ。
 いや、全く異なる。行いの人が恐れるのは、人の目にすぎない。

 では主をなぜゆえに畏れるのか。
 それは、主は私に「お前は罪を犯した」と告げ知らせ、それどころか、いやが上にもそのことを自覚せざるをえない立場に追い込むからだ。
 そのために主がお使いになる道具が「戒め」、即ち律法だ。
 律法群に追い込まれてここに至ると、もう逃げ場はない。主は恐ろしい。自分の義など、どこにもない。

 ところが、この境遇に追い込むことが(「行い」へと走らせるのではなく)「恵み」へと化す。
 「主は御自分の民に贖いを送り
 契約をとこしえのものと定められた。」
 すなわち、イエスの十字架というあがないだ。
 このあがないによって、罪赦される。

 「ハレルヤ。いかに幸いなことか
  主を畏れる人」
 このように、罪を赦してくださった方、このお方を畏れる。
 十字架の御業によって、心底助かったから。
 その恵みがあまりに大きかったから。
 「主を畏れる」とは、こういう意味のように今は思っている。

 その人はなおも「主の戒めを深く愛」し続ける。
 戒めを守ることなど、到底無理だ。そのことに心底気付かされて、そうしてあがなわれた。
 だからその人にとっての「戒め」というのは、記念写真のようなものだ。
 なくてはならない大切なものなのだけれども、決して手の届かないもの。
 こうしてここに書いていることが「すぐれた思慮」に基づいたものなのかどうかは、ご判断頂きたい。

 「主の賛美」は、いのちある限り「永遠に続く」。


[お断り]
 本日の記事は、今年6月10日の記事に少なからぬ修正を施したものです。
  もうすこし「編集作業」は続きます。
 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

罪の奴隷

 「それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。
 あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。
 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」(ローマ6:15-18新共同訳)

---

 「あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです」。
 まあ「従順の奴隷」、「義の奴隷」というのは修辞(レトリック)でしかないが、ともかくも、「罪の奴隷」状態からは解放されると、そのように表現される地点へと抜け出る。
 ここにいう「罪」も、もちろん sin 。
 「恵みの下」にある人は、そもそも「恵みの下にあるのだから罪を犯そう」という発想自体、ない。
 なぜなら、「罪の奴隷」ではないから。
 解放されたのだ。「逃げ道」をあれこれ考える必要なんか、ないじゃないか。

 sin の奴隷、自分がこういう状態であることに、そもそも気付きもしない人が大勢いる。
 「罪」を言う割には「的はずれ」は人も、たくさんいる。
(教会では、「罪」は「的はずれな状態」だと教えると分かりがいい、とされる。)
 私も、うまく説明できず、悪戦苦闘している。演繹的には、無理だろう。

 ただ言えるのは、sin に気付き、それが赦されていることを知ると、あんなにも重かった重しがすっと消えてなくなるということだろう。
 「伝えられた教えの規準」とは律法ではなく、イエスの福音についての教え。
(そうでないと、各福音書との整合性がとれない。)

 「罪の奴隷」から自力で脱走することはけっしてできない。
 イエスの死という莫大な対価が支払われたこと、その本質が迫ってきたときに、足下のくびきが腐り始める。


[お断り]
 本日の記事は、今年6月17日の記事に少なからぬ修正を施したものです。
  「編集作業」がもうしばらく続きます。
 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

罪の下

 「では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
 それは、次のように書いてあるとおりです。
 「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」
 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
 「彼らの足は血を流すのに速く、 彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」
  「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」(ローマ3:9-18)

---

 今日の箇所は、「恵み」を引き出す、その直前の箇所。
 旧約聖書から様々な「罪の下」をリストアップしてゆく。
(やろうと思えばリストは幾らでも膨れあがるだろう。)

 これらはみな、フックだ。
 ひっかかってもらわないと困る、そういうフック。
 ひっかけて罪に気付かせ、そして罪の赦しという恵みへと招待したい。
 そのための、まずは罪の下にいることに気付かせたい、そういうフック。
 赦し、あわれみ、また恵みについては、このロマ書3章の後半で書かれている。
 その後半で、引っかかったフックから外してもらえる。

 いったんフックに引っかかってそこから落ちる先は、恵み。
 箸にも棒にもかからなくて落ちた先は、……。


[お断り]
 本日の記事は、今年6月11日の記事に少々の修正を施したものです。
 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

神のように

 「そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」(創3:4-7)

---

 「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」(創2:17)と神はアダムに仰った。
 その実について、蛇がエバをそそのかしているのが上の聖書箇所。

 「あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり」。
(新共同訳や口語訳は、ニュアンスが違う。)

 神のように……。
 これは罪 ( sin ) の言い換えではなかろうか。
 そして、人に「死」が入った。神の仰ったとおりだ。
 人間は畢竟、「神のように」を指向する動物だ。

 人間から「神のように」は、消えない。
 どうしたって、そこを指向する。
 ただ、「神のように」が赦される。
 消えないままに、赦される。
 イエスの十字架の死と復活によって。
 神の側が最高刑で死ぬのだ。

 パウロは次のように書いているが、そのとおりと思う。

 「すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」(1コリント15:22)


[お断り]
 本日の記事は、今年6月4日の記事に少々の修正を施したものです。
 「編集作業」はまだまだ続きますが、順番にやっております(日付順ではないです)。
 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

バステスマ(その2)

 「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(ローマ6:1-4)

---

 昨日も書いたが念のため。
 上の聖書箇所で書かれている「罪」 ( sin ) は、日本語でいう「罪悪感」とは全く関係がない。
 だからクリスチャン、イコール、品行方正、この偽善者的図式など、ぶっ壊してしまって良い。
(だからといって獣みたいに振る舞うのは、マナー以前の問題だ。)
 「悪いこと」というのは、民俗・文化ごとに様々だ。関西で「バカ」と言ったら許してくれない、というのがわかりやすい例だと思う。
 つまり、「悪いこと」というのは普遍的とまではいえない。聖書はこの「悪いこと」を「罪」とはしていない。昨日書いた単語では、これは guilty だ。
(この部分は、主にパウロやヤコブがお説教してフォローしている。)
 どこまでも、今ここで扱っているのは、 sin としての罪だ。

 話はそれ、またこれから書くことは勇気が要ることだが、書く。
 戦後ややして、日本のいくつかの教団が大戦中の戦時体制への協力について「悔い改め」をした。
 私も平和を志向する者だが、「悔い改め」てしまうから、私はやはりキリシタンにならざるを得なかった。
 なぜ、「あのときの協力は過ちでした」ではいけないのか。
 「間違いでした、反省します」で。
 そういう意味で使ったであろう「悔い改め」、これは、 sin に対する用語で、全く意味が違う。「反省します」と「悔い改めます」とは、意味が全く異なる。
 ところが、「悔い改めます」というのは「反省します」の教会用語だと思っている人がきわめて多い。
(実際自分もそうだった。)
 悔い改めというのは、滅多にさせてもらえない。ヨブだって一度だ。
 誰だって、あっても一度。
 実際私は、いやいやキリシタンになってしばらくして、全く偶然に(しかしおそらく必然的に)面と向かわざるを得なくなった。
 ただ私は、一般に教会が不要だとは、思ってはいない。

 さて。
 「罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう」。
 この一文が「悪いことをしてはいけない」という意味とは全く異なるということを書きたくて、前書きが長くなった。
 sin に気付くや、のたうち回る。
 のたうち回った挙げ句「キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです」とある、そのバステスマによって、イエスと共に死ぬ。
 これが「罪に対して死んだ」ということだ。
 「悪いことをしなくなった」ということでは、まったくない。
 「どうして、なおもその中に生きていられるでしょう」、その通りに、 sin は「その中」に埋葬されてしまった。
 イエスは復活した、これが福音だが、ここにも「キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをする」あり、字義通りそのままだ。

 共に死んでくださったイエスに悔い改め、復活のイエスと共に新しい歩みが始まる。

 外見上、何一つ変わっていない。
 欠点のひとつでも直ったわけでもない。一見全く変わっていない。
 しかし、真のバステスマを受けて、見えなかった重しが取れて新しく歩むことができるようになる。

 しばらく同じようなことを書き続けてきて、 sin を明快にしてゆけばよいのだろうということが見えてきたのは収穫だった。
(いつの日になる事やら。)


[お断り]
 本日の記事は、今年6月3日の記事に少々の修正を施したものです。
 「編集作業」はしばらく続きます。
 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ
 クリックしてくださってありがとうございます。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

 「罪 ( guilty ) 」と「罪( sin ) 」

 「そこで、彼らは全員が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。そしてイエスについて訴え始めた。彼らは言った。「この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかりました。」
 するとピラトはイエスに、「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」と尋ねた。イエスは答えて、「そのとおりです。」と言われた。
 ピラトは祭司長たちや群衆に、「この人には何の罪も見つからない。」と言った。」(ルカ23:1-4)

---

 ピラトは、 " not guilty " と言っている。
(ちなみに2つの英語聖書を調べたが、上のような言い回しでは書かれていない。)
 総督ピラトの仕事は、ローマ法に照らして適法か違法かを判断することだ。
 もっぱらローマの利益のために。

 ところで自分のことになるのだが、自分は どうやら" not guilty " のようだ。
 昨年9月、土砂降りの中クルマを運転していて、自転車を跳ねてしまったのだ。
 どんな事故状況だろうが、「重量則」の前には私が100%の加害者だ。
 まったく軽い事故で相手側にケガはなかったが、念には念を押して病院に行っていただく。捻挫も骨も、大丈夫だったようだ。
 こうして、粛々と事故処理をしたあと、お巡りによる調書作成が行われた。
 作成された調書は、検察に送られるとのこと。
 起訴されたら、その旨私に連絡が来る。
 不起訴処分だったら、何も連絡はない。
 つまり、自分が " not guilty " だと思えるのは、よほどして、ああ連絡はなかったなあ、どうやら大丈夫そうだ、という「感触」以上のもではない。
 昨年9月で今は6月、連絡は未だ来ないから、さすがに " not guilty " の感触で大丈夫だろう。
(お巡りは検察のアクションは2ヶ月くらい掛かる、と言っていたので。)
 自分が「罪」を犯しているかいないかがはっきりしないというのは、きわめて居心地の悪いことだった。

 さて、上の聖書箇所で、ピラトはイエスに、あっさりと " not guilty " の認定を下している。
 イエスが問題にしたいのは、 " sin " だ。
 しかし群衆も混じって、事は激しい憎悪の次元へと至っている。
 暴動が発生して自身の治世能力をローマ帝王に疑われると立場が危なくなるピラトは結局、もっぱらそのことのみを理由にイエスを十字架に付ける。

 上に、" guilty " は、有罪/無罪を告げてくれないことには、たとえ無罪であっても座りがはなはだ悪いことを書いた。
 ところが " sin " はそれと全く違って、日常的に犯しているのに、ちっとも本人は気付かない。
 教えてくれる「人」もまた、いない。
 祭司長というのは、その最たる存在だろう。
 パリサイ人・律法学者という人種は、他人の安息日違反という " sin " には感心するほど目配せができるくせに、自身のそれにはまるで気付かない。
 上の引用箇所で言えば、イエスを訴えている「彼ら」もピラトも、そのことは同様だ。

 そのような存在について、イエスは次のように仰っている。

 「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。
 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(マタイ7:3-5新共同訳)

 「丸太」も「おが屑」も、共に " sin " だ。
 " sin " は、どの人にもある。
 自分自身の "sin " に気付くかどうか、ここが別れ目だ。イエスが仰っていることも、このことだ。
 しかし、上にも書いたが、 " guilty " について忠告する人は多いが、 " sin " を教えてくれる人など、いない。
 このことについては、「そのためにこそ聖書がある」としか、言いようがない。
 自分の目の中の丸太( sin )、その存在にまず気付こう。

 " sin " に気付き、イエスに手当てしてもらって(比喩ではない)「うしろめたさ」(?? うまく言葉にできない)を拭い去っていただく。
 「罪からの解放」だ。

 最後に、「罪」、この日本語(というか、訳語)が厄介だ。
 何故 " sin " を " guilty " と同じ「罪」としたのか。
 イエスの仰る「丸太」、「おが屑」は、「罪悪感」の「罪」とは、まるで関係がない。

[お断り]
 本日の記事は、今年6月2日の記事に少々の修正を施したものです。
 ここのところ過去の記事を再掲載しているのは、編集作業とお考え下されば幸いです。
 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ 次ページ »