迷子の自覚

 「あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
 そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。」(マタイ18:12-13)

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 迷った一匹の羊は、無事見いだされた。
 大きな喜びが沸き起こる。

 この羊は、自分が迷子だということを自覚していただろう。
 迷っているが故に、さらに袋小路にはまってしまっていた。
 そのどんづまりのところまで来て、ここで救出される。

 残りの九十九匹というのは、「迷わなかった」のだろうか。
 あるいは、迷っているにもかかわらずそのことにまだ気付いていないだけなのかも知れない。
 座標の原点は、イエスだ。ここに旗がはためいている。
 九十九匹の目に、その旗はきちんと見えているだろうか。
 一匹は旗が見えなくて困り果てていたことが、異なる点だ。


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