備え

 「主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。
……
 そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
……
 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。
……
 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。
 すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
 二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」(マタイ24:45-46,25:1-4,13,19-23)

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 三つの例え話を強引に縮めて並べたことを、お許し頂きたい。
 この三つの例え話は、主題が共通している。
 「備え」ということだ。

 主人が留守でも忠実に働くしもべ、このしもべは、主人の帰りに備えている。
 賢い娘は、もしものために予備の油を備えていた。
 タラントは、個々人に神が備えてくださった能力を指す。

 「備え」の間、主人は不在である。
 さぼろうと思えばいくらでもさぼることができる。
 飲んだくれていたって、主人の目は届かない。
 だが、備えの油の力でタラント分の能力を発揮して、主人がいるときと同じように動く。
 そのことこそ、問われている。
 「目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」

 聖書は「もしも」が来ることを、しつこいほど繰り返す。
 ただ、それがいつかは、イエスですら知らないと仰る。
 今は、「主人がいないとき」だ。
 だから、今、「備え」について問われている。
 間違っても、「その時がいつか」が問われているのではない。


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