栄華

 「恐れるな。人が富を得ても、
 その人の家の栄誉が増し加わっても。
 人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、
 その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。
 彼が生きている間、自分を祝福できても、
 また、あなたが幸いな暮らしをしているために、
 人々があなたをほめたたえても。
 あなたは、自分の先祖の世代に行き、
 彼らは決して光を見ないであろう。
 人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、
 滅びうせる獣に等しい。」(詩49:16-20)

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 「栄華」というのは、マテリアルな世界、マモニズムの世界。
(「富」をアラム語で「マモン」という。)

 「悟り」があると、今まで「栄華」だと思っていたものが、ちりあくたにすぎないことが実感できるはずだ。
 最晩年のパウロをして、次のように言わしめた。
 「私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」(ピリピ3:8)

 人の富や栄誉、さらには自分自身の「幸いな暮らし」も、「悟り」がないならば意味も味わいもない。
 「悟り」、それは「気付き」だ。
 もちろん、罪への気付き。
 そして、その罪からの解放、これのみが、本質的にはたったひとつ、大切なものだ。
 罪から解放されて、富や栄誉はどうでもよく、自分の暮らしぶりすら副次的なものとなってゆく - そんなところに「いのち」はないから。

 「また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」(マタイ13:45-46)

 この聖句のとおりだ。


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